歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その5

権力の下方への拡散(続き)

選挙法改正

選挙法改正の話をする前に、そもそもイギリス(イングランド)の歴史の中の選挙とはどのようなものかを確認する必要がある。

貴族院の議員は非公選で終身制。よって選挙法といえば、もっぱら庶民院の話になる。

庶民院は、14世紀には37の州から2名ずつ選ばれる議員と、80の都市から2名ずつ選ばれる議員とに分けられた。1430年には「州選挙区(カウンティ)」における選挙権の規定も定められ、年間40シリング(当時王に仕える弓兵が受け取る80日分の賃金に相当)以上の収入をうむ、土地または地代を持つ自由土地保有者とされた。この規定はなんと400年も変えられなかった。(p61)

そして400年後の1832年に第一次選挙法改正が実現するわけだ。

この頃はフランス革命(1789-1815)の煽りがドーバー海峡を渡って庶民の政治参画運動として現れた頃だった。革命による動乱を避けるべく議論のすえに選挙法改正が成された。

背景と経緯 [中略]1830年にグレイ内閣は初めて選挙法改正を議会に提出した。その法案は、ブルジョワ階級を含む中流階級にまで選挙権を拡大することによって、進行する工業化社会に対応することめざしたが、同時に従来の地主階級の政治支配は維持・強化しようとするものであった。法案は下院を通過したものの、上院(貴族院)で否決されてしまった。
盛り上がる運動 これに対して、ブルジョワ階級は銀行家や産業資本家が結成したバーミンガム政治同盟を中心に運動を展開し、さらに労働者階級にも呼びかけた。労働者も普通選挙権と秘密投票を要求して立ち上がり、上院が法案を否決した事に対し、ブリストルノッティンガム、ダービーなどで暴動を起こした。
上院を黙らせる この状況を前にしてグレイ内閣は、法案通過に必要な上院の過半数を獲得するため新貴族の創設を国王に要請し、国王もそれを認めたので上院もついに屈服した。つねに保守的な上院を黙らせるために、新貴族を創設するというやり方はこの後も続く。

出典:イギリス選挙法の改正/選挙法改正<世界史の窓

選挙法が改正される庶民院が抵抗するのではなく、貴族院がするところが興味深い。そして挙句の果てには彼らの特権が縮小している。さらには国王が既存の貴族を敵に回して選挙法に賛成した。

これにより選挙権は下層中産階級(小売店主層の男性世帯主)まで拡大されることになった。ただし、選挙権を得られなかった労働者階級はこれを受け入れるはずもなく、さらなる改正を要求することになる。(p75)

1830年代後半より労働者階級の政治参画運動(チャーチスト運動)が活発になる。この運動自体は貴族院だけではなく庶民院も反対して下火になるのだが、選挙法改正の動きは断続的に続く。

第二回改正(1867)では都市部の、第三回改正(1884)では地方の労働者階級にまで選挙権は拡大した(ただし男性のみ)。

二大政党制と政治家の変容

第二次選挙法改正が実現してから初めて行われた総選挙(1868年11月)では与党保守党が敗北し、首相のベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881)は新しい議会を開かずに、女王の午前に赴いてじいを表明し、第一党となった自由党の党首ウィリアム・グラッドストン(1809-1898)を後継首班に推挙した。イギリスで総選挙の結果が、そのまま政権交代へと直接的に結びついた最初の事例であった。(p76)

庶民院に伝統的にあった派閥、トーリ党とホイッグ党はそれぞれ保守党と自由党となり、この2つが政権交代可能な二大政党制を確立させた。

さらに政治家たちは、庶民対力の請願に対して積極的に審議するようになった(本来、庶民院はそのような場であるのだが、審議で発言する議員は三分の一に満たなかった(p76) )。

そして議員・候補者たちは街頭演説するようになり、私たち現代人が知っているような政治家の姿にかなり近づいていった。

立憲君主制の確立

以上までは、ヴィクトリア女王(在位:1837-1901年)の治世までの話。

こうしてイギリスの立憲君主制は、ヴィクトリア時代が終焉を迎えるまでには完全に定着し、新しい世紀を迎えることとなる(p78)