歴史の世界

ドイツ(19世紀後半)⑤ ビスマルクと議会の攻防

議会への対応

ヴィルヘルム1世とビスマルクが進めようとした軍政改革・軍備増強に対して、議会の多数を占めていたブルジョワ自由主義政党である進歩党は強く反対していた。このビスマルクプロイセン議会の対立は、プロイセン憲法紛争と呼ばれている。
 議会はビスマルク政府の予算案を否決したのだが、ビスマルクは強引にその予算を執行した。その時の演説が鉄血演説だった。ビスマルクが議会が否決したにもかかわらず予算を執行した論拠は、当時の憲法に予算不成立の場合の規定が無く、にもかかわらず政府には国を統治しなければならない義務がある、従って政府は予算なしでも執行権を行使して統治責任を果たさなければならない、という理屈であった。このような憲法の不備を突いたビスマルクの理屈は「隙間論」と言われた。議会が予算を否決したにもかかわらず、軍備増強を進める首相に対して、議会は不信任できなかった。議院内閣制ではなく、首相は皇帝が任命するものだったからだ。また進歩党自身も、ビスマルクの議会無視に強く反発しなかった。進歩党は自由主義を標榜していたが、彼らは制限選挙で選ばれた有産階級であり、反政府運動が大衆化することまでは望んでいなかった。その結果、進歩党の中にもビスマルクを支持する者が現れ、結局分裂してしまい、その強権的政治をチェックする能力を失ってしまった。しかし、ビスマルクは単純な独裁者ではなかった。後に、普墺戦争の勝利でその権威を確立すると、一転して議会と和解し、予算執行の「事後承諾」を求めた。議会もそれを認め、ここに軍事優先政策を議会が追認していくというビスマルク政治のスタイルが出来上がった。

出典:ビスマルク<世界史の窓

  • 「隙間論」を言ったのを鉄血演説の時のように書いているが、これは別の時。
  • 「進歩党自身も、ビスマルクの議会無視に強く反発しなかった」というのは、実力行使(納税拒否や民衆を動員した革命)に至るほどの抵抗をしなかった、くらいの意味。実際のところは、激しく反発し、議会は度々解散させられ、ビスマルクは出版令・選挙干渉・警察弾圧などかなり強権的な手段を使っている。
  • 進歩党が分裂した時期は1866年(普墺戦争勝利後)。事後承認法を巡って分裂した。ただし、普墺戦争内の戦闘ケーニヒグレーツの戦いがあった1866年7月3日に総選挙が行われ、保守派勢力が大勝を収め、進歩党は議席数を激減させている。

ビスマルクプロイセン首相になった直後の議会との攻防の詳細は、 《オットー・フォン・ビスマルク#自由主義者との対立 - Wikipedia》 に書いてある。