前回からの続き。
劉邦は項梁の下に集まり、項梁から兵を借りてようやく故郷の豊邑を奪還した。
この後、劉邦は項梁の客将(上下関係がはっきりした同盟関係を持つ)として項梁軍に参加する。
この記事に関連する項梁・項羽を中心とする動きについては以下の記事に書いた。
『史記』秦楚之際月表 *1 と項羽本紀 *2 を基本に置いて話を進める。両者は多少の食い違いがあることに注意。
元号は秦暦を採用。秦暦は10月を年始とする。便宜的に西暦においても10月を年始とする。ただし、『史記』においては秦二世皇帝の三年(前207年)の次の年は漢元年という表記をしている *3。 便宜的にこれも採用する。
項梁を中心とする動き
秦二世皇帝の二年(前208年)4月、項梁が薛に入り反秦勢力を集合させ、劉邦もこれに応じた。劉邦は項梁と会見して豊邑攻略のための兵力を借りることに成功し、攻略も成功した。(ここまでのいきさつは前回に書いた)。
6月、項梁は楚王の末裔の懐王(名は心)を国王とする楚国を建国する。
7月、東進する秦軍を東阿で迎撃し撃破する。
東阿で戦勝した項梁は東阿に留まり、項羽を西方攻略に向かわせた。劉邦はこれに従軍する *4。
項羽と劉邦は城陽を落としたが、濮陽・定陶を落とすことはできなかった。
8月、しかし雍丘で秦軍を破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取った。その後、項羽は外黃は降すことはできないまま陳留で戦った。項梁は自ら行軍し、定陶を落とせなかった項羽を雍丘へ進ませた後に定陶を攻撃し、これを撃破した。そしてこの後に雍丘の戦勝を聞いて、項梁は慢心したという。
9月、秦中央は章邯に中央から大軍を与えて定陶を攻撃させ、その結果、楚軍は大敗し項梁は戦死した *5。
ここで項羽は呂臣と協議して戦闘中の陳留から撤退することを決めた。この呂臣とはもともと張楚国の将のひとりだが、張楚国崩壊の後に敗残兵を再結集して秦軍に抵抗した人物。黥布(英布)を頼って項梁勢力に参加した。詳しくは分からないが万単位の勢力を保持していたようだ。劉邦はこの決定に参画していない。
項梁亡き後の楚国の体制は、傀儡王であるはずの懐王が実権を握り、呂臣の父の呂青を令尹(宰相)に、呂臣を司徒(大臣)に任命した。項羽は若輩者と思われていたようで、「主要な将の一人」扱いだった。
そして劉邦は というと、碭県を含む碭郡の長(郡守)となった。ここに劉邦は正式に楚国の体制の一員として組み込まれた。碭郡といっても実質的に統治できるのは西半分だけだったが、佐竹靖彦氏によれば *6、 その領域は劉邦が亭長時代に扶植した地域と呂氏一族(妻の呂雉の実家)の縄張りが含まれている。また碭郡秦軍との最前線であり、また張楚軍の敗残兵も往来するような場所で、劉邦の楚国の中の役割は重要ではあったものの、政府中枢からは遠い存在だった。
鉅鹿の戦いの時の劉邦の行軍
後9月(閏9月)、秦軍に攻め続けられている趙国の援軍要請に応えるべく、懐王は出兵を命じる。しかし劉邦は趙へ向かう軍とは別に西方に軍を進めて秦都を目指すように命じられた。
出典:藤田氏/p118
上の図で分かることは、鉅鹿の戦いで項羽が秦軍を撃破するまでは、劉邦はほとんど前進できていないことだ。
鉅鹿の戦いで秦軍の主力が敗走する中で秦軍全体が急激に弱体化した。そしてここから劉邦の西進の道が開けた。しかし洛陽周辺の戦いで何重もの抗戦に難儀したことを受けて、劉邦軍は最短ルートを避けて南陽郡から武漢ルートで関中入りを目指し成功した(漢元年)。
関中入りするまでに、劉邦と将来の家臣との出会いなど興味深いエピソードが多くあるのだが、長くなるので割愛。
ごく簡単に劉邦の秦地入りを総括すると、つぎのようになる。
まず、項羽が秦の主力郡を撃破するという状況の中で、二世皇帝と趙高のあいだの軋轢が高まり、中央の政治的能が麻痺し、これが秦軍の指揮系統の麻痺を生み、無責任状態が広がった。このなかで、劉邦は項羽の圧力を最大限に利用しながら、自分が楚王の命を受けた正式の征秦軍であるとして、さまざまな駆け引きをしながら、ほとんど無血の咸陽入場に成功した。
項羽ら主力軍と比べてはるかに劣る戦力で、上のような状況の中で劉邦は、主要な県城の主に対して「いま降伏するなら、いまの地位を安堵してやる」と説得して降伏させることに成功した。
さすが元ヤクザの劉邦さんだ と思いたいところだが、実際は戦略を謀る張良や曽参、説客の酈食其(れきいき)や陸賈などの活躍がなければ関中入りは成功しなかった。
ただし劉邦は中華統一を果たした後、彼らを使いこなせたから自分は偉いのだと豪語したのであった。