歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その4

前回からの続き。

議会内閣制の歴史

本書では

内閣の歴史について本書71ページによれば、 「枢密院」(1530年代~)から「内閣評議会」(1630年代~)が切り離され、アン女王(在位1702-14年)の治世に「内閣」の原型が出来上がる、とある。

ただし、「枢密院」より前に「国王評議会」というものがあり、おそらくこれが起源だろう。

「国王評議会」は。英語で「king's court」、ラテン語で「Curia regis」。国王が政治・行政を行うための諮問機関だ。

これができる前は賢人会議で合議されていたらしいが、ノルマン・コンクエストの後に、賢人会議とは別に作られた。

国王評議会から枢密院に名前が変わった時に、実務の何が変わったのかは分からない。

「内閣評議会(Cabinet Council)」という名称を正式に使い始めるのはチャールズ1世(在位:1625–1649年)から。

この名称が使われ始める頃には、枢密院には各方面の専門の部会とその長である大臣という職位があった。部会の部屋が "cabinet"で「小部屋」に由来する。大臣は "minister"は「召使い」。

以上のように、内閣の起源は王の政務のための諮問機関に過ぎなかったが、時代を経て職務内容が肥大化していった(部会が官僚化していったのだろうがそこらへんは調べていない)。

肥大化した結果、王の諮問機関であったこの組織が王から独立する。

この画期となる時代の登場人物がジョージ1世とロバート・ウォルポールだ。

ステュワート朝最後の王アン女王は跡継ぎを残さずに亡くなり、イングランドはドイツ北部のハノーファー選帝侯のジョージ(1世)を迎えることになった(ジョージの母ゾフィーからステュワート朝の血を引く)。

しかしジョージ1世とその次代のジョージ2世はイギリスの国政に関心を持たずに、内閣に任せっきりにした。

この内閣を長期に渡って預かったのがウォルポール政権(1721-42)だ。

[これを機に、]議院内閣制(責任内閣制)が確立されるのである。

内閣を構成する大臣たちは、すべて貴族院庶民院の議員であり、政府の政策はもはや国王にではなく、議会に対して責任を負う時代となっていた。アン女王の時代までは、内閣を招集し、統轄するのも君主の役目であったのが、ウォルポールが国王と議会双方の信任を得ながら20年移譲にわたる長期政権を維持し、それをおえたたらりから、彼が就いていた第一大蔵卿が「首相(Prime Minister)」の役割を果たし、内閣を率いていくという慣習も生まれていったのである。(p73)

これにより政治権力はほぼ議会(=有力者)の手に移った。ただし「責任内閣制」とあるように、政治責任も負うことになる。逆に言えば君主(ここではイングランド国王)は政治責任を負わなくてよいことになる。

ちなみに、戦後直後の日本で敗戦結果を天皇に負わすような議論があったが、それは責任内閣制の基本を無視した議論でしかない(道義的責任を問うのならば、最初にそのように断らなければならない)。

さて、ジョージ2世を継いだジョージ3世(2世の孫)は先代・先々代とは違って積極的に政治に関与した。しかし、植民地であったアメリカの独立戦争を誘発するなどの失政を重ね、結局のところ即位10年後に失意の中で病気がちになってしまい、政治的主導権はウィリアム・ピット(小ピット)に引き渡されることになる。ジョージ3世は時代の流れを変えることはできなかった。

権力の下方への拡散

「ジェントリ」の台頭

前々回に二院制(貴族院庶民院)のことを書いた。

14世紀半ば(エドワード3世の治世)あたりになると二院制が確立する。
貴族院:聖俗諸侯が属する。請願や訴訟に採決を与える。
庶民院:騎士や市民が属する。請願や訴訟を代表する。
貴族院庶民院が公式名称になるのは16世紀に入ってから。(p60-61)

上にある「騎士」とは身分のひとつで、地主階級。貴族ではないが、「準貴族」的な扱いで、「貴族と平民のあいだの階級」などと書かれることもある。

ただしこの騎士という身分の名前はバラ戦争(1455-85)あたりで、新しくできた「ジェントリ」という階級(階層?)に吸収される。

ジェントリも地主階級なのだが、農民からなるものもいれば、貴族の次男以下がなる場合もあった。貴族階級からジェントリになる者もいるということで、その境界は曖昧だった。ちなみに本書では「地主貴族階級」に「ジェントルマン」とルビを振っている(p74)。

バラ戦争の結果、テューダー朝が興るのだが、テューダー朝を支えたのがジェントリだと言われる。

ジェントリは、地方では治安判事を国王から任命される。その職務は無給だが、地方の行政権と裁判権を持つ。いっぽう、中央の政治においては庶民院の議員を構成した。

バラ戦争の結果(貴族どうしの抗争の結果)、貴族層は没落して貴族院の力が弱まり、庶民院の力が増した(テューダー朝の国王が意図的にそうさせた面も少なからずある)。

テューダー朝の後になると、ジェントリがイングランドの政治の担い手となっていた。たとえば清教徒革命のクロムウェルも、責任内閣を形成したウォルポールも、ジェントリで庶民院だった。

市民(ブルジョワ)の台頭

庶民院にはジェントリ以外の構成員として市民がいた。この市民はいわゆる「ブルジョワ」の意味で現代で、巷でよく使われる「政治運動家」の意味ではない。

ブルジョワが市民でブルジョワジーが市民階級の意味。

ブルジョワジー(Bourgeoisie)の"Bourg"は城壁に囲まれた都市・街を表し、ブルジョワは「街の人≒商人」くらいの意味だったらしい。ちなみに「~ブルグ」「~ブール」「~ベルク」という都市名が多いのは、その地域が城壁に囲まれた都市・街だったからだ。

 「市民」は「貴族」や「領主」と対する一つの階級、つまり特権や大土地の所有者ではなく、商業や小土地所有によって自立できる財産を持ち、産業の発展に伴って資本を蓄えた有産階級である「ブルジョワジー」bourgeoisie(その単数形がブルジョワ bourgeois)という概念があてはまる。

出典:市民階級/有産市民層/ブルジョワ/ブルジョワジー<世界史の窓

ブルジョワジーブルジョアジー)を「資本家階級(有産階級)」というように階級のひとつという概念にしたのは元祖共産主義マルクスだ。ブルジョワブルジョワジーの定義はほかにもあるようだが、ここではマルクスの定義を採用していく。

イギリスだけでなく中世・近世ヨーロッパの政治において、貴族・ジェントリの次に影響力のある階層(または階級)。産業革命により、この階層の人々が力を増した。

イギリスにおける清教徒革命や名誉革命を「ブルジョワ(市民)革命」と呼んでいる人もいるが、これらの革命はジェントリが主体であるので市民革命というのは間違っている。

イギリスで市民革命が起きなかった理由の一部として、本書では数度の選挙法改正が挙げられている。

(続く)