歴史の世界

楚漢戦争⑲ 劉邦の躍進

前回までは項羽政権の全体を見てきたが、今回は劉邦の分封後の展開を見ていく。

劉邦の分封

巴蜀

懐王は鉅鹿の戦いの前に諸将の面前で「先に関中に入った者をこの地の王とする(先入定關中者王之)」と言った。

そして戦いが終わり、項羽が分封をしようとする矢先に懐王は項羽に「約の通りにせよ」と言ったという。

さらに、項羽とそのブレーンの范増は「巴蜀も関中である」という詭弁をつかって劉邦を漢中の王とした。また、范増は鴻門の会の時から、劉邦を天下を狙う野心のある人物として警戒していたと言う。

しかし藤田勝久氏はこのことに疑問を呈している。

問題となるのは、十八王の分封の時点で、やがて沛公が天下を取ると意識されていたかということである。もし沛公が漢王朝を立てることが予想されていれば、たしかに「漢中もまた関中である」といって追いやったという味方もできよう。しかしこの時点で、沛公は楚王の連合軍の一つであり、さらに鴻門の会のペナルティがあるとみなされたら、その封建は漢中あたりに落ち着くのではなかろうか。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社メチエ選書/2006/p144

漢中

劉邦が漢中王または漢王と呼ばれ、のちに漢帝国を建国するようになったのは巴蜀の他に漢中の地を分封されたからだ。漢中とは現代の陝西省の西南部にある漢中盆地のことであり、関中(渭水盆地)と巴蜀四川盆地)の間にある地である。

史記』留侯世家(張良の伝記)によれば、劉邦巴蜀を分封された後に、張良を通じて項伯に賄賂を贈って漢中を分封に加えることを働きかけて成功したという。

関中と漢中の間には秦嶺山脈を越えなければならず、漢中は秦人にとっても辺境の地であったが、巴蜀になると漢人がほとんどいない土地で、当時の中国文化とは別世界の土地だった。また、漢中からは漢江(漢水)を下って武漢から中原に出て情報を得ることができるが、巴蜀から中原に出るには漢中を通らなければならなかった。

個人的には、項羽は最初から劉邦を漢中王に分封して、巴蜀は「おまけ」でつけただけではないかと思っている。

項羽・范増が劉邦巴蜀だけを与えたとすれば、それは価値の無い場所を与える、もしくは価値の有るものを与えようとしないという意思であり、そのような意思のあるところに張良・項伯がいくら働きかけても価値の有る漢中を付け加えるのはおかしいのではないか。

韓信登場

漢元年(前206年)4月、劉邦は関中から王都となる南鄭に赴任した。僻地へ着くやいなや劉邦に着いてきた兵士または諸将までも逃亡が後を絶たなかった。劉邦はこのような事態に無関心を決め込んでいたが、蕭何が逃亡したという話を聞いてさすがに顔色を変えた。

数日経って蕭何が帰ってきたので、劉邦が蕭何にいなくなった理由を問いただすと、逃亡した韓信を追っていたというのだ。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違う。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした。

出典:韓信 - Wikipedia

韓信はもともと項羽の下で働いていたが、軽く扱われていたので劉邦の下に移っていた。蕭何は上の事件より前から韓信が傑物であることを見抜いていたが、劉邦は蕭何の推挙を袖にしていた。そしてこの事件によって初めて意を決して「才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした」。

ちなみに、韓王信と韓信を混同しがちなので注意が必要だ。

劉邦の関中侵攻

5月になると斉で田栄が反乱が起こし6月までに旧斉地域を掌握して斉王となる。

劉邦はこれに続く形で関中に兵を進め、8月までに3王を倒して旧秦地域をほぼ掌握する。

史記』淮陰侯列伝(韓信の列伝)によれば、関中侵攻の前に韓信が献言している。要旨は以下の通り。

蕭何の推挙により大将軍となった……韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。

出典:韓信 - Wikipedia

「20万の兵士を犠牲にした」というのは、項羽が関中入りする途中で反乱を起こす予兆が見られた秦の降兵20万を坑殺(穴埋め)にしたこと。これを秦人は恨んでいるということ。

この献言は後世の評価・分析を韓信の言葉としただけかも知れないが、情勢分析と項羽と劉邦の比較評価として有効だ。生粋の軍人であり、政治行政の経験が無い項羽と、軍事力不足を政治外交力でカバーしてきた劉邦を簡潔に表している。

漢2年(前205年)11月 *1 に入ると秦の3王のうち塞王司馬欣・翟王董翳を降伏させた。さらに項羽が対斉戦争に集中している隙をついて、函谷関を出て中原に打って出た。河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させ、韓王鄭昌(魏の東部)を降伏させる。

漢の社稷を建てる

2月、劉邦は秦の社稷をのぞいて、漢の社稷を建てた。つまり漢王国を建国した。

社稷
中国古来の祭祀の一つ。社は土地の神,稷は穀物の神で,この両者が結合し,周代に政治的な礼の制度に取入れられ,天下の土地を祭る国家的祭祀になった。そのため国家の代名詞としても用いられる。社稷の祭りは春秋2回行われ,天の祭りである郊,祖先の祭りである宗廟 (そうびょう) と並ぶ三大祭祀の一つとして,これを主催することは長い間天子の重要な任務とされていた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/社稷(しゃしょく)とは - コトバンク

藤田氏によれば、社稷をのぞくということは国家の滅亡を意味する。そして同時に漢の社稷を建てたということは漢が秦の制度を継承するという意味を持つ。劉邦はそれまで楚の政治システムを使っていたが、この時期より秦のシステムを採用した。(藤田氏/p152)

ちなみに、『史記』蕭相世家では、劉邦が関中入を果たして咸陽の宮殿に入った時、《略奪に走る諸将を尻目に、蕭何はひとり秦の丞相と御史の役所に所蔵されている律令と図書を押収して保管した。そしてこの基礎のうえに、沛公は漢王となり、沛公は蕭何を丞相とした *2 》とあるが、膨大な竹簡を持ち出すこと自体が考えにくい。個人的には、この図書倉庫は蕭何によって封印されて、劉邦が関中を再び征服した時に改めて蕭何の手元に収まった、と考える。 *3

魏の攻略

3月、劉邦は魏の攻略する。この時期になっても項羽はまだ斉の反乱に手間取っていた。 まず旧魏地域の西部にある西魏を攻めて西魏王豹を降伏させ、東部の殷王司馬卬も降伏させる。旧魏地域には項羽の直轄地があったと言われるがこれがどうなったのかはよく分からない。一時的に劉邦が領有したかもしれない。

陳平の劉邦陣営の加入

陳平は劉邦を、そして漢帝国を支えた重要人物だ。

陳勝呉広の乱が勃発すると、若者らを引き連れ魏王になっていた魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず、周りの讒言により逃亡する。次に項羽に仕えて、謀反を起こした殷王・司馬卬を降伏させた功績で都尉となったが、司馬卬が東進してきた劉邦にあっさり降ったため、怒った項羽は殷を平定した将校を誅殺しようとした。身の危険を感じた陳平は項羽から与えられた金と印綬を返上し、そのまま再び出奔した。

出典:陳平 - Wikipedia

彭城の戦いへ

彭城の戦いは4月に開始する。この戦いについては次回書く。



*1:「漢」暦は10月が年始となる

*2:佐竹氏/劉邦/p307-308

*3:史記』に書いてある始皇帝及び戦国秦の膨大な事績はこの図書に拠っている。

楚漢戦争⑱ 項羽政権の瓦解 後編

旧秦地域

まず、劉邦巴蜀と漢中を、秦の降将3将にそれぞれ関中を3分割して分封された。しかし、8月になると、劉邦は関中を征服し、旧秦地域全土をほとんど手中に収める。

項羽は激怒するのだが、斉がすでに項羽に対して戦争をしかけているので、劉邦の征伐のために割く余裕はなかった。

漢2年に入ると、抵抗していた降将3将のうち塞王司馬欣・翟王董翳が降伏する(雍王章邯は5月に韓信に滅ぼされる)。河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させる。

韓王鄭昌は降伏しなかったので劉邦は韓大尉信(後の韓王信)を派遣し攻め滅ぼさせた。そして信をそのまま韓王にした(11月)。

劉邦の動向の詳細については別の記事で書く)

韓・魏

上述の柴田氏によれば、分封直後の項羽の関心は三晋南部すなわち韓・魏に集中していたとのこと。

韓には河南王と韓王が置かれた。

従来の韓王成をそのまま韓王にし、「張耳の嬖臣」申陽を河南王とした。しかし項羽は漢元年四月の諸侯就国時にも韓王成のみは就国させず、彭城まで同行させた上で侯におとし、最終的には殺害するに至った 。韓王成の殺害をきっかけに、張良は漢に身を寄せた。『史記』は、項羽が韓王成殺害後の漢元年八月に鄭昌を韓王に立てたのは 、漢の東方進出を警戒して旧韓地域を自らに近い勢力で固めることを目論んだものと評している 。

出典:柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF

冒頭の地図では旧魏地域は西魏と殷とに分割され西魏王は魏豹、殷王は司馬卬となっている。

旧魏も西魏と殷の二国に分割された。魏豹は陳勝政権期に魏王となった魏咎の弟で、項羽に 従って入関した武将の一人、司馬卬は趙の武将の末裔で張耳らの趙国の将として活躍していた。

しかし、柴田氏によれば、旧魏領域のうち梁とその周辺地域は項羽の直轄領とされたため、西魏・殷は旧魏領域全体からすればごく限られた地域に過ぎなかった。

陳丞相世家によれば、漢の三秦平定と前後する時期に殷王司馬卬は楚に叛いている。この動きが漢と呼応したものかどうかははっきりしない。殷王司馬卬は項羽に派遣された陳平によって帰順させられているが、この殷王を漢は漢二年三月に撃ち、翌月には河内郡を置いた 。この時陳平は項羽の怒りを恐れて楚軍から逃れ漢に降ったという 。陳平は、自らが帰順させた殷が容易に漢に降ったことに対する項羽による責任追及を恐れたものと思われる。さらに同じく漢二年三月には魏王豹も漢に降っている 。

出典:柴田氏

楚地域

楚では項羽の他に3人の王が封建された。3人とも項梁が兵を上げてからの将だ。

  • 黥布:九江王 +呉芮:衡山王 +共敖:臨江王

このうち黥布(英布)のことは『史記』黥布列伝があるので詳しく分かっている。黥布は他の2王と共に、項羽に義帝を殺害するように命令されて実行したとされている。ただし斉の反乱や彭城の戦いで項羽の救援要請に対して病と称してみずから出馬せず、派兵にとどめている *1 。そして楚漢戦争の間に劉邦へ寝返っている。

呉芮(ごぜい)については楚漢戦争への参戦の記録が無いらしい。「呉芮 - Wikipedia」によれば、「時期は不明だが呉芮は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した」。前漢成立後、呉芮は長沙王に封建されている。

共敖についても呉芮と同様に記録が無い。「共敖 - Wikipedia」によれば、共敖は漢3年(前204年)に死亡し、子の共尉が王を継ぎ、共尉は高祖5年(紀元前202年)に漢王劉邦項羽を破った際に劉邦に降伏しなかったため、劉邦は盧綰、劉賈を派遣して共尉を撃ち、捕虜とした。 これにより、共敖は項羽陣営に属したと考えられる場合が多いが 、決め手はない。柴田氏は、共敖は楚漢戦争の動向に直接的には関係しなかったと考えている。

柴田氏は3王について以下のように書いている。

項羽が黥布以外に出兵を命じた記事が見出せないことは、項羽政権が周辺の諸国に対してそもそも強固な規制力を有しておらず、ましてや軍事動員を一方的に強要できるような存在ではなかったことを示唆する 。項羽にとっては、黥布くらいしか動員し得る可能性のある対象がおらず、しかもその黥布にも距離を置かれたのである 。

年表

漢元年(前206年)1月 項羽による18王分封。
4月 諸王が封地に就く。ただし項羽は韓王成を封地へ行かせずに彭城まで同行させた(のちに侯におとし、最終的には殺害する)。
5月 で田栄が反乱を起こす。
6月 田市が封地の膠東(斉東部)へ行く途中に田栄に殺される。田栄は斉王となる。
7月 劉邦が関中に侵攻。8月までにほぼ関中全土を手中に収める。分封された領土を合わせ、旧地域全土を領有する。
同月 臧荼、遼東王韓広を攻め滅ぼし、旧地域全土を領有する。
同月 項羽韓王成を誅殺する。
8月 項羽、鄭昌を韓王にする。

漢2年(前205年)10月 項羽、楚の3王に命令して義帝を殺害する。
同月 常山王張耳が陳余に攻められ逃走、劉邦のもとへ行く。陳余はもとの趙王趙歇を趙王に復帰させ、自分は代王になる。
11月 劉邦、秦の3王のうち塞王司馬欣・翟王董翳が降伏する。 同月 劉邦、河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させる。
同月 劉邦、韓王鄭昌(魏の東部)を降伏させる。旧地域は劉邦が領有する。
1月 項羽、斉を攻め、王・田栄を殺す。
2月 項羽、楚に亡命していた斉の田仮(田假)を斉王にする。
3月 田横(田栄の弟)、斉で反乱を起こす。田仮は楚に逃げたが、楚で殺される。
同月 劉邦西魏に侵略、西魏王豹は降伏する。これにより旧魏地域のうち項羽領有以外の地域は劉邦の手中に入った。
同月 劉邦、殷に侵略、殷王司馬卬は降伏する。項羽の領土がどうなったかはわからない。
4月 彭城の戦い。

彭城の戦いの直前までの情勢

楚:項羽以外の王の動向は『史記』に見られず、項羽に協力しないで中立を保ったようだ。
斉:項羽は反乱を起こした田栄を倒したが、その弟の田横が残党をまとめて反乱を再開し、交戦中。
燕:臧荼が全土を領有。
趙:陳余が事実上趙の支配者になる。
秦・魏・韓:劉邦支配下に入る。ただし項羽が領有していたはずの魏地域の領土がどうなったかが分からない。

項羽政権は発足当初から戦いが絶えなかった。そもそも中国全土を統一体とした項羽政権など無かったと考えたほうがいいようだ。項羽の思い通りになった地域は全体のほんの一部で、少し前の近しい仲間だった楚の3王ですら項羽政権を守ろうとした形跡が無い。

いっぽう、劉邦のほうは項羽に降伏してから1年数ヶ月で領有地域が一気に膨らんで、項羽打倒目前のところまで来た。



楚漢戦争⑰ 項羽政権の瓦解 前編

前回からの続き。

漢元年(前206年)1月に項羽による論功行賞(十八王分封)が行われ、いちおう項羽政権が始まる。しかし早くも5月に斉において反乱が起き、ここから項羽政権は崩壊の一途を辿(たど)ることになる。

漢2年(前205年)4月に反項羽軍による彭城の戦いが起こるのだが、それまでの各地の動向を書いていく。

この記事のテキストは、柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF)。

全体像

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社新書メチエ/2006/p142-143

十八王の分封は漢元年(前206年)1月に決められたのだが、諸侯は4月になってから封地に赴いた。

諸王たちは封地に着いた時から能動的あるいは受動的に争い事に関わっていく。多くの王が封地に基盤を持っておらず、実効支配を行う行政をする間も無いまま、中国本土は再び戦乱の時代に戻っていく。

二十国並立の体制はごく短い期間で崩れてゆく。その直接的な原因は、項羽封建を可能とした根拠自体の消滅にあった。分封の実行による諸侯就国は、項羽のもとに結集していた六国連合軍が各地に分散することを意味した。その結果、項羽が直接指揮し得る軍団は対秦戦争期に比べて著しく縮小することになった。これが項羽によって王位を与えられた王たちが以後必ずしも項羽に従わなくなった直接的な理由である。

諸侯就国によって発生した現象はそれだけではない。項羽は戦国七国をさらに分割して中国全土を二十の国に細分化した。そのことは、軍事力の規模からみれば、各国が保有する軍事力の小規模化を意味する。二十国並立体制とは、従来の半分程度あるいはそれ以下に縮小された軍団が国々に分有される体制でもあった。換言すれば、この体制が発動することによって中国には、圧倒的軍事力を保有する勢力の不在状況が生まれ、そのことが各地での新たな紛争の発生に結びついていったのである 。

出典:柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF

  • 「二十国並立体制」とは、分封された十八王の国と、項羽の西楚国と義帝の郴県を合わせた「二十国」の並立体制のこと。

斉における反乱

秦帝国滅亡の直前までの斉は田市(でんし、でんふつ)が王として治めていた。ただし田市は傀儡の王で事実上の支配者は田栄だった。

田栄が鉅鹿の戦い以降の反秦戦争に参加しなかった理由は 《項梁の死と楚国再編》 で書いた。戦争に参加しなかった田栄は内政に専念していた。

ところが、秦帝国滅亡後、斉の地は三分割された。傀儡王・田市の領土は3分の1になり最も辺鄙な地の膠東(山東半島の先端部)に遷された。項羽が決定した論功行賞では田栄自身は言及すらされなかった。

5月に入ると田栄は動き出す。まず新しく斉王になった田都を攻め滅ぼし、膠東王になった田市には封地に行かないように言いつけた。しかし、田市は項羽を怖れて封地に向かい、激怒した田栄に追撃されて殺される(6月)。7月には済北(斉の西部)の王となった田安を攻め滅ぼし、田栄は斉の全土の王になった。

さらに秋になると田栄は彭越に使者を送って将軍の印を授けた。彭越という人物は鉅鹿の戦いには参加しなかったが、劉邦の関中入りを助ける働きをした。この時に千余の兵を得たのだが、項羽の論功行賞において言及されず、どこにも属さないままだった。項羽に対して不満を抱いていた彭越に田栄は声をかけたわけだ。

田栄は彭越に済陰(さいいん) *1 から南下して楚を撃たせた。楚は蕭公角(しょうこうかく)に命じて、兵を率いて彭越を迎え撃たせたが、彭越は大いに楚軍を破った。 *2

項羽自身が斉の征伐に動いたのは、ようやく漢2年の冬になってからだ(「漢」暦は10月より年始が始まる)。12月に平原 *3 において田栄を討伐し、2月に田仮(田假)を斉王にした。

しかし、項羽は征伐において斉人に対して容赦なく破壊・殺害を繰り返したので、斉人は各地で抵抗し、田栄の弟の田横は斉兵数万を結集した。項羽はこれを鎮圧しようとしている間に、項羽の本拠地である彭城に反楚の大軍が攻め入った。

趙:陳余の決起

陳余もまた分封に不平不満を持つ男だ。陳余は鉅鹿の戦いで奮戦した一人だった。にもかかわらず、かつての同志の張耳が王になったのに自分が南皮県 *4を含む3県しか領地を与えられなかったことに対して憤懣やる方なかった。

陳余は斉王となった田栄のもとに使者・夏説(かえつ)を送ってこう言わせた。「どうか私に兵をお貸しください。南皮をあなたの国の藩屏(はんぺい,盾)にしてみせます。 *5」 

田栄はこれを了承し兵を貸して趙王・張耳を攻めさせた。陳余は張耳を敗走させることに成功し(漢2年-前205年-10月)、項羽の分封で代王にされた趙歇(ちょうあつ)を再び趙王に戻し、自身は趙の宰相及び代王となった。実際には代に赴任せずに腹心の夏説を代の宰相として派遣した(12月) *6。張耳は旧知の劉邦を頼って逃げた。

項羽は反秦軍に加わった燕の将・臧荼を燕王にして、もとの燕王韓広は移されて遼東王とした。しかし、しかし韓広は従わなかったので、臧荼は韓広を無終で攻め殺した。これにより臧荼は燕全体の王となる(7月)。



楚漢戦争⑯ 十八王の分封と項羽政権

前回からの続き。

項羽の咸陽入場

鴻門の会により劉邦が全面降伏あるいは全面服従をした後、項羽と諸将は咸陽に入った。

史記』において、劉邦が寛容な態度を示したのと対象的に項羽は残虐行為を繰り返したことになっている。これに対して落合淳思氏は以下のように書いている。

史記』では、劉邦の軍は咸陽入場後も略奪をせず、秦の財物の倉庫を封印したが(高祖本紀)、一方、項羽は咸陽に入って秦の財宝や婦女を奪い、咸陽の宮殿に放火して三ヶ月間燃えつづけた(項羽本紀)とする。

しかし、……『史記』は戦国時代については秦に由来する記録を使っているのであるから少なくとも書庫は燃えていなかったことになる。また、山火事でもないので、三ヶ月間燃えつづけたというのも考えにくい(ちなみに、日本史上最大の火事と言われる江戸時代の明暦の大火でも、二日間で鎮火している)。これも、劉邦の業績を高め、項羽を貶めるために誇張された話であろう。

なお、『漢書』蕭何曹参伝では、劉邦の軍が咸陽に入場した際、諸将が争って秦の宝物を奪ったので、劉邦の参謀の蕭何が先んじて秦の図書を持ち帰ったことになっている。燃えたはずの秦の資料が残っていることとの辻褄をあわせようとして作られた話のなのだろうが、しかし今度は、劉邦の軍が略奪しなかったという部分と矛盾してしまっている。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p160-161

歴史の中では洋の東西を問わず勝者の略奪行為は「権利」だった。さらに言えば、やくざ者あがりの劉邦とその手下が略奪をしないとは考えがたい。

おそらくは、全面降伏した劉邦項羽が来る前に略奪を済ませていたが、その略奪品は項羽によって没収されただろう。略奪品没収でそれまでの越権行為が帳消しになるのなら安いものだ。

十八王の分封

さて、秦帝国を滅ぼしたは良いが、その後の体制はどうなったのか?

漢元年(前206年)の1月 *1 、旧反秦軍は今後のことを項羽に一任した。項羽は形式上は楚国の臣であるのだが、項羽はこの枠組を無視して論功行賞である分封を行った。漢元年(前206年)の1月。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社新書メチエ/2006/p142-143

まずは楚国だが、項羽以外に3人の将を王に立て、懐王は義帝すなわち皇帝に祭り上げて、郴県という僻地に移した。もはや「押し込めた」と言ったほうがいい。

秦地は劉邦と降将の三人とに分け与えた。元の趙王・燕王・斉王の領地は削られて反秦戦争で活躍した将に分け与えられた。

弱かった項羽政権

さて、項羽政権が発足するのだがどのような体制だったのか?

項羽は、それまで王として擁立していた楚の王族の心を皇帝(義帝)とし、自分は「西楚覇王」となり、各地に十八人の王を封建する分権政治を採用した。

この場合の「覇王」は「覇者」と同じように「諸王の長」を意味する。春秋時代の覇者体制は周王の権威を利用した支配体制であったが、項羽も義帝の権威を利用して支配体制を敷こうとしたのである。実際のところ、項羽の権力はあまり大きなものではなく、九郡の王になったにすぎない。[中略]

のちに項羽政権が失敗したことについて、司馬遷は「力で征服して天下を経営しようとした(欲以力征経営天下)」ことが原因であると評したが、そもそも項羽政権ははじめから大きな力を持っていなかったのである。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p164

項羽政権は1月に発足したが、5月に早くも斉の田栄による反乱が起こったことをきっかけにこの政権は崩壊への道を辿(たど)ることになる。

この混乱の中で項羽は義帝を殺害している。その理由として落合氏は「義帝を排除して権威と権力を項羽に一本化する方が得策と考えたため」と推測している(p166)。

別の理由として考えられるのは、義帝は権力欲がある人物だったので、項羽を裏切って他の勢力と結ぶ可能性を考慮して予防的に殺害した、かもしれない。

いずれにしろ、項羽は皇帝になったはずなのだが、このへんはよくわからない。

項羽は戦国楚の政治システムを継承したのだが *2 、このシステムが十分に機能する前に項羽政権は滅んでしまった。



*1:「漢」という元号は実際に使われたものではない。『史記』で秦滅亡後に秦暦の代わりに使われたものだ。実際は、楚暦が使われていたようだ。「漢」暦は秦暦と同じく10月を年始とする。このブログでは便宜上西暦も「漢」暦と連動して10月を年始としている。

*2:秦帝国滅亡直前までの楚国もそのシステムを継承していた

楚漢戦争⑮ 鴻門の会と懐王の約

前回の続き。

項羽の怒りを買い絶体絶命の劉邦は、項羽の陣営に訪問して弁明を行った。その場が有名な鴻門の会だ。

この話を理解する前に前提となる話である懐王の約もこの記事で扱う。

懐王の約

鴻門の会の話に入る前に「懐王の約」の話をする。

どうして地方の長官の一人でしかなかった劉邦が関中王と称したのか?項羽を止められると思ったのか?その根拠となるものが「懐王の約」と言われるものだ。

話は鉅鹿の戦いの前にまで戻る。

高祖本紀にはこの辺のことを書いているが、要約すると以下のようになる。

懐王は趙国の要請に応えて出兵を決定し、主将(上将軍)を宋義、副将を項羽とする。一方、劉邦には兵を西へ展開させて函谷関から秦都・咸陽へ攻め込むように命じた。
さらに懐王は諸将を前にして以下のように宣言した「先入定關中者王之(先に関中に入った者をこの地の王とする)。
この頃の秦軍はまだ強大で、楚国で入関を望む将はいなかった。項羽は項梁を殺された恨みがあるので、劉邦と一緒に入関することを望んだが、懐王や老将らはこの申し出を却下した。 *1

この時の優先課題は趙国の支援であり軍の主力はすべて趙国へ向かい、西方へ向かうのは劉邦の軍だけだった。劉邦の軍は総勢1万前後と思われ、西方から咸陽へ進軍しろと言われても出来るはずがない。実際に鉅鹿の戦いが終わるまでの劉邦の行軍は、劉邦が統治していた碭郡の周辺を転戦していただけだった。実際のところ中央もそれ以上は期待していなかっただろう。

さて本題。「先に関中に入った者をこの地の王とする」。これが「懐王の約」と言われるものだ。劉邦はこれを根拠に関中の為政者層に向けて「私が漢中王になる者だ」と宣言した。しかし上のあらすじで示したように懐王にしてみれば、諸将にハッパをかける意味での空約束に近いものに思われる。

しかし関中に入った劉邦はこの懐王の言葉を鵜呑みにして「私が漢中王になる人物だ」と関中の支配者層の前で公言した。そして関中王として項羽を函谷関で足止めした。

項羽がこの行為に激怒して明日にでも劉邦を征伐しようと議論したことは前回書いた通り。

鴻門の会

鴻門の会の内容の詳細についてはここでは書かない。( 鴻門の会 - Wikipedia 」などで詳しく書かれている。)

佐竹靖彦『劉邦』によれば *2、 『史記』に書かれている鴻門の会のエピソードは劉邦自身が積極的に捏造したものだとする(p302)。

以下、佐竹靖彦『劉邦』の主張に沿って書いていく。

鴻門の会が開かれる前の事件として曹無傷の裏切りがある。『史記項羽本紀には以下のようなことが書いてある。

紀元前207年の冬、項羽は先に秦を降伏させ関中に入った劉邦に対し攻め寄せてきた。曹無傷は劉邦を見限り、項羽に密使を送って「沛公(劉邦)は関中王と称して秦の子嬰を宰相として財産を独占するつもりだ」と讒言し、項羽の腹心の范増も劉邦を討つよう勧めたことで、項羽は翌日に合戦することに決めた。

出典:曹無傷 - Wikipedia

しかし、佐竹氏によれば、《劉邦軍の裏切り者とされる左司馬曹無傷は、沛公が関中王として項羽そのたの諸軍を迎えようとしていことを通知するために派遣された正式の使者であろう》と書いている(p321)。つまりは、劉邦は使者の曹無傷を通して、項羽及び諸将に対して敵意は毛頭無いこと、関中王として彼らを歓迎することを伝えた。

しかし項羽にしてみれば、劉邦が関中王として振る舞っていること自体に激怒しているので、曹無傷の弁明は宥(なだ)めるどころか火に油を注ぐ事態になってしまった。

もはや決戦は避けられない状況になった時、問題を解決するための使者を買って出たのが 項羽の叔父である項伯だった。項伯は劉邦の陣営を訪れた。

このような情勢の中で項伯がやってきたのは、劉邦に降伏を勧めるためであった。張良劉邦救うためには、かれらの降伏以外に方策はないと考え、項伯はかれらの降伏を受け入れるよう、必至に項羽を説得したのである。

出典:佐竹氏/p330

  • この部分も『史記』とは異なる。『史記項羽本紀では項伯は旧知の張良だけを助けるために、密かに張良に会いに来たことになっている。

劉邦張良に相談して、項伯の意見を受け入れることにした。つまり鴻門の会の実態は劉邦項羽に対する降伏であったということだ。

劉邦張良、樊噲、夏侯嬰、靳彊(きんきょう)、紀信等の側近のほか、百余騎のみを従えて項羽軍の駐屯している鴻門亭にやってきた。百余騎とは、諸侯の外出の際の最低規模の儀礼である。一方、亭は戦国時代から降伏の場となっていたことは前章で述べた。

出典:佐竹氏/p331

  • 秦王子嬰が劉邦に対し降伏を申し入れたのは覇上の軹道(しどう)亭だった(p304)。

史記』では、劉邦が宴会の余興の演舞を装って殺されそうになるシーンがある。張良は軍門の外にいる樊噲に宴会の状況を伝えると樊噲は軍門を押し破って中に入り、劉邦の危機を救ったことになっている。さらにその後、劉邦は隙を見て軍門を破って逃げ出したことになっている。

しかしこの話はおかしい。項羽としては軍門を二度もたやすく破られたのだからこれこそ大事件だ。そして軍門を破って逃げた劉邦に対して、項羽が何もしないのは甚だ不自然だ。樊噲が軍門を破って中に入った件も劉邦が軍門を破って逃げた件も捏造だ、と佐竹氏は書いている(p336)。

最後に「璧(へき)」の話。『史記』では、劉邦は逃げる際に張良に向かって「私は項王(項羽)に白璧を献じるために持参したのだが、献上できなかった。貴公が献上してくれ」と言ったことになっている。

佐竹氏は、《春秋以来の降伏の儀式では、降伏者は口に璧を銜(くわ)え、死装束で謝罪する》(p337)。これも秦王子嬰が劉邦に対して行った儀礼だ。実際の鴻門の会の様相は子嬰がしたことと変わらないのではないか。

この他に佐竹氏は席次についても詳細に書かれているのだが、ここでは割愛する。

まとめると、佐竹氏の見立てによれば、鴻門の会は劉邦項羽に対する全面降伏であり、演舞も無ければ途中で逃げることも無く、劉邦項羽に璧を献上して恭順を示して滞りなく降伏の儀式は終わった、とする。

そしてこの儀式が終わって陣営に帰ってきた劉邦はすぐさま曹無傷を処刑した。曹無傷は正式の使者として項羽に送ったのは劉邦であったが、劉邦は《降伏の席で、自分がかれを使者として派遣した事実はなかったと主張したのである》(p338)。こうして曹無傷は降伏を成立させるために犠牲になった。そして劉邦が降伏したという史実を隠すために、曹無傷は裏切り者として後世に伝えられることになった。

劉邦

劉邦



*1:参照:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社新書メチエ/2006/p116-117

*2:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/第十四章 鴻門の会 ほか

楚漢戦争⑭ 関中における劉邦と項羽の確執

前回からの続き。

史記』の中の関中における劉邦項羽の行動は対照的だ。劉邦の寛容に対して項羽は非情の人に描かれている。この内容は今日の研究者によって少なからず疑われている。

前漢時代の人である司馬遷がこのように書くのは当然と思うのだが、それでも彼は後世に事実を伝えようとする努力をしていたようだ。

今回は劉邦の咸陽での対応と項羽が咸陽に入る直前までを書く。

漢元年(前206年)10月 *1劉邦は秦都・咸陽のすぐ近くの覇上に軍を進めていたが、そこへ秦王・子嬰がやってきて降伏の意を示したので劉邦はこれを受け入れた。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p118

宮殿での略奪

さて、以下は咸陽に入場した後のことについての話。

史記』高祖本紀には、

(沛公は)こうして西のかた咸陽に入った。秦の宮殿に止まり、その宿舎で身を休めようとしたが、樊噲と張良が諌めたので、秦の重宝、財物、各種倉庫に封印して、軍を覇上に還した。

と記されている。この記録によれば、劉邦は秦の宮殿に入らなかったように見えるが、同じ『史記』の留侯世家には、

沛公は秦の宮殿に入った。宮室、帷帳、狗馬、重宝、婦女はいずれも千の単位で数える豪華さであった。劉邦は宮殿に居座りたいと思った。

と記されている。

同じく『史記』の蕭何の伝記である蕭相世家によると、

沛公が咸陽に至ると、諸将は争って金帛、財物の倉庫に押し入って、これを山分けした。

とある。沛公は宮殿外にとどまり、部下たちだけが宮殿に入るわけがない。『史記』にはこのように、事実ではあるが劉邦の事跡として記しがたい記事は、高祖本紀に記さず、その他の部分に記録することがある。[中略]

秦帝国の宮殿に居座ることは、皇帝に代わって天下に号令する立場につくことである。……劉邦秦帝国の宮殿に居座ることは、明らかな越権行為であった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p305-306

佐竹氏は、将と兵による略奪は ある程度おこなわれたとする。そして略奪が「ある程度」おこなわれた後に蕭何と樊噲が劉邦を諌めて、軍を覇上に還したと推測している。この「ある程度」については「確定することは至難である」としている。私もこの推測に従う。

現代とは違って昔は略奪は将と兵の権利だった。そもそも劉邦は元盗賊の親分だったし、元・劉邦の手下たちが略奪を止められることに黙っていたとは思えない。上のような推測が妥当なところだと思う。

ちなみに、蕭相世家の引用の続きには《略奪に走る諸将を尻目に、蕭何はひとり秦の丞相と御史の役所に所蔵されている律令と図書を押収して保管した。そしてこの基礎のうえに、沛公は漢王となり、沛公は蕭何を丞相とした *2 》とあるが、膨大な竹簡を持ち出すこと自体が考えにくい。個人的には、この図書倉庫は蕭何によって封印されて楚漢戦争のあいだ消失の難を逃れた、と推測する。

関中の庶民に対する対応

11月、劉邦は関中の諸県の父老、豪族を集めて、自分が関中の王になることを宣言し、彼らの身分を保障し、軍は覇上へ還すことを約束した。

さらに劉邦は秦律のような苛法に苦しんだ彼らに同情を示し、自分が王になったからには苛法はしないと宣言した。これに秦の庶民は大喜びしたという。

有名な「法三章」(殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法律 *3) を宣言したのはこの時点である。ただし法三章で治まるはずもないので、実際には秦律を用いていたようだ。法三章の宣言自体も嘘かも知れないが。

項羽の到着

12月、項羽が40万の兵を引き連れて函谷関の東までやってきた。

この時点で、ある者が劉邦に進言した。

「いま聞くところによりますと、章邯は項羽に下り、項羽はみずから雍王と名乗り、関中の王になろうとしています。いまかれが来れば、沛公は関中を領有することはできないでありましょう。急いで軍隊を派遣して、函谷関を守らせて諸侯の兵を入れず、関中の兵士を挑発して軍事力を強化し、項羽の軍勢の入関を拒むべきであります」(劉邦/p319)*4

劉邦はこの進言を採用し、函谷関で項羽の秦軍を止めた。

さて、止められた項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃、突破し、咸陽の西の戯にまで進軍した。高祖本紀・項羽本紀によれば、項羽は函谷関で劉邦が関中入りしていたことを初めて知ったという。

項羽劉邦のいる覇上のすぐ西の鴻門に陣して明日にでも劉邦を征伐しようと議論した。これを聞いた項伯(項羽の叔父)は旧知の張良を助けようと密かに合った。項伯は張良を連れ出そうとしたが、張良はこれを断り、劉邦に顛末を話した。

劉邦は話を聞いて驚愕し、張良にどうしたら良いのか尋ね、張良の進言を受け入れることにした。張良は項伯に使者になることを頼み、項伯はこれを受け入れた。こうして劉邦項羽に対して弁解できる場ができた。この場が有名な「鴻門の会」だ。

続く。



*1:二世皇帝・胡亥が二世3年に死んだため、『史記』では次の年の表記を「漢元年」とした。『漢書』は「髙祖元年」としているように、「この年から髙祖・劉邦の天下である」という歴史観司馬遷漢帝国の時代の人だからそうしたのは当然。

*2:佐竹氏/劉邦/p307-308

*3:小学館デジタル大辞泉/法三章(ホウサンショウ)とは - コトバンク

*4:史記』高祖本紀より

楚漢戦争⑬ 劉邦、項梁政権加入から関中入りまで

前回からの続き。

劉邦は項梁の下に集まり、項梁から兵を借りてようやく故郷の豊邑を奪還した。

この後、劉邦は項梁の客将(上下関係がはっきりした同盟関係を持つ)として項梁軍に参加する。

この記事に関連する項梁・項羽を中心とする動きについては以下の記事に書いた。

史記』秦楚之際月表 *1項羽本紀 *2 を基本に置いて話を進める。両者は多少の食い違いがあることに注意。

元号は秦暦を採用。秦暦は10月を年始とする。便宜的に西暦においても10月を年始とする。ただし、『史記』においては秦二世皇帝の三年(前207年)の次の年は漢元年という表記をしている *3。 便宜的にこれも採用する。

項梁を中心とする動き

秦二世皇帝の二年(前208年)4月、項梁が薛に入り反秦勢力を集合させ、劉邦もこれに応じた。劉邦は項梁と会見して豊邑攻略のための兵力を借りることに成功し、攻略も成功した。(ここまでのいきさつは前回に書いた)。

6月、項梁は楚王の末裔の懐王(名は心)を国王とする楚国を建国する。
7月、東進する秦軍を東阿で迎撃し撃破する。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p98

東阿で戦勝した項梁は東阿に留まり、項羽を西方攻略に向かわせた。劉邦はこれに従軍する *4

項羽と劉邦城陽を落としたが、濮陽・定陶を落とすことはできなかった。

8月、しかし雍丘で秦軍を破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取った。その後、項羽は外黃は降すことはできないまま陳留で戦った。項梁は自ら行軍し、定陶を落とせなかった項羽を雍丘へ進ませた後に定陶を攻撃し、これを撃破した。そしてこの後に雍丘の戦勝を聞いて、項梁は慢心したという。

9月、秦中央は章邯に中央から大軍を与えて定陶を攻撃させ、その結果、楚軍は大敗し項梁は戦死した *5

ここで項羽は呂臣と協議して戦闘中の陳留から撤退することを決めた。この呂臣とはもともと張楚国の将のひとりだが、張楚国崩壊の後に敗残兵を再結集して秦軍に抵抗した人物。黥布(英布)を頼って項梁勢力に参加した。詳しくは分からないが万単位の勢力を保持していたようだ。劉邦はこの決定に参画していない。

項梁亡き後の楚国の体制は、傀儡王であるはずの懐王が実権を握り、呂臣の父の呂青を令尹(宰相)に、呂臣を司徒(大臣)に任命した。項羽は若輩者と思われていたようで、「主要な将の一人」扱いだった。

そして劉邦は というと、碭県を含む碭郡の長(郡守)となった。ここに劉邦は正式に楚国の体制の一員として組み込まれた。碭郡といっても実質的に統治できるのは西半分だけだったが、佐竹靖彦氏によれば *6、 その領域は劉邦が亭長時代に扶植した地域と呂氏一族(妻の呂雉の実家)の縄張りが含まれている。また碭郡秦軍との最前線であり、また張楚軍の敗残兵も往来するような場所で、劉邦の楚国の中の役割は重要ではあったものの、政府中枢からは遠い存在だった。

鉅鹿の戦いの時の劉邦の行軍

後9月(閏9月)、秦軍に攻め続けられている趙国の援軍要請に応えるべく、懐王は出兵を命じる。しかし劉邦は趙へ向かう軍とは別に西方に軍を進めて秦都を目指すように命じられた。

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出典:藤田氏/p118

上の図で分かることは、鉅鹿の戦いで項羽が秦軍を撃破するまでは、劉邦はほとんど前進できていないことだ。

鉅鹿の戦いで秦軍の主力が敗走する中で秦軍全体が急激に弱体化した。そしてここから劉邦の西進の道が開けた。しかし洛陽周辺の戦いで何重もの抗戦に難儀したことを受けて、劉邦軍は最短ルートを避けて南陽郡から武漢ルートで関中入りを目指し成功した(漢元年)。

関中入りするまでに、劉邦と将来の家臣との出会いなど興味深いエピソードが多くあるのだが、長くなるので割愛。

ごく簡単に劉邦の秦地入りを総括すると、つぎのようになる。

まず、項羽が秦の主力郡を撃破するという状況の中で、二世皇帝と趙高のあいだの軋轢が高まり、中央の政治的能が麻痺し、これが秦軍の指揮系統の麻痺を生み、無責任状態が広がった。このなかで、劉邦項羽の圧力を最大限に利用しながら、自分が楚王の命を受けた正式の征秦軍であるとして、さまざまな駆け引きをしながら、ほとんど無血の咸陽入場に成功した。

出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p189

項羽ら主力軍と比べてはるかに劣る戦力で、上のような状況の中で劉邦は、主要な県城の主に対して「いま降伏するなら、いまの地位を安堵してやる」と説得して降伏させることに成功した。

さすが元ヤクザの劉邦さんだ と思いたいところだが、実際は戦略を謀る張良や曽参、説客の酈食其(れきいき)や陸賈などの活躍がなければ関中入りは成功しなかった。

ただし劉邦は中華統一を果たした後、彼らを使いこなせたから自分は偉いのだと豪語したのであった。



*1:史記/卷016 - Wikisource

*2:史記/卷007 - Wikisource

*3:この当時は「漢」という元号は存在しなかったが、趙高が二世2年に二世皇帝を殺し、次代の子嬰は皇帝にならなかったため、司馬遷は苦肉の策として、前206年は劉邦が漢王に就いた(2月のことだが)ことを理由として便宜的に「漢」という元号を用いた

*4:史記』においては沛公(劉邦)、項羽の順に書かれているが、現実は項羽が主将でこれに劉邦が従軍したことは当時の上下関係から言って明らかだ。司馬遷劉邦を前(上)に書いたのは漢帝国に所属する司馬遷が始祖の劉邦の敵の後ろに書くことを憚ったのだろう

*5:項羽本紀《秦果悉起兵益章邯,秦果悉起兵益章邯,擊楚軍,大破之定陶,項梁死。》

*6:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2004/p274-273