歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代⑧ ナカダ文化Ⅲ期 その4(先王朝時代の主要な都市・大集落)

前回、都市化について書いたが、今回は個別の都市あるいは「都市」一歩手前くらいの大集落について書いていこう。

ナカダ

ナカダ文化の由来となった地域。ナカダ文化初期の中心地。

古代エジプト名ではヌブトと呼ばれていたが、ヌブトとは「金」を表す語だ。

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出典:古代エジプト文明社会の形成/2006/p16

  • 上の図の西岸のコプトスの対岸にナカダがあった。

この図で重要なのはワディ・ハンママート(ワディ・ハママート)だ。ワディとは涸れ谷のことで、ここが東岸砂漠へのルートとなっている。ナイル川東岸は絶壁になっているところが多く、東岸砂漠のルートは限られている。

図で示されているように、東岸砂漠には金以外にも多くの鉱物資源がある。このような資源はナカダに集積され、ナカダの人々はこれらをナイル川流域に住む人々に提供し、あるいは地域外との交易に利用された、と考えられている。ナカダは大集落化した。

ただし、ナカダ文化全体の交易は、Ⅰ~Ⅱ期前半までは あまり活発ではなく、Ⅱ期後半に入りようやく活発した*1。そして交易が盛況になったⅢ期にはナカダは没落期に入った。墓地からエリート層が消えた。

ヒエラコンポリス

ヒエラコンポリスは、ナカダ文化Ⅰ期以降に人びとが住みついたが、Ⅰ期のうちに大集落化して都市化の一歩手前まで栄えた。おそらくⅠ期のうちにナカダを抜いてナカダ文化最大の集落になったようだ。ナカダ文化全期を通して栄え、Ⅲ期には王を出現させ都市化した。古代エジプト最古の都市とされている。

Ⅲ期後半には上エジプト南部とヌビア北部を支配下に置いたとする仮説があるが、ヌビア北部を支配下にしたとする見解はあまり一般的ではない。(高宮氏/2006/p37-38)

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出典:高宮氏/2006/p38

ただし、王朝時代開闢直前には、アビドス(アビュドス)と並ぶ二大都市となったことは確か。

ヒエラコンポリス遺跡は、現在は辺鄙な田舎ですが、そのお陰で遺跡が荒らされずに良く残っている*2

ナカダ文化で最大の遺跡で、集落域において住居址、生産址、神殿址などの多様な遺構が検出されている。沖積低地中の微高地上に築かれた古代の都ケネンの址も検出されている(微高地上の検出は稀)*3。この他、世界最古のビール醸造施設や王宮などの遺跡、ナルメル王のパレットやサソリ王の棍棒頭などの特に有名な遺物が発掘されている。

この遺跡は現在でも活発に発掘作業が行われ、発掘の歴史だけでも100年以上になる*4

ヒエラコンポリスがその初期にどうして栄えたのか は、参考文献では言及されていないが、その位置から想像すれば、ヌビアとの交易の拠点であったのかもしれない(後述するアスワン付近にあるエレファンティネはⅡ期中葉までしか遡れない*5 )。

アビドス(アビュドス)

アビドスはナカダ文化の初期からこの文化の一員だったが、ナカダやヒエラコンポリスのような大型集落ではなかった。

しかしおそくともⅡ期後半には大型化していたようだ。低位砂漠のウム・アル=カーブでこの時期に年代づけられる大型墓が発見されている。

Ⅲ期の間に都市化して、ナカダを呑み込み、ヒエラコンポリスと並ぶ2大勢力になった。

Ⅲ期初頭に造られた、有名な「U-j墓」は先王朝時代の中で最大のものと言われている。多数の副葬品の中の土器の同部に頻繁にサソリが描かれていることからこの墓の被葬者はサソリ王と呼ばれている。このサソリ王はヒエラコンポリスの「サソリ王の棍棒頭」で有名なサソリ王の1世紀前の人物なので、「サソリ1世」とも呼ばれる。さらに重要なことに、この墓には古代エジプト最古の膨大な文字資料が検出された。

また、ウム・アル=カーブ南部には、「第0王朝」のカーおよび「第1王朝」のナルメル王以下の歴代王の墓が検出され、それまで疑問視されていた。王名表に載っていた王が実在したことが明らかになった。

上で触れたが、現在、第1王朝の初代はナルメル王で、ナルメル王は元々アビドスの王だったと考えられている。

その他の集落

上の集落と比べると重要度が落ちるが特筆に値する(?)集落を幾つか書き記しておこう。

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出典:大城氏/2009/p19

各集落の場所は上図で確認できる。

エレファンティネ

エレファンティネは上エジプトの最南端の集落、第1急湍、現在のアスワンの近くの中洲にあった。その遺跡はⅡ期半ばまで遡ることができる。

中王国時代の途中までヌビアとの交易の拠点かつ防御地点であったので、ナカダ文化期も交易の拠点だった可能性がある。

第1王朝時代の始まり前後に年代づけられる「天然の花崗岩の大岩を利用した小さな祠が発見されている。

(高宮氏/2003/p104、大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p41)

ビザンツ帝国時代まで継続して栄えていたようだが、ナカダ文化の時代の終わり頃にようやく(神殿ではなく)小さな祠が築かれたということで、それほど栄えていなかったかもしれない。

ヌビア北部の大集落(サヤラ、クストゥル(クストゥール) )

上エジプトの南はヌビアと呼ばれる地域がある。「ヌビア<wikipedia」によれば、「エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称」。

ヌビア北部(第2急湍あたりまで)を下ヌビアというのだが、ここに前4千年紀にヌビアAグループというエジプトとは違う独自の文化があった。しかし、交易、交流が頻繁になったナカダⅢ期には下ヌビアの墓にはエジプトの影響がかなり見られる。

遅くともナカダⅢ期には、Aグループ文化の内部でも明瞭な社会階層が生じていたと考えられる。サヤラの大型墓からはナカダ文化と共通するモチーフが彫刻された混紡やパレットが、クストゥールの墓地からは多量のエジプト製土器が出土しているため、Aグループ文化の社会階層発展の裏には、ナカダ文化との交易や接触の影響がはたらいていたと推測される。

出典:高宮氏/2003/p138

サヤラとクストゥルが下エジプトの中心地で、エジプトとの交易により大集落化したと考えられているようだ。

下エジプト(ブト、テル・エル=ファルーカ)

下エジプトは、元々ナカダ文化とは別のマアディ・ブト文化が存在していたが、Ⅱ期末の頃にナカダ文化に飲み込まれた。

テル・エルファルーカは西アジアと上エジプトをつなぐ交易の拠点の一つだった。

世界最古のビール醸造所跡が発見されており、特産品としてビールを生産していたことが明らかとなている。またカバの牙で生産された小像や黄金製品が多数出土している。とくに古代エジプト最古の支配者を表したものと考えられているカーネリアン(紅玉髄)のペンダントやラピスラズリの眼の象嵌をもつ金で覆われた彫像は印象的であり、当時この地を治めていた支配者たちの権力の大きさを彷彿とさせるものがある。

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出典:大城氏/p42

ブトはテル・エル=ファルーカよりも大規模な集落とされている。ブトについてはマアディ・ブト文化の記事で書くが、長く南レヴァントとの関係が深い地だった。

ナカダⅢ期でもテル・エルファルーカよりも大規模な集落で、アビドスで出土された先王朝時代のラベルの中にはブトを表す文字が発見されている(大城氏/p43)。



*1:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p173

*2:エジプト文明の起源地を掘る ~国家はいかに形成されたか~ 馬場匡浩 准教授 – 早稲田大学 高等研究所 

*3:高宮氏/2003/102

*4:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p41

*5:高宮氏/2003/p104