前回からの続き。
《清教徒革命→共和政→王政復古》の流れ
17世紀半ばより始まった清教徒革命から共和政という大きな流れがあったが、結論を先に言えば、中心人物であるクロムウェルの死により、もとの王政の状態に戻った(王政復古)。
君主制の歴史において、注目したい点は、クロムウェルが王位に就かなかったことだ。
[クロムウェルはイングランド王の]チャールズを敢えて処刑することにより、過去にさかのぼる政治的権威から自由の身でいることを誇示した。強大な力を持ったクロムウェルの政治力を制限し、先例や法治にしばりつけるために、議会は彼に「王位」を提示したが、「王という称号は最高の権威を意味する官職名にすぎず、それ以上の何者でもない。ちょうど防止の羽飾りのようなものだ」とあっけなく拒絶された。(p68)
彼の言葉からも、クロムウェルのずば抜けた政治的才能と絶対的な権力を保持していたことが伺える。そのため、他の有力者たち(議会)は彼にブレーキをかけることができず、ただ彼の死を待つしかなかった。
この出来事で学ぶことができる教訓は、共和政の絶対権力者を生み出さないためにも、政治的に制限が課された王を戴いたほうが賢明だ、というものだ。まあ世界諸国において、お国柄や地域性があるので絶対的真理ではないが。
権利章典
次に重要なキーワードは「権利章典」(1689年)。
王政復古時に王位に就いたのはチャールズ2世。問題は後継者にしようとした王弟ジェームズ(のちのジェームズ2世)がカトリックだったことだ。当時のイギリスではカトリックが1%に過ぎず、議会はこの後継者問題に難色を示していた。これに対してジェームズはイングランド国教会とスコットランド教会(カルヴァン派)を尊重するという約束し、議会は王位継承を認めることで、議会も彼の王位継承を認めた。
しかし、この問題の本質は宗教の問題ではなく、ジェームズ自身が議会に対して友好的ではなかったということだった。果たして、王位に就いたジェームズ2世はカトリックの面々を要職に就けて議会と対決姿勢をとった。
これに対して議会が立ち上がり、ジェームズ2世を追放する。これが名誉革命。
名誉革命の後、議会はウィリアム(3世)を王位に就かせた(ウィリアムはジェームズ2世の甥で娘メアリ(2世)の婿) (ステュアート朝#系図 - Wikipedia 参照)。
[ウィリアム3世とメアリ2世夫妻]の戴冠式では、「イングランド諸王」により与えられた法と慣習を人民に与えることを確認する」というそれまでの文言が「議会の同意により制定された法と、同様に定められた慣習に基づき、人民を統治する」という宣誓文に改められた。これは君主が法の創造者であるという考えを放棄した象徴的な出来事であった。
こののちに定められた「権利章典」でも、「議会の合意のない法律の停止は違法である」との条項が盛り込まれ、ここに正式にイングランドは「王権と議会」によって統治されることが明示されたわけである。さらに1689年以降は、議会は毎年開かれることが定例化し、「議会はもはや行事ではなく制度」になった。(p70)
権利章典では王が議会の許可無く徴税できないことが盛り込まれ、また、王領の収入についても議会に束縛を受けた。(p70)