歴史の世界

エジプト文明:中王国時代⑧ まとめ その1 マアト(秩序)の維持と社会正義/宗教上の大衆化・民主化

中王国時代のまとめのようなことを書く。今回は古王国時代や第1中間期からつながる話。

マアト(秩序)の維持と社会正義

マアト(マート)は古代エジプトの文化の土台と言うべき考え方・宗教観念である。

このことは、以前に何度も触れてきたが、大事なことなのでもう一度復習しよう。

古代エジプト人が〈創造神によって最初に定められた宇宙の秩序〉を指した言葉。エジプト人の世界観の基本概念をなす。〈秩序〉のほか,時に応じて〈正義〉〈公正〉〈真理〉〈真実〉〈善〉とも訳される。創造神である太陽神ラーの娘とされ,頭上にマアトを意味する羽根を頂く女性として表現される。ファラオ(王)の役割はマアトを維持・更新することにより人間社会の繁栄と安寧を確保することにあるとされ,マアト女神像を神に奉納する主題が神殿の壁面に好んで表現された。

出典:マアトとは - 世界大百科事典 第2版>株式会社平凡社>コトバンク

古王国時代のマアトの維持

古代エジプトの王の重要な役割の一つがマアトを維持することだ。

古王国時代は、王都メンフィスの神殿の祭儀をしたり、地方神の神殿に寄進したりしてマアトを維持した。

なぜこのようなことがマアトの維持につながるのかというと、神々はマアトを左右する力があると考えられ、王は彼らのご機嫌取りをしてマアトを維持してもらう、というのが王の役割だった。

そしてこのご機嫌取りの方法が祭儀や寄進だった。寄進も地方神の祭儀や神殿のメンテナンスを滞りなくするためだった。

中王国時代のマアトの維持

中王国時代になるともっと積極的になる。

中王国時代の王像には、古王国時代の穏やかで神のような満ち足りた表情からもうすこし現実的な、実物に似せる傾向への変化がみられる。王は依然として地上の神ではあるのだが、それにもまして王はこの世の幸福と安定に責任があるという考え方が大きくなってきた。エジプト人はもはや、王の不滅の未来のために大建造物をつくることに、力も資源も傾けなくなったのである。それを反映してか、中王国時代のピラミッドは昔よりやや粗末なものになった。代わって、前述の大ハバル・ユーセフ運河の例で示されるように、より大きな関心が農業の改革やその他の事業に向けられた。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p108

「この世の幸福と安定」というのが社会正義だ。

社会正義の考え方は第1中間期に現れ、中王国時代もこれを受け継いだ。古王国時代末期の地球規模の寒冷・乾燥化が上のような変化を起こさせたのだろう。(第1中間期③ 文化の変容 参照)

ただし、このことは神々への信頼が無くなったことを意味しない。

中王国の王たちは地方神の神殿を建設したり、海外遠征で得た貴石などで飾り立てたりした。だいたい神殿を飾ることが遠征の主な目的のひとつだった。

高官たちの墓と社会正義

以前*1に第1中間期のヒエラコンポリスの州侯のアンクティフィの墓銘(墓に記した文章)の紹介をした。これをもう一度引用しよう。

私は飢えた人にパンを与え、裸の人に服を与えた。私のオオムギは、南は下ヌビア、北はアビドスまで運ばれた。上エジプトの人々は飢餓で死にそうで、子供を食べる人までいる。しかし私のノモスでは飢えで死ぬようなことはさせなかった。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p114

以前の記事では、これが当時の寒冷・乾燥化があった証拠として紹介したが、今回は社会正義に関連したことについて。

アンクティフィの岩窟墓が発見されたのが1971年。しかしフェクリ・ハッサン教授が古王国時代末期に寒冷・乾燥化があったことを突き止めるまで、墓銘の内容はついてあまり注目されなかった。

その理由は、「私は飢えた人にパンを与え、裸の人に服を与えた」のような文は当時の位の高い人々の墓の常套句だったからだ。

[当時の高官の]墓銘の内容のほとんどが、当時の理想的な人間像(教訓文学が教える冷静で自制心に富み、社会正義を遂行し、王に忠実な人物)であることを示す決まり文句で埋められており、かれの経歴を記すことが皆無に近い…。

出典:杉勇・尾形禎亮(ていすけ)(訳・解説)/エジプト神話集成/ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p574

アンクティフィの上の墓銘は馬場氏や他の研究者も自伝として紹介されることがあるが、実は常套句で経歴とは無関係(または無関係な可能性が高い)らしい。

宗教上の大衆化・民主化

オシリス神の大衆化

これも第1中間期からの流れ(第1中間期③ 文化の変容 参照)。

第5王朝末あたりから、王は死後に冥界の王オシリスになるとされていた。

しかし第1中間期から大衆はオシリス神を来世復活の神として信仰するようになった。

第1中間期から中王国時代初期になると、王家や貴族だけでなく民衆の間にも、死んだら再生復活できるというオシリス信仰が普及し、オシリスの聖地アビドスには、家族ステラを納める祠堂を建立するために巡礼を行う者が後を絶たなくなった。

また、オシリスはエジプト最初の王と考えられていたため、王家も神殿や遺体を納めない空墓(セノタフ)を盛んに造営するなど、古代エジプトでは極めて重要な聖地であった。

出典:アビドス | 吉村作治のエジプトピア EGYPTPIA 2012/02/24

ステラとは石碑のこと。「職人長、書記、彫刻師イルティセンのステラ(石碑) | ルーヴル美術館 | パリ」によれば、「信心深い人々は、生前の行いが良かった事を、死後、神に思い出してもらえるよう、自分の名前と記念の銘文を刻んだステラを、少なくとも一つはこの地に建立したという」。

ただし、古代エジプト識字率は全人口の1%程度だったらしい(識字率 )。

第1中間期③ 文化の変容」で引用したものを再び貼ろう。

エジプトでは、中王国時代に神官たちが、第1王朝のジェル王の墓を冥界の神オシリスの埋葬地と断定して以来、アビドスは聖地として重要な巡礼の中心地となった。年に1度、オシリスとその復活を祝う祭礼がおこなわれ、国中から巡礼者が訪れた。

出典:特集:古代エジプトの聖地 アビドス 2005年4月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

西村洋子氏によると*2「第1王朝ジェル王の墓がオシリス神の墓として改造されたのは王[センウセレト3世]の治世でした」とのこと。

センウセレト3世も空墓(セノタフ)をアビュドスに建造した。王の治世にオシリス信仰のピークを迎える*3

コフィン・テキスト

これも第1中間期からの流れで、中王国時代にも普及する。

しかし、「しかし、主に長い宗教テクストを書き記すには適さないミイラ型棺の導入のような、さらなる葬祭上の変化の結果として、第12王朝中頃にこれらのテクストの使用は突然終わりました。」((西村氏/History of Ancient Egypt_第13王朝) )

コフィン・テキストの呪文集の文化は新王朝時代に「死者の書」として受け継がれる。