歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代⑨ マアディ・ブト文化/下ヌビア/南パレスチナ

馬場匡浩氏によれば*1、エジプト先王朝時代は上エジプトのバダリ文化とナカダ文化、そして下エジプトはマアディ・ブト文化(マーディ・ブト文化)の3つの文化が含まれる。

今回は下エジプトのマアディ・ブト文化と先王朝時代にエジプトと交流・交易があったヌビアとパレスチナについて書こう。

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出典:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p19

各集落の場所は上図で確認できる。

マアディ・ブト文化

場所

ファイユーム地方の入り口のナイル河谷両岸からデルタの地中海沿岸まで。

時期

馬場氏によれば*2、前3900-3300年。

生活様式

この文化はメリムデ文化などの下エジプトの文化から発展したものと考えられている。メリムデ文化では農耕家畜の重要性が狩猟採集と比べて増大していった時代だったが、マアディ・ブト文化になると完全に農耕家畜文化といえるほどになっていた狩猟採集はその補完と言っていいかもしれない。これに漁撈が加わる(ナマズナイルパーチなど)。

住居は、円形または方形のプランに上部構造が小枝や植物の歯などで造られる家屋だった。これはナイル河下流の一般的な形態だった。

(高宮氏/2003/p72-76)

埋葬については、マアディ遺跡の埋葬について馬場氏が以下のように書いている。

マアディ遺跡にみる埋葬は極めて質素であり、墓の規模や副葬品の多寡などの格差もなく、エリート層や厚葬が特徴のナカダ文化とは対象的である。また、集落においても、南レヴァントとの強い関係を示すものの、文化的には簡素であり、ナカダ文化と比較しても社会の成熟度は低く、平等的な社会といえるだろう。

出典:馬場氏/p65

交易

馬場氏の本のマアディ遺跡の項より。↓

[南レヴァントからの]輸入土器はおそらく、ワインやオイルを入れてレヴァント地方から持ち込まれたものであろう。また、ここでは銅の存在も特筆され、道具だけでなく、インゴットや原鉱もあり、分析ではその原産地はレヴァントとされる。マアディ遺跡では、エジプト最古のロバの骨が出土していることから、レヴァントとはロバを使った陸路交易で結ばれ、モノだけでなく人も頻繁に行き来する、西アジアとの玄関口として機能したのだろう。

出典:馬場氏/p65

シナイ半島には先王朝時代の遺跡があり、それらはエジプト=レヴァント間の旅路をつなぐ場所だと言われている。

マアディ遺跡の地下式住居

マアディ遺跡では上述の一般的な住居の他に、地下式と呼ばれる、エジプトでは類例を見ない住居が発掘されている。

地下を2mほど掘って地表面ほどの高さで屋根で覆い、幾つかの柱で支える構造になっている。炉址と埋設土器があることから貯蔵施設ではなく、住居と考えられている。

この住居の例は唯一、同時代の南レヴァントのビールシェバ文化に存在することから、このことからもマアディ・ブト文化と南レヴァントとの強い関係が認められている。

ブトと神話 

ブト遺跡がある場所は現在テル・エル=ファライン(ファラオの丘の意)という地名になっている。ここはかつては海岸に近接していたとされている。

この遺跡の発掘には理由があった。

エジプト史を編纂したプトレマイオス王朝の神官マネトによれば、最初のファラオはメネス(古代語でメニ)であり、それ以前は、「死者の魂 (Spirits of the Dead)」とよばれる神々がエジプトを支配していた。その代表が、「ネケンの魂 (Spirit of Nekhen)」と「ペの魂 (Spirit of Pe)」の神であり、神話では、上エジプトのヒエラコンポリスと下エジプトのブトがそれぞれ中心地とされる。そして、この北と南の二つの地域を統一してエジプト王朝を築いたのが、メネスという。

出典:馬場氏/p31

このような伝説・神話を証明しようとすることは、考古学の原動力の一つである。

しかし先王朝時代の層にたどり着くことは、堆積層が厚いだけでなく、地下水位も高いため困難をきわめた。

神々が支配する時代における下エジプトの中心地というブトの神話は、ながらく伝説のままであった。それに果敢に挑んだのがドイツ隊である。1980年代、彼らは伝説か史実かを確かめるため、北のテルにて調査を開始した。24時間ポンプを使って地下水を汲み上げながらの調査である。そしてついに、地表下7mで先王朝時代の層を検出することに成功した。土器をはじめとする物質文化は、マアディ遺跡のそれと類似する。時期的には、マアディ遺跡が途絶えるころに、ブトが営まれるようになる。やはりここでも、南レヴァントとの関係が色濃く、装飾を施した良質なレヴァント系土器が出土する。

出典:馬場氏/p67

これによって、この地は先王朝時代から古王国時代まで連続して利用されていたことが確認された。

そしてこれにより、マアディ・ブト文化からナカダ文化へ置き換わる様子が、考古学的証拠として初めて確認された(p67)。マアディ・ブト文化の一つ上の層、つまりナカダⅢ期の層は日乾レンガの使用が確認されている。

マアディ・ブト文化の消滅

上述のようにマアディ・ブト文化はナカダ文化に取って代わられた。時期はナカダⅡ期末からⅢ期にかけて。このことについては記事「エジプト文明:先王朝時代④ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 後編 」で書いた。

上エジプト(ナカダ文化)のエリート層が西アジアへの交易ルートの支配をするために、下エジプトに拠点を作ったことがきっかけとなったのだろうと思われる。拠点を作った後に植民したかもしれない。

ヌビアAグループ文化

上エジプトの南端はアスワンハイダムで有名なアスワンで、ここが第1急湍(急流部)になっていて、その南はヌビアと呼ばれる。

第1急湍から第2急湍までの間は下ヌビアと呼ばれ、この地域ではナカダ文化と交易・交流していた証拠がいくつも出土している。

ナカダ文化と対応するこの地の文化が「ヌビアAグループ文化」と呼ばれている。

下ヌビアの地は現在はアスワンハイダムの貯水池・人工湖「ナセル湖」の底に沈んでしまって。資料が乏しいのはこのためだ。

Aグループ文化の生業は、農耕、牧畜、狩猟、採集、漁撈を組み合わせたものであったらしいが、資料が乏しいために、それぞれがどの程度の重要性をもっているのか、あまり明らかではない。おそらくエジプトと同じようなナイル河の沖積低地と増水を利用した穀物栽培が行われていたと推測され、栽培種と思われるエンマー小麦と大麦、豆類が出土しているが、沖積低地の幅が狭く、集落の規模も小さいので、エジプトほど規模の大きな沖積地農耕は行われていなかったようである。

出典:高宮氏/2003/p80-87

交易・交流については、ナカダ文化が発達するにつれて増大した。特にナカダⅢ期は、この地にサヤラとクストゥル(クストゥール)という大集落があった。これらは当時の中心地であったと考えられる。このことについては記事「エジプト文明:先王朝時代⑧ ナカダ文化Ⅲ期 その4(先王朝時代の主要な都市・大集落)」で書いた。

パレスチナ

パレスチナは、前3500年頃から初期青銅器時代の文化が普及し、レヴァントで最初の都市化が進行していた。

しかしこの地の初期青銅器時代最初期(Ⅰa期=ナカダⅡb期)から、南パレスチナエジプト人が住み始めていた。証拠としてエジプト製土器とパレスチナ製のエジプト様式の土器が発掘されている(ナカダⅡb期は前半の後半頃)。

Ⅲ期になると、土器・石器以外にエジプトの王名が記された土器、エジプト様式の印章および印影を持つ粘土封、エジプト風の日乾レンガ建造物が発掘されている。

こうしたパレスチナとの関係は、南パレスチナの遺跡やシナイ半島の遺跡から、エジプトの王名を刻んだ土器やエジプト様式の円筒印章と印影をもつ封泥が出土するため、遅くとも第1王朝開闢頃にはエジプトの王たちの管轄下で組織的に行われていたという見解が優勢である。そして、このような状況は、しばしば「第0王朝(Dynasty 0)」と称されるナカダⅢ期の途中までさかのぼる可能性がある。

出典:高宮氏/2003/p93

(高宮氏/2003/p89-93 参照)



*1:古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p41

*2:p63