歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その2

前回からの続き。

立憲君主制の起源はイギリスに有り

第2~4章までイギリス立憲君主制の歴史について書いてある。

第二章 イギリス立憲君主制の成立
第三章 イギリス立憲君主制の定着
第四章 現代のイギリス王室

立憲君主制を生み出したのはイギリスで、現在も立憲君主国の手本となっていて、それは「ウェストミンスター・モデル」と呼ばれている。日本もこれを採用している。

今回から本書に従ってイギリス王室の歴史を見ながら立憲君主制の成立を見ていく。

いちおう断っておくが、18世紀より前のイギリスとは基本的にイングランド王国の歴史を指す。1707年に「合同法」により、スコットランド王国イングランド王国に事実上吸収合併されてグレートブリテン王国になる。その後にいろいろあって今のUKになるのだが、ここらへんの話はまた別の機会に。

立憲君主制とはなにか」については前回書いたが、その根本的な意義は「もともと君主が持っていた国をコントロールする権限を政治家に移譲する」ことだ。だから立憲君主制の成立の歴史は君主(イギリス国王)から政治家(有力者)に権限が移譲されていく過程である。

賢人会議

統一イングランドの最初の王アゼルスタン(895年 - 939年)は賢人会議を開いた。「賢人」とは有力者のことを指し、高位聖職者や諸侯、地方長官、豪族など。会議はキリスト教の祝祭つまり復活祭(イースター)、降誕祭(クリスマス)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などに開催され、定例化された。アゼルスタンの後の歴代王たちもこれを継承した。

デーン人であるカヌートやノルマン人であるギョーム2世(ウィリアム1世)が王位に就いた時もこの伝統は継承される。

賢人会議では統一貨幣の鋳造や戦費調達のための徴税の件など重要なことが話された。専制政治ができなかった理由とした本書では、大陸に領土を持っていたことを第一に挙げているが、本来、海洋国家(ランドパワー)は中央集権化は難しい性質を持っている。このことは以下の記事に書いた(平間洋一氏の主張の紹介)。

大憲章(マグナカルタ

イングランドの王権はさらに制限されることになる。たびたび王位継承争いが起こり王権は弱体していくわけだが、その決定的なものは有名な「欠地王ジョン」(1166 - 1216年)の時代から違う形で起こった。ジョン王はフランスとの戦争で賢人会議で有力者たちにカネと兵隊を要求したが彼らはこれを拒否した。イングランドの有力者たちは大陸の領土に縁遠く、大陸の戦争のためのコストを自分たちが負うことを良しとしなかった。

しかしジョン王は彼らから重税をむしり取って戦争を行い、しかも大敗して大陸のほとんどの領土を失った。ジョン王は性懲りもなしに賢人会議を開いて有力者たちにコストの負担を要求したが、有力者たちは逆に王権の制限が書かれた契約書を突きつけた。これが「大憲章(マグナカルタ)」だ。

ジョン王はこれを一旦は受け入れるがその後に拒否して内乱になり、その内乱中に亡くなる。ヘンリー3世( 1207 - 1272年)が幼くして後を継ぎ、断続的に反乱が起こるものの(一旦は王と皇太子が捕虜となった)、王側が勝利した。ただし、ヘンリー3世は大憲章を了承し、会議を多く開くようになる。本書によれば1230年ころから「イギリス議会」が本格的に始まった(p59)。

イギリス議会は「パーラメントParliament」と呼ばれるが、この語源は賢人会議を指すフランス語「パルルマンparlement」だ。ノルマン朝より宮廷内ではフランス語が使用されていたが、ジョン王あたりから諸侯たちの日常語が英語に変わっていった(p58)。

二院制(貴族院庶民院

14世紀半ば(エドワード3世の治世)あたりになると二院制が確立する。

貴族院:聖俗諸侯が属する。請願や訴訟に採決を与える。

庶民院:騎士や市民が属する。請願や訴訟を代表する。

貴族院庶民院が公式名称になるのは16世紀に入ってから。(p60-61)