これからメソポタミア文明②シリーズを書く。「メソポタミア文明②」カテゴリーに保存する。
「メソポタミア文明①」カテゴリーはシュメール人最後の王朝ウル第三王朝の滅亡まで書いた。今回のカテゴリーはその続きとなる。
メソポタミア文明の地図
おさらいも兼ねて地図の話をする。
メソポタミアと呼ばれる地域は現代のイラクとほぼ同じ地域と考えればいい。
出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3
ウル第三王朝が滅びてからは、メソポタミアの南北で政治が分かれる。南メソポタミアはバビロンという都市が中心になり、北メソポタミアはアッシュルという首都を持つ国家アッシリアが支配する。こういう状況を踏まえて、
と呼び習わされている。
時代が進むにつれて、ユーフラテス川を北西に上るように文明が広がり、地中海に出ていく。
時代区分
このカテゴリーで書いていくのは前2000年以降。
出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/巻頭ⅵページ
メソポタミア文明の終わりの時期について。以下は『古代メソポタミア全史』(中公新書/2020)を書いた小林登志子の言葉。
「古代メソポタミア史」は紀元前3500年の都市文明のはじまりから、前539年の新バビロニア王国の滅亡までを、学問的には扱います。
新バビロニアはアケメネス朝ペルシア帝国に滅ぼされるのだが、滅亡後のメソポタミアは重要性を失った。
ただ、ここではアケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされるまで入れることにする(中田氏の略年表のとおりにする)。
歴史の主役の交代:アムル人
最初に文明ができてから前2000年まで、メソポタミアの政治の主役はシュメール人(とアッカド人)だった。
前2000年の主役はアムル人。アムル人に関しては次回に書く。
ウル第3王朝が滅亡するとメソポタミアの都市はばらばらになり都市国家にかえったが、南メソポタミア(バビロニア)ではイシン市などの有力な都市国家が支配領域を拡大していく。北メソポタミアでは上述のアッシリアが勃興し版図を広げていく。
そして、時代が進むと南北メソポタミアを越えて、領域国家どうしの群雄割拠状態になった。文明圏は地中海にまで及びエジプト文明と交わるようになる。
他地域へ拡大する文明
メソポタミアの他にエジプトでも大文明が発展していた。そしてこの2つの通り道であるシリア・パレスチナに文明が伝播し、根付いた。
このカテゴリでは、メソポタミアの歴史ではないシリア(ミタンニなど)やアナトリア(ヒッタイト)の歴史も入れる。
オリエント世界
メソポタミアとエジプトが政治的な交流が頻繁になると、ひとつの文明圏として考えることができるようになる。これをオリエント世界という。
このカテゴリでは新バビロニアまでのオリエント世界の歴史も入れる(エジプトは除く)。