歴史の世界

エジプト文明:初期王朝時代⑥ 王都メンフィス/ノモス/民族意識の形成

国家と国内の人口

F.A.ハッサンによれば(Hassan 1993)、古王国時代のエジプトの総人口は120万人程度であり、農村人口は114万人程度、平均的な集落の人口は450人くらいであったという。つまり都市の数と人口は少なかったわけであるが、その少数の都市こそが文明の重要な牽引役になっていた。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学出版会/2006/p181

初期王朝時代の人口が分からなかったので、とりあえず古王国時代の数字を載せておこう。高宮氏は都市の人口も他地域・他時代と比べて少なかったとしている。

以下は、古代エジプト都市国家を持つ地域(メソポタミアなど)との比較の説を紹介している。

こうした文明による都市と国家の関係の違いを、B.G.トリッガーは「都市国家」と「領域国家」という二つの政治システムの違いとして記述しており(トリッガー 2001)、異なるシステムが生じた原因の一端を、国家形成期の状況に求めた。先王朝時代のエジプトはいまだ人口が比較的少なくて、各地の都市が未発達のうちに統一国家ができあがったことが、ナイル河河流域に広い地域を支配する領域国家が早期に出現した要因であるという。

出典:高宮氏/p182

先王朝時代末に王を戴く都市(アビュドス、ヒエラコンポリスなど)が出現したが、古代エジプト研究者(エジプト学者)はこれらを「都市国家」と言わないのは*1未発達のうちに領域国家になってしまったからだろう。

王都メンフィス

f:id:rekisi2100:20180528071401p:plain

出典:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p19

古代エジプトの歴史家マネトによって伝えられた伝説によると、この都市はメネス王によって建設された。古王国時代、エジプトの首都であり、古代の地中海の歴史を通じて重要な都市であり続けた。メンフィスはナイル川河口付近のデルタ地帯という戦略的要衝に形成された都市であり、各種の社会生活の拠点として栄えていた。メンフィスの主たる港であるペル・ネフェル(Peru-nefer)には数多くの工房、工場、倉庫が存在し、王国全体に食料や商品を流通させていた。その黄金時代の間、メンフィスは商業、貿易、宗教の地域的中心地として繁栄した。

出典:メンフィス (エジプト) - Wikipedia

「メンフィス」という地名は新王国時代のペピ1世のピラミッドの名前《メン・ネフィル(Men-nefer 「確立され良き者」の意)》のギリシア語訛りが語源とされる。*2

ちなみに、「エジプト」の語源もメンフィスに関連する。メンフィスの主神プタハの神殿域はフウト・カ・プタハ(Hut-ka-Ptah 「プタハ神の魂の館」の意)と呼ばれていたが、このギリシア語がAigyptosで、これが英語でEgyptとなった*3

さて、メンフィスはエジプト統一の第1王朝当時はどのように呼ばれていたかと言うと、イネブ・ヘジュ(Aneb-Hetch、Ineb-Hedj)であり、「白い壁」という意味である。王宮が石灰岩の壁で囲まれていたからだとされる。

現在のミート・ラヒーナにあるメンフィスの遺跡は新王国時代のもので*4、初期王朝時代の王都はその西にあるサッカラ北部にある可能性が高いという*5

ノモス

ノモスとは行政区画の単位で、現代日本の「県」に相当する。ノモスはギリシア語で、エジプト語で「セパト」と言う。

初期王朝時代には、ノモスのシステムはある程度整備されていたようであり、これにより、租税と再配分をスムーズに行うことができたのだ。ノモスは、こうした政治・経済的機能だけでなく、宗教においても重要な役割を演じていた。中心地にはそれぞれの地域で信仰する神を祀る神殿があり、その神はノモスの名前として採用押されることが多く、またシンボルとして旗竿の上に標章される。

出典:馬場氏/p80

高宮氏によれば、明確なノモスに関する言及は第3王朝初期から現れるが、組織が整えられたのは第3王朝末から第4王朝初期の頃の可能性が高い(p176)。その範囲が明確に定められたのは中王国時代になってからだ(p175)。

また、中央政府から各ノモスへ役人が派遣されたのだが、初期王朝時代の「王家の直接支配や管理が及んだ範囲は少数の特別な場所や施設に限られていたらしい」(高宮氏/p176)。

外国と城壁

先王朝時代の他地域との交流は、時が経つにつれて密になっていった。しかし、初期王朝時代は状況が変わった。

[第1王朝初代]ナルメル王治世頃をピークとして、第1王朝前半ジェル王治世頃にパレスチナにおけるエジプトの影響は急速に下火になり、ほぼ同時にパレスチナの人口の一部が遊動化して、社会構造に大きな変化期が訪れた。その理由はわかっていない。一方、下ヌビアでエジプトと緊密な関係を保ちながら生活していたAグループ文化の人々は、ほぼ同じ頃にナイル河流域からほとんど姿を消した。下ヌビアの人々とエジプト人との関係について、第1王朝開闢前後から両者が敵対的になり、戦闘が起こったことが、ゲベル・シェイク・スレイマンの岩壁画やアハ王のラベルの記述から知られている。第1王朝初期に両者の国境地帯に位置するエレファンティネに城塞が築かれたことも、ヌビア人との敵対的関係を示唆するであろう。[中略]

第1王朝前半に起こった対外政策の変化の原因について、従来いくつもの見解が提示されてきた。従来の見解を大ざっぱにまとめると、いずれもエジプトの国家形成が端緒であるが、対外政策の変化の要因として、①交易および資源調達の再組織化、②エジプトの国家(民族)概念形成と国境の明確化、③隣接地域における民族意識の形成、の3つが挙げられることになる。いずれについてもそれなりの証拠があるので、詳述を控えて結論から言えば、おそらくいずれの要因も関連して初期王朝時代の対外政策に変化が起こったように思われる。

出典:高宮氏/p209-211

領域国家形成のため、境界を明確化は徴税と安全保障に関わる問題で、守るべき人々(と同時に徴税できる人々)とそうでない人々を明確に分けなければならない。そのために、外国の人々は排除または無許可の入国を拒絶するようになった。

この一方的な体制の変化に外国の人々は反発したのだろう。想像すると、ヌビア人は力ずくで抵抗し、これをエジプト王が追っ払うというのが、「ナルメルのパレット」から始まる王がヌビア人(あるいはリビア人、アジア人)を棍棒で打ちつけるという描写になったのかもしれない。

ちなみに、先王朝時代には敵を防ぐ周壁を持つ集落は今のところ見つかっておらず、初期王朝に入ってから初めてエレファンティネに作られた(高宮氏/p194)。

メソポタミアの初期王朝時代は複数の都市国家がそれぞれの民族意識を形成したのだが、エジプトの初期王朝時代は領域国家になってから形成されたようだ。



*1:言う学者はいるかも知れないが

*2:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p238

*3:馬場氏/p238

*4:高宮氏/p190

*5:馬場氏/p239