前回からの続き。
イシン第一王朝
上述のように、ウル第三王朝の将軍だったアムル人イシュビ・エラがイシン市で王となり前2017年に独立し「イシン第一王朝」が始まった。これによりイシン・ラルサ時代が始まる。
ただし、イシュビ・エラはバビロニア(南メソポタミア)全土を支配することができなかった。
イシュビ・エラは前2017年に独立するが前2004年まではウル第三王朝は存続する。その後、ウル市を滅ぼしたエラムが新たな敵となるが、これを長い年月をかけて追い払い、そして重要な都市であるウル、ウルク、ニップル *1 を支配下においた。
ここでライバルであるラルサが立ちはだかる。(ラルサについては後述)。
↑の地図より上部にエシュヌンナという有力な都市国家が在った(エシュヌンナについても後述)。
イシン第一王朝はウル第三王朝の後継を自認した。これはウル、ウルク、ニップルを優先して支配したことにも現れている *3。 5代目の王リピト・イシュタルの治世にリピト・イシュタル法典を作成したが、これはシュメール語で書かれた(普段はアッカド語(古バビロニア語)を話し、シュメール語は話されなくなった)(法の話は別の機会に書く)。
イシンの繁栄の源泉はペルシャ湾との交易だった。この交易については以下の記事で書いた。
上述のリピト・イシュタル王の治世(前1934-前1924年)にウル市をラルサ王グングヌムに奪われ、ここから衰退することになる。
最後は前1794年、最後の王ダミク・イリシュが、ラルサ王リム・シン1世に敗北し、イシン市は完全に併合された。
ラルサ王朝
『ラルサ王名表』というものがあるのだが、実在が確実なのは4代目王ザバイア(ザバヤ)(前1877-前1868年)からだ。これらの王たちもアムル人。
5代目グングヌム(前1932-前1906年)の治世で、イシンからウル市を奪うことに成功した。その後、王は宗教都市ニップルも占領したが、王の死後に奪還された。だが、これ以降もラルサの優勢、イシンの劣勢の情勢は一貫していた。
13代目王ワラド・シン(前1834-前1822年)は父クドゥル・マブクとともにラルサ王を簒奪した簒奪者だ。クドゥル・マブクはエラム系の名前とされる一方、ワラド・シンは「アムル人の父」と称している。だから彼らはアムル人説とエラム人説がある。ワラド・シンの頃はニップルは支配していたようだ。
14代目王リム・シン(前1822-前1763年)の治世にイシン市を併呑し、南バビロニアを統一したのだが、前1763年、ラルサ市はバビロン軍の攻撃を受けて陥落した。ラルサは滅亡する。
エシュヌンナ
イシンとラルサがペルシャ湾の交易権益を争っていた頃、北東の有力都市国家、エシュヌンナはこの抗争とはそれほど関係していなかった。
エシュヌンナはティグリス川の支流ディヤラ川の東岸に位置する。
東方の山地の貴石や鉱物などの資源を輸入する要衝の地であった。初期王朝時代から名前が見える。ウル第三王朝末期にはウル市の支配から独立した。ただ、これ以降の歴史は断片的にしか分からない。たまに他の国家の歴史で言及される程度だ。
アッシリア方面からの数度の侵攻 *4 も撃退し繁栄を保ったが、最後はバビロンの王ハンムラビに滅ぼされた。
続く。次回はハンムラビのバビロン第一王朝。
*1:ニップルはシュメールにおける最高神エンリル神崇拝の中心地であり、その宗教的重要性のために古代の王たちによって争奪が繰り返された。ニップル - Wikipedia
*2:1998年出版されたものの文庫化