歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その7

前回からの続き。

ジョージ5世

激動のイギリス政治の中で国王エドワード7世が亡くなり(1910)、ジョージ5世が即位した。

彼は即位早々に議会法の成立のために働いたがその成立の直後に、さらに困難な時代に巻き込まれていく。第一次世界大戦が始まる(1914-)。

この大戦で国王はどのような働きをしたのか?戦費が膨張する中で質素倹約に勤める一方で、論功行賞に金銭を使った。

それまでの報奨は、一部の英雄や将軍・提督たちにしか与えられていなかったが、ジョージは一兵卒や勤労動員の女性など、すべての国民を対象とする「ブリティッシュ・エンパイア勲章」を創設した(1917年)。創設からわずか2年の間で25000人の人々が受章し、その一人一人に国王自らが勲章を授与したのである。喜びの受賞者のなかには労働組合員やそれまで君主制に否定的だった人物たちも数多く含まれていた。歴史家のフランク・プロハスカは言う。「この勲章は人々に恭順という観念を染み込ませ、共和主義をくじく手段として絶妙な効果をあげた」。まさに王室は「栄誉の源泉」であった。(p87)

角度が違う方向から見れば、反王室派たちが抱いていた「王室が富と名誉を独占している」というイメージを逸らす効果もあっただろう。

さらに国王は病院への慰問と軍備製造工場への激励にそれぞれ数百回も訪問した。

このような行為はバジェットの書『イギリス憲政論』から学んだことだが、時代背景も関係している。

19世紀後半から徐々に進んでいた「貴族政治」から「大衆民主政治」への移行は、大伊地知世界大戦という「総力戦」によって最終的に決定づけられた。[中略]それまでは「貴族政治」に包まれるかたちで威厳を保っていた王室は、貴族たちが溶解してしまった現在となっては、直接国民と向かい合わなければならなくなっていた。(p89)

国王ジョージ5世はこのような時代に的確に行動し、「国父」と呼ばれる存在にまでなった。

労働党政権という画期

上記したように大戦後に「大衆民主政治」が成立してはいたが、それでも労働党が政権を獲ることはひとつの画期だった。

1923年12月の総選挙で、与党保守党は第1党となったものの過半数を獲得することはできず、選挙後の議会で保守党ボールドウィン内閣に対する不信任案が決議された。

これにより第2党の労働党の政権が誕生するわけだが(第3党の自由党は閣外協力)、この時、王室や貴族の間で大きな不安が駆け巡った。そしてこの時のジョージ5世の行動は以下の通り。

当時、貴族院を「人民を食い物にしている富裕階級の利益を守るだけの連中」と評し、その廃止を掲げてきた労働党が政権に就くことを、上層階級とその代表である国王が阻止するのではないかとの懸念もあった。[中略]ところが、ジョージ5世自身の腹はすでに決まっていた。国王は、きたるべき議会審議で保守党政権が敗北を喫したら、迷わずに労働党党首ラムゼイ・マクドナルドに首相の大命を降下するつもりであった。1924年1月22日それは現実となった。年齢がひとつ違いの国王とマクドナルドは人間的にも相性が良く、こののち「二人三脚」で国政にあたっていく。

……いざ政権を獲得してみると、議会の開会式や外国からの国賓を招いての宮中晩餐会など、わからない儀礼ばかりで困惑していた。こうしたときに彼らに救いの手を差し伸べてくれたのが、ほかならぬ国王ジョージ5世だったのである。(p90-91)

結局のところ、マクドナルドをはじめとする労働党議員たちは王室の必要性を認めた。

しかし、マクドナル政権に対して急進左派的な政権運営に警戒感を示した自由党は協力から反対に転じ、同政権は同年10月の総選挙で敗北して倒れた *1

自由党の没落、保守党と労働党の二大政党制の始まり

上記の10月の選挙は労働党政権の敗北と同時に自由党の大敗北の選挙だった。選挙前の159議席から40議席にまで減ってしまった。これにより、政権交代可能な政党は保守党と労働党の二大政党になって現在まで続く。

選挙に大勝した保守党は第2次ボールドウィン内閣を発足させるが、大戦後の不況から脱することができない中で金本位制復帰という大失敗(日本における金解禁と同じ失敗)をおかしてさらに不況を悪化させた。1926年にはゼネラル・ストライキが起こった。この混乱はおさまり、以降労使協調主義がイギリス社会に根付くことになるのだが、保守党は次の選挙で敗北して再び労働党政権が誕生する *2

しかし、1929年に発足した第2次マクドナル政権は世界恐慌に直面する。そんな中で労働党内は金本位制を維持して緊縮財政を進めるマクドナルド派と積極財政を求める(アーサー・)ヘンダーソン派に分裂。1931年に閣内不一致により総辞職した。

1931年、挙国一致政権(第3次マクドナルド内閣)

以上のような政治的混乱の時、国王ジョージ5世が動いた。

この二年前から始まった世界恐慌の波に飲み込まれていたイギリスの政治経済を再建できるのは、マクドナルドの指導力を除いては難しいと、ジョージ5世は判断した。そこでは国王は、すぐさま保守・自由両党の指導者層とも相談の上で、マクドナルドを首班とする挙国一致政権の樹立を進めさせたのである。

……国王は各正当が「君主の下で結束を固め、種々の政策の違いを超えて、挙国一致政権を築けるほどに国制が柔軟にできている」と彼らを讃えた。

……政権発足の二ヶ月後に行われた総選挙の結果は、挙国一致政権側が庶民院の全議席(615)の実に90%(554議席)を獲得し、国民から圧倒的な支持を集めるものだった。「わが国民は良識を備えており、適切な時に適切な判断が下せる。これは他の国々にとっても、お手本となるであろう」と、この選挙結果を受けて国王は偽らざる心情を吐露した。(92-93)

この時のマクドナルドは労働党の党首から引きずり降ろされ追い出されていた。そして挙国一致政権は実質保守党政権であった。

ともあれ、金本位制の停止やブロック経済政策が一定の成果を出して世界恐慌の波から生き抜くことができた。

ジョージ5世の「君主の極意」

ジョージ5世は国王になる前にバジョット『イギリス憲政論』を学んだのだが、その講義ノートには以下のような一文が書いてあった。

君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受け入れられるだけの構成な立場を保証してくれている。彼はこの国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家なのである。(p84)

著者はこれを《「君主の極意」とでも言うべきであろうか》と書いている。

話は変わるが、第二次世界大戦の敗戦直後の日本において、明仁皇太子(現在の上皇)の教育係になった小泉信三はそのテキストの一つにハロルド・ニコルソン『ジョオジ五世伝』(当時未邦訳)を選んだ。

小泉が『ジョオジ五世伝』をテキストに選んだ理由は、……何よりまず主人公のジョージ5世が「義務に忠実な国王」だったからである。国王は天才でも英雄でもなく、その四半世紀にあまる治世において、人々の耳目を驚かすような行動もほとんどなかったかも知れない。しかしイギリス国民は、いつしか彼が王位にあることに堅固と安全を感じるようになっていた。(p43)

小泉は、上記の「極意」の通り公正中立で、無視聡明なジョージ5世を君主の手本とした。



*1:詳細は書かないが、キーワードは、ソ連承認、ジノヴィエフ書簡、キャンベル事件

*2:スタンリー・ボールドウィン - Wikipedia