歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その6

前回からの続き。

人民予算

20世紀に入っても庶民の政治参画への熱は治まらなかった。保守党・自由党の二大政党は様々な労働者向けの政策を打ち出したり政治キャンペーンを行なって彼らの支持を取り付けようとした。いっぽう、労働者たちは複数の労働組合をまとめる形で労働代表委員会を立ち上げた(1900年。1906年労働党に改称)。

20世紀初頭はドイツヴィルヘルム2世が「帝国主義政策」を推し進めて、イギリスはこれの対応を迫られて増税しなければならなかった。

1909年のアスキス政権における蔵相デビッド・ロイド=ジョージは、軍事費と社会保障の予算の捻出のために累進課税と土地課税制度導入、相続税の大幅増額を打ち出した。予算案は庶民院を通過したが、貴族院はこれを拒否。これに対してアスキス政権は人民予算の是非を問うために解散総選挙を打って出た。

与党自由党は第一党にはなったものの過半数を獲得することはできなかったが、一部野党の賛成を得て人民予算案を庶民院で通過。貴族院は国王エドワード7世の仲介もあって通過する。このとき指導者間の「密約」があったと著者は書いているが(p82)、その内容は書いていない。

議会法

ただし、選挙の前に貴族院が予算案を否決したことは名誉革命以来なかったことであり、貴族院への不満が高まった。これに対し、 自由党貴族院の権力の削減を目指した。それが「議会法」だ。

以下の二点がポイント。
 1)上院は予算案を否決、または修正することは出来ない。
 2)その他の法令も、下院が3会期引きつづき可決すれば、上院が否決しても法律として成立すること。
 これによって、貴族によって構成される上院の権限は制限され、国民が選挙で議員を選ぶ下院の優越を実現させた。

出典:議会法<世界史の窓

貴族院の反発は必至だった。この時、エドワード7世は亡くなっていたが、あとを継いだジョージ5世が間に入って調整し、貴族院でも法案が可決された。これによって貴族院の権力が一気に縮小した。