歴史の世界

楚漢戦争⑦ 鉅鹿の戦い 後編

前回からの続き。

二世3年(前207年)12月

項羽軍到着前の状況

この12月に項羽軍が秦軍に攻め込むのだが、ここで項羽が攻め込む前の状況を確認しておこう。

章邯はまず鉅鹿の糧道を絶ち、鉅鹿の兵は飢えはじめた。陳余は援軍を率いてやって来たものの章邯軍の多勢ぶりを恐れてただ見守っているしかなく、張耳は何度も救援要請をしたが、陳余は動かなかった。そこで張耳は家臣の張黶(ちょうえん)と陳余の親族である陳澤を使者に送り「かつて刎頸の交わりを交わし、また数万の軍を擁しながらなぜ援軍を送らないのか? 援軍を送って共に死んでくれないか」という手紙を送った。だが、陳余は「ここで援軍を派遣しても無駄死にするだけだ」と断った。張黶と陳澤は食い下がって5千の兵を陳余から借りて章邯軍を攻めたが、歯が立たずに二人とも戦死し、5千の兵は全滅した。これを見ていた他国の援軍や張耳の息子の張敖も章邯の強さを恐れ、見守るしかなくなってしまった。

出典:陳余 - Wikipedia

兵力の差はどのくらいだっただろうか。佐竹靖彦『項羽』では鉅鹿軍を包囲するのは中央から来た王離軍20万、後方支援が章邯軍30万で合わせて50万という数字を提示している。

これに対して項羽軍が来る前の反秦勢力の数字はよくわからない。陳余軍が数万という数字が張耳・陳余列伝にある。張耳の鉅鹿軍本体の数字は分からないが、20万の軍勢が一気に押しつぶせない程度の人数はいたはずだ。この他には項羽本紀には十余の救援軍がいたと書いてある。

飢えに苦しんでいる張耳としては、鉅鹿にいる全部の反秦勢力が団結して戦えば包囲は破れると考えただろう。餓死するくらいなら戦死したほうがマシだと考えるところまで切羽詰まっていた。これに対して「ここで戦っても犬死するだけだ」と陳余は考えた。張耳と陳余は項羽のおかげで助かるのだが、この一件のせいでその後の2人は敵対することになる。

項羽軍の攻撃

f:id:rekisi2100:20200703083239p:plain:w300

出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p162

  • ↑の地図の「安陽」は諸説あるとのこと。

佐竹靖彦『項羽』では項羽軍は5万強だったという。

項羽黄河の東岸に着くと、まずは当陽君と蒲将軍に2万の兵に河を渡らせて戦わせたがあまり戦果は得られなかった。この後また陳余から援軍を請われたので、今度は全軍をあげて河を渡り、舟を壊し、3日分の食料以外のものをすべて焼き払い、決死の覚悟で秦軍に挑んだ。

兵数に圧倒的な差があるのだが、これを自軍の武力と勢いでカバーしようとしている。秦軍に勝つための戦略などほとんど無かっただろう。そんな項羽軍に犬死したくない陳余が救援を要請したというのだが、本当だろうか?

さて、楚軍の戦いぶりに関しては項羽本紀では反秦勢力の諸侯の目線で語られている。

この時、楚軍の戦士は諸侯中もっとも強力で、諸侯の軍で鉅鹿を救援し防壁を築くものが十余軍あったが、どの軍も出て戦う者がなかった。楚軍が秦軍を撃つと、諸将はみな防壁の上から見ていた。楚の戦士は一人で十人の敵に当たらぬ者がなく、楚の雄叫びは天を動かすばかり、諸侯の軍は人々みな恐れておののかない者はなかった。

出典:小竹文夫・小竹武夫訳/史記本紀Ⅰ/ちくま学芸文庫/1995/p204

数ヶ月も膠着状態だった戦いを項羽軍は数日のうちに終わらせた。

20万の王離軍は壊滅し、1月、王離は捕虜となる。章邯軍は敗走した。

戦後、反秦軍の諸侯たちはみな項羽の前にひれ伏して服属した。

戦後

以下のことは鉅鹿の戦いの後から1年2ヶ月の間の話になる。

章邯は司馬欣を都に送り皇帝に指示を請うが、逆に宮中の腐敗や趙高によってあらぬ罪を着せられ家族が処刑されたことを知った司馬欣に「功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される」と言われ、殷墟で将兵と共に項羽に降伏した。

この際、章邯・司馬欣・董翳の3名を項羽は鷹揚に助命したものの、3名に従った20万の秦兵は数で楚兵を圧倒しており、蜂起による楚軍の被害を憂慮した項羽の指示で、夜襲を受け坑殺された。

出典:章邯 - Wikipedia

反秦勢力鎮圧軍の総司令官であった章邯が項羽に投降し、これにより秦帝国が盛り返す可能性は無くなった。滅亡が確定したと言っていい。

王離が率いた部隊は中央軍の大部分であったが壊滅し、反秦勢力の鎮圧部隊は章邯とともに投降した(20万もの秦兵はその後 項羽の指示により坑埋めにされた)。

この時点で、項羽が号令できる兵は秦帝国を遥かに上回り、戦闘に参加しなかった反秦勢力も項羽の命令を聞かざるを得ない状況になりつつあった。

漢元年(前206年)

暦と元号について

二世3年8月に二世皇帝胡亥が趙高に殺害されている。

秦暦は前207年9月まで「二世」の元号を使い、前206年10月から秦王子嬰の元年が始まる。

しかし『史記』においては、前206年10月から「漢元年」となっている。このような元号は使われていなかったのだが、司馬遷歴史観においては、二世皇帝の死によって秦帝国は滅亡して漢帝国が始まったということになっている。ここではこれに従う。

項羽と劉邦の対立

『史記』秦楚之際月表によれば、 項羽は漢元年(前206年)10月に諸将・諸侯の兵40万を従えて西進し河南(河南郡?、函谷関の東の地域)に至る *1

11月、新安(現・河南省)で上記の20万の元秦兵を坑殺した。

そして12月、項羽はようやく函谷関 *2 へ到着したが、行く手を阻む者は秦軍ではなく劉邦の軍だった。劉邦軍が項羽軍より先に秦を落としていたのだ。

ここから項羽と劉邦の確執が始まるのだが、その話は別の記事で書く。



*1:將諸侯兵四十餘萬,行略地,西至於河南

*2:首都・咸陽に繋がる道の要所