歴史の世界

メソポタミア文明:ウル第三王朝④ シュルギの後の王たち/滅亡まで

ウル第三王朝は約100年続くが、そのうち48年間はシュルギの治世だった。

前回のシュルギの記事でも書いたが、ウル第三王朝の事柄はシュルギの治世中にできてしまったので、彼より後の王たちについては書くことがあまりない。この王朝はシュルギの後に三代続くが、これをまとめて書いてしまおう。

三代目アマルシンと四代目シュシン

アマルシンは「シン神の仔牛」の意味、シュシンは「シン神の人」の意味。シン神はウルの都市神のナンナのこと(それぞれ「アマル・シン<wikipedia」「シュ・シン<wikipedia」参照)。治世期間はどちらも9年。

シュシン王誕生の異なる2つの説

シュルギは48年という長い治世ののちに死ぬ。息子のひとりアマル・スエン(あるいはアマル・シン)が王位を継ぐが(前2046-38)、彼と兄弟(親子という説もある)シュ・シンとの争いがしだいに深刻になった。おそくともアマル・スエンの治世第6年までには、シュ・シンはみずからを王と呼ばせていたらしい。王朝表〔シュメール王名表のこと-引用者注〕はアマル・スエンの治世を9年と数えているが、じっさいには、8年にはすでに死亡していた。首都では政変があり、しかもそれがシュメール各地をまきこんだことは確実で、アマル・スエンの死亡前後に、ウンマ、ギルス、プズリシュ・ダガンでおおくの高級官僚たちが交替させられている。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年(上記は前川和也氏の筆)/p195

上の引用の後もクーデター説の傍証となる事項を挙げている。

もう一つの説。

アビシムティは、夫のアマルシン治世と同様に、息子シュシンが党位したからも、実弟ババティの協力を得て宮廷内に隠然たる勢力を持った。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p157

前田氏はクーデターに関してはそれを示す明白な史料は今のところ無いとしている(p167)。

「アマル・シン<wikipedia」は前者のクーデター説で書かれており、アマル・シンの王妃アビシムティはシュシンに寝返ったとしている。

どちらが正しいかは分からないが、シュシンの治世になってもアビシムティが相当の権力を持っていたことは確実だ。

アビシムティの国家祭儀の創設

祭儀に関して、アビシムティは、イナンナ女神を重視して、新規に、イナンナ神のためのウナアの祭、イナンナの巡幸、それに聖婚儀礼を行うようになった。

新設された祭の一つ、ウナア「(月が)臥(ふ)す日」とは、新月前の朔(さく)、月がまったく見えないときのことである(前田1992b、前田2010a)。当時の暦は、月が見え始める新月を第1日とするので、ウナアとは前月の最後の日になる。ウナアの祭は、アマルシン4年から確認され、アマルシン治世と次のシュシン治世ではアビシムティが主宰し、イッビシン治世ではイッビシンの王妃ゲメエンリルが主宰した。[中略]

ウナアの祭が注目されるのは、月齢の祭であるにもかかわらず、月の神ナンナでなく、イナンナ神のためであり、それもシュメール古来の戦闘の神イナンナでなく、豊饒の神としてのイナンナのためであるという点にある。イナンナ神に捧げられたウナアの祭とは、新月前の朔のとき、宇宙の循環が正常に繰り返されることを保証する豊饒儀礼である。イナンナ神は、当然豊穣神であることが期待された。

アビシムティは、息子シュシンが王位に就いた頃から、イナンナ神を都市神とするシュメール都市ウルク、バドティビラ、それに、ウンマの一市区になっているザバラムを巡幸し、イナンナのための奉納儀礼を行うようになった。イナンナ神を祭る聖地の巡礼、それが第二の革新である。アビシムティが諸都市においてイナンナ神を祭ったのは、それぞれの都市における都市神としてのイナンナ神でなく、国家祭儀の一つとして、ウル第三王朝の領域全体の豊饒と安寧を祈願するためである。

第三の革新として、アビシムティの手動のもとにシュシン治世に始まったのが、豊穣神イナンナの聖婚儀礼である。聖婚儀式とは、新年になったときに行われる祭りである。ドゥムジの役を果たす王とイナンナ神との婚礼儀式の形式を採り、豊饒・多産を祈り、豊かな国土と平安な日々を保証するものである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p157-158

  • 新月前の朔(さく)」について。ここでは「みそか」を意味する。「新月」「朔」ともに複数の意味がある。辞書で引用文に関連のあるものを挙げると、①「新月=朔=見えない月」。②「朔=太陰暦で、月の第1日。ついたち」。辞書では新月は「見えない月」と書いてあるが、「(見えない月から再び)見え始めた月」として使用している場合もあるようだ。引用文もその一つ。「新月=第1日。ついたち」という使い方も辞書にはないが使用例はあるようだ。

聖婚儀礼はおそらくウルク期末期から行われている。このことは記事「ウルクの大杯に学ぶ④(聖婚儀礼・王)」第一節「聖婚儀礼」で書いた。シュシン王が行った聖婚儀礼も古来からの伝統に倣ったものと思われる。

ウルク期の聖婚儀礼ウルク市の豊饒を祈願するものだったが、アビシムティとシュシン王が行った聖婚儀礼は国家儀礼だった。

外からの圧力

シュ・シン(前2037-29年)は、たしかにシュメール・アッカド地方の行政の再建につくしている。けれども、ウル王朝の外部から加わる圧力は、彼の時代にきわめて強くなった。[中略]

アムル人はアッカド語とはわずかに異なるセム語を話したが、アッカド人がはやくから南部メソポタミア地方の北部に住みつき、都市的な生活様式を採用したのにたいして、かなりの数のアムル人が、ユーフラテス河上・中流地方で、部族的紐帯を保ちながら牧民として生活していた。ウル第三王朝時代には、シュメール・アッカド地方に入り込んできたのである。

彼らの流入を防ぐために、すでにシュルギ王は治世37年に「国土の防壁」を建設しているが、シュ・シン治世4年になってさらに長大な防壁が作られる。この年は、「ウル王、神たるシュ・シンがムリク・ティドニム(という名)の西方防壁を作った年」とよばれた。ちなみにシュメール語でいう「西」は、アムル人の住む地域と同義であり、またアッカド語ムリク・ティドニムは、アムル人の一部族ディドヌムを撃退することを意味する。防壁建設を命じられた辺境の軍事司令官は、シュ・シンに手紙を書いて、アムル人たちが近くまで住みついていること、長城を建設するための労働者の数がたりないことなどを訴えた。

イラン高原エラムでも、ザブシャリ国が中心となり、おそらくウルミア湖あたりから南部までの広大な地域が、いっせいに反乱した。結局シュ・シンは大反乱を鎮圧しているが、次王イビ・シンのときエラム人はふたたび南部メソポタミアに侵入して、ついにウル王朝を滅亡させる。

出典:世界の歴史1(上記は前川和也氏の筆)/p196-197

西のアムル人、東のエラム人の他に北のフリ人も反乱を起こしたが、東西の脅威のほうが遥かに大きかった。

五代目イビシンと滅亡

「イビ・シン<wikipedia」によれば、その名の意味は「シン神(ナンナ神)に呼ばれたる人」。治世は24年。しかし彼の治世のあいだに王朝の支配領域は断続的に減少して滅亡に向かった。

滅亡については記事「ウル第三王朝① 概要」第六節「ウルの滅亡」で書いてしまった。詳しくはそちらを参照。

イビシンの2年にはすでに、シュメール地方北部にある家畜群の集積管理センタープズリシュダガンが機能しなくなった。治世17年(前2017年)にはシュメール地方中西部のイシン市が自立する(イシン第一王朝成立)。前2004年、王朝の滅亡はエラム人がウル市に侵入し王を連れ去るという惨劇で幕を閉じる。