歴史の世界

楚漢戦争⑫ 劉邦、決起す

前回に続き、劉邦について書く。今回はいよいよ決起の場面を書く。」

決起

秦の二世皇帝の元年(紀元前209年)7月、陳勝呉広の乱が起こった。この乱は陳勝を王とする「張楚国」の建国という形で成功を収める。これを境に各地で庶民が県令を殺して決起する情勢になった(県令は秦の中央政府から派遣される)。

劉邦がかつて務めていた沛県の県令は、このような状況で一旦は秦に対して決起する決断をしたが、その後に決起を取りやめようとしたので県民に殺された。県民は逃亡していた劉邦を迎え入れて県令として決起した。

亭長の職を放棄して盗賊の親分となっていた劉邦を県令として迎え入れるというのは腑に落ちないところがあるのだが、腕っぷしの強い人間が一人でも欲しかったという事情もあるだろう。しかしいちばん重要なのは沛県を県令の代わりに事実上仕切っていた蕭何・曹参が劉邦を選んだということだ。おそらく決起の前に連絡や根回しをしていたのだろう。

ともかく沛県は県令の犠牲によって一致団結して決起することとなった。劉邦はこの時点で二、三千の兵を得た。

初戦からの順調な出だし

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出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/巻頭

沛県の決起に反応して泗水郡の監(郡のナンバー2)が出兵してきた。劉邦は沛県に属する豊邑(劉邦の故郷)で応戦してこれを破る。既成の軍ができたばかりの反乱軍に敗れる要因としては、地元で徴兵された泗水郡の兵たちが寝返ったと考えるのが自然だろう。

その後、劉邦は攻勢にまわり、泗水郡の守(郡のナンバーワン)と戦い、これを殺した。この後も亢父、方与と転戦した。

故郷の豊邑が寝返る

劉邦は順調に軍を進めていたが、ここで豊邑が魏軍に寝返ったという報を聞くことになる。

上述したように、張楚国を建国した陳王(陳勝)は各地の反秦勢力を吸収するためにそれぞれの地域に軍を派遣した。二世2年(前208年)10月、周市(しゅうし、しゅうふつ)は魏に派遣されこれを平定した。

そして周市は豊邑に使いを出して以下のように言わせた。

「豊は元々、梁の人が移住した場所である。(周巿は)魏の地の数十城をすでに平定している。雍歯が降伏すれば、(雍歯を)侯に封じて、豊を守らせよう。降伏しないのなら、すぐに豊を屠るだろう。」 *1

豊邑はかつて劉邦の親分であった雍歯が守っていたが、雍歯は劉邦の下につくことを快く思っていなかった。そして雍歯は戦わずして魏に降った。

劉邦は兵を返して豊邑を攻めたが取り戻せずに沛県に帰るしかなかった。

高祖本紀に詳しく書いてはいないが、碭などの豊邑より西の地域も劉邦の手から離れたようだ。

秦嘉を頼る

二世2年(前208年)12月 *2、 中央から派遣された秦軍が張楚国の都・陳を陥落、滅亡させる。

陳王は逃亡してまだ行方不明という時期に、東海郡(現在の山東省南部と江蘇省北部)を支配していた秦嘉は甯(ねい)君と共に景駒(楚の貴族である景氏の出身)を楚の仮王とする楚国を建国する。これは張楚国が滅亡した今、自分たちが反秦勢力の中心だと宣言するためのものだ。

秦嘉は郯を本拠地にしていたが、今度の楚国の首都は留県とした。留県は沛県の南東約20キロにある(上の地図参照)。劉邦はすぐさまこの陣営に参加することにした(完全に服属したのではなく客将になったようだ)。

劉邦は豊邑を攻略するために秦嘉に兵を貸してくれるように求めた。これに対して秦嘉は兵を貸す条件として、西方から東方へ進軍してくる秦軍と戦うことを求めた。

この時の情勢は、張楚国を滅亡させた秦軍が東進して泗水郡の郡都の相県を攻略し、そして劉邦の盗賊時代の根拠地であった𥓘の沼沢地も秦軍の勢力下に置かれていた(ちなみに豊邑は、所属する韓が秦軍によって全面的に攻め込まれているのでほとんど孤立状態だったと思われる)。

劉邦は甯君と共に秦軍と戦うこととなる。楚軍は初戦では敗れたものの留で体制を整えると𥓘で秦軍を敗走させることに成功した(2月)。劉邦は𥓘で五、六千の兵を得て *3 、さらに下邑を陥落させた後、留に戻った。佐竹靖彦氏によれば、𥓘は劉邦の、下邑は呂氏一族のかつての縄張りだったので、これら2つの地で得た兵は元々彼らの「息のかかった連中」であった *4

このあと3月に劉邦は豊邑を攻めたがこれを陥落させることはできなかった。『史記』秦楚之際月表 によれば、このとき劉邦は項梁の兵数が多いことを聞き、豊邑を攻めることを要請している(どうやら聞き入れられていないようだが)。

張良との出会い

陳勝呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。その頃、陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧公族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、劉邦に出会い、これに合流したという。

張良は自らの将としての不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。

出典:張良 - Wikipedia

  • 史記』留侯世家がネタ元。

張良始皇帝を暗殺未遂を起こしたことは有名だが、お尋ね者になった張良は下邳に隠れていた(地図参照)。下邳から留に行く途中で劉邦に会い、意気投合して彼の配下になったという。

引用の中の「沛公はまことに天授の英傑だ」(沛公殆天授)の部分は佐竹氏は「沛公は天がわたしに授けてくれた特別な人物である」と解釈している(p254)。軍師の才はあるが、軍を率いる能力を持たない彼がこのように思っても不思議ではないだろう。

項梁の楚国に参加する

4月、会稽郡から北上してきた項梁は秦嘉の楚国を認めず滅ぼしてしまった。項梁が薛に留まって反秦勢力を集めて会盟を開くと、劉邦もこれに参加し、客将(別将)の一人となった。

劉邦は薛で項梁と会見すると、項梁は劉邦の要請に応じ、兵卒5千と五大夫の将(高級将校 *5 )10名を劉邦を与えた。劉邦はこれを以って豊邑を攻め、ようやく奪還に成功した。

これ以降も項梁の客将として行動することになる。



*1:周フツ - Wikipedia

*2:秦暦は10月が年始となる

*3:『史記』秦楚之際月表 によれば、劉邦の兵は総勢九千になった

*4:佐竹氏/p251

*5:佐竹氏/p260

楚漢戦争⑪ 劉邦、公務員から盗賊の親分へ

今回も劉邦について。

前々々回の記事 *1劉邦の生まれ育ちについて書いたが、今回はこの続きを書いていく。

今回もテキストは佐竹靖彦『劉邦』。

劉邦

劉邦

亭長になる

劉邦は裏の社会の住人(つまりヤクザ)だったのだが、表社会の事実上のトップであった蕭何が劉邦を亭長という職に就けた。

沛県のトップは秦の中央政府から派遣された県令だが、県を実際に仕切っているのは現地採用された蕭何だった。蕭何は沛県の豪族であった。こういう人たちはもちろん裏の社会とつながっていた。

亭長の職務については後述するが、警察のような仕事も含むので蕭何は裏の社会のトップである雍歯と相談して若者頭とも言うべき劉邦に面倒な仕事をやらせたのかも知れない(佐竹氏/p115)。

亭長は下級官吏と言っても官には間違いない。当時の官と庶民の間は隔絶とした差がある。劉邦はさっそく薛の職人に頼んで冠を作った。これが有名な劉氏冠の誕生だ。(庶民と官の違いを示すために冠は必要。)(p115-116)

劉邦は泗水の亭長ということで泗水という川のほとりの亭の長なのかと思ったら職場は沛県の城郭の中にあった*2。職務としては交通運輸の末端機関としての宿泊客の接待と地域の警備業務の二つ*3。この他に県外への労役をする人夫の引率も任された*4。また、警察業務などのための他地域との交流も彼の任務のうちだった。他地域も表と裏があるのでその両方と通じる必要がある。ここらへんが純粋な役人ではなくて劉邦のような活きがいい若者頭にやらせた要因だろう。

以上のような役回りの中で、劉邦の人脈と知識を増やすこととなる。呂雉(のちの呂太后)との結婚も単父では名士であった父・呂公との付き合いで決まった。

そして より重要なことは劉邦は蕭何の期待に十分に応えたということだ。劉邦は2回目か3回目以降の人夫の引率に失敗し失職して盗賊になるのだが、それでも蕭何は沛県が決起する時にリーダーとして劉邦を選んだ。

盗賊の親分へ

高祖は亭長の職務柄、県のために夫役の人夫(始皇の稜をつくるために挑発されたもの)を酈山(りざん)に送り届けようと出発したところ、人夫は多く途中から逃げ出した。高祖は酈山に着くころおいには、みな逃げてしまうだろうと考え、豊邑の西沢に行った時、止(とど)まって酒を飲み、その夜、送ってきた人夫たちを自由に放して、「おまえらはみなどこへでも立ち去るがよい。わしもここから逃げよう」と言った。

出典:小竹文夫・小竹武夫訳/司馬遷 史記本紀Ⅰ/ちくま学芸文庫/1995/p239-240

上の出来事は始皇帝がまだ生きている頃に起きたことだ。陳勝呉広の乱のきっかけは「人夫を期日まで到着させなければ斬首」という重罰だったが、劉邦の件でも似たような重罰が科せられるのだろう。劉邦の職務放棄は斬首から逃れるためにはやむを得なかったと言える。

劉邦の逃亡先は芒、𥓘の沼沢地だった。下の地図を参照。

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出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/巻頭

佐竹氏は劉邦がここに逃げたことは『史記』に書いてあるというが、『史記』のどこに書いているのか分からないのだが、とりあえず、上の本の「第八章 芒、𥓘の根拠地の建設」に従って書いてみる。

劉邦はこの地域を亭長時代に手を付けていた。彼自身に資金は無かったので、呂雉の実家である呂氏一族から随分と助力を受けていた *5。 呂氏一族はいくつかの沼沢を開発していた。

「根拠地の建設」とはどのようなものだったのか?

この芒、𥓘の沼沢地は、魏、楚、呉、越との交通の要衝に位置していること、地理的に大きな広がりをもち、水路が四通八達し、沼沢地のところどころに丘陵があることによって、群盗の根拠地として理想的な条件をもっていた。[中略]

さらに『水滸伝』にも芒、𥓘の沼沢地のイメージが出てくるし、事実、明代までは芒、𥓘の沼沢地を舞台とする群盗の活躍が史料に記されているのである。

出典:佐竹氏/p203(太字は傍点の代用)

楚漢戦争で活躍する彭越は「若い頃は鉅野の沼沢で漁師をやりながら盗賊業を行っていた。」 *6 とあるので、劉邦は彭越が働いていた場所と同様の「群盗の根拠地」を建設したということだ。

そういうわけで、劉邦は亭長時代から兼業として盗賊の親分やっていたわけで、上述の事件が無ければ二足のわらじのままだったかもしれない(どっちが本業か分からないが)。

*1:楚漢戦争⑧ 劉邦の生まれ育ち

*2:p111

*3:p113

*4:p132

*5:佐竹氏は呂氏一族は呂不韋の血族だとしている。通説ではない。

*6:彭越 - Wikipedia

楚漢戦争⑩ 劉邦の人柄

劉邦項羽に勝った理由として「項羽から劉邦に人材が流れた」ということがある。人材が流れた結果が有名な四面楚歌そして死に繋がる。

人柄の差が二人の明暗を分けたということだが、ここでは劉邦の人柄について書いていく。

前に進む前に書いておくが、前回までに書いたように、劉邦の経歴は
不良少年→ヤクザの若衆→公務員(亭長)→盗賊の親玉
である。

この経歴は彼の人柄にも色濃く現れている。

もう一つ。

史記』を書いたのは漢帝国の官吏である司馬遷だから高祖を褒めそやすのは当たり前だと思うのは当然だ。

だがそうであっても項羽陣営で裏切り者が続出する一方で、劉邦陣営の忠臣の多さが目立つのを見ると上記のような劉邦の人柄に注目せざるを得ない *1

それでは人柄について書いていこう。

気前が良い

まずは、項羽を倒し中華統一した漢5年(前202年)の劉邦と王陵の会話(『史記』高祖本紀)。

高祖は雒陽(らくよう)の南宮で酒宴を開き、「列侯諸侯らには、わしがどうして天下を得たか、また項氏がどうして天下を失ったか、朕に隠すところなく実情を述べてみよ」と言った。

王陵が、「陛下は人を見下げてあなどられ、項羽は仁慈で人を愛するのですが、ただ陛下は人に城を略させた時、降した者にそこをあたえて天下と利を分けられますのに、項羽は賢者をそねみ能者を嫉(にく)み、功労ある者を殺し賢者を疑い、戦いに勝っても人に賞賜せず、土地を得ても人に分与しないのです。これが天下を失った理由です」とこたえた。

高祖は、「公は一を知って二を知らない。はかりごとを帷幕(とばり)の中にめぐらし、勝利を千里の外に決することでは、わしは子房(張良)に及ばない。国家を鎮め人民を撫し、糧食を士卒に給して糧道を絶たないことでは、わしは蕭何に及ばない。百万の軍をつらね、戦えばかならず勝ち、攻めればかならず取ることでは、わしは韓信に及ばない。この三人はみな人傑であるのに、わしはよくこれを使うことができる。これがわしの天下を取ったいわれである。項羽はたった一人の范増さえ用いることができなかった。これがわしに虜にされたいわれである」と言った。

出典:小竹文夫・小竹武夫訳/司馬遷 史記本紀Ⅰ/1995/p268-269

この文章は非常に有名な場面で、王陵が、そして劉邦自身が劉邦の人物評を述べている。漢の三傑を動かせる能こそが天下を取れた理由だと劉邦自身は言っている。これに対して王陵は なぜ劉邦が有能な臣下をコントロール出来たのかを述べている。

引用の文章は劉邦の言葉のほうに重きを置かれるのだが、この記事で重要なのは王陵の言葉だ。

次に陳平の言葉を書く(『史記』陳丞相世家)。

「大王は傲慢無礼であらせられますから、廉潔で気節のある士は大王には寄りつきません。ただ大王は気前がよく、爵位と領地を惜しげもなく部下に与えられますから、頑鈍で利益を嗜(むさぼ)り、恥を知らないものたちは、大王のところに集まって参るのです」

出典:佐竹氏/p195

王陵と同じことを言っている。つまり臣下に利を「惜しげもなく部下に与え」ることだ。

史記』高祖本紀において、劉邦の人柄について以下のように書いている。

仁而愛人、喜施、意豁如也、常有大度……(仁にして人を愛し、施すことを喜び、物事にこだわらず、いつもゆったりしている)

ここでも「施すことを喜び」とあり、分け前を気前よく分配するという理想的な親分らしい振る舞いが劉邦の特徴のひとつとなる。 (ただし中華統一後に、韓信や黥布を代表する功臣は厄介者とされ殺され領地を奪われた) 。

気軽に話しかけられる雰囲気を持つ

また、王陵や陳平のように劉邦にとって耳の痛いことでも直に言ってしまえる雰囲気を持っている。『史記』には、臣下が劉邦に報酬に対する不平を直談判する場面がいくつも登場する。この時 多くの臣下の主張が聞き入れられた。聞く耳も持っている証拠となる。

後漢の班固が著した『漢書』高帝紀下には以下のようにある。

高祖は(中略)性格が闊達で明朗、謀(はかりごと)をよくし、他人の意見をよく聞き入れた。門番の兵卒のような下っ端の部下たちにも、昔から馴染みのように親しく接した。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p199

  • (中略)の部分は「不修学問(学問を修めてはいないが……)」。貴族が身に着けておくべき「礼」についても含まれているかも知れない。
  • ここにある「謀(はかりごと)」は、謀略を仕掛けるという意味ではなくて、相談をするという意味、だと思う。

リーダーの中には、自分が有能で周りには優秀な"イエスマン"しかいないという人もいる。劉邦はその逆で、自分の限界の浅さを知り、よく相談し、下っ端の意見にさえも耳を傾けた。そして下っ端の直言を許す度量があった。

「無礼の礼」

佐竹氏は以下のように言う。

任侠の精神の基本的要素は礼、義、利の三要素である。

……劉邦項羽は「仁にして人を愛す」という徳目を共有していた。ただし項羽は礼と義に傾き、劉邦は義と利に傾いた。[中略]

礼、義、利の組み合わせが任侠集団を、さらには任侠集団を越えたより大きな集団を動かす基本的な要素となっているときに、その一要素を欠いた劉邦がどうして人を動かせることができたのであろうか。

劉邦は戦場で窮地に立たされると、しばしば仲間を見捨てて一人で逃げた。しかし、部下はかれを見限ったり、離反することなく、わが身と引き替えにかれを救おうとした。危機が去ってから現場に立ち戻ってきても、だれもかれを責めず、かれの統率力に陰りが生じることはなかったのである。

部下に義と利を与えることのみによって、それほどの吸引力が働くであろうか。

出典:佐竹氏/p199

劉邦は貴族でもないし学問を修めてもいないので、一般的な礼(貴族の中で発達した礼)を身に着けられる環境になかった。前述の王陵や陳平は、劉邦項羽を比較して、劉邦の一般的な礼の無さを指摘した。

しかし佐竹氏は、その一般的な礼の代わりに、劉邦は「無礼の礼」を身に着けていたという。

端的にいえば、まだ片々たる小集団を率いていたころから、かれなりの礼の秩序が貫徹していたのである。それがいかに傲慢無礼に見えたとしても、周囲に集まった者たちは、嬉々としてこの「無礼の礼」を受け入れたのである。

出典:佐竹氏/p200

劉邦は元ヤクザで盗賊の親分だったので、ヤクザ映画などに出てくる親分を想像すれば「無礼の礼」が何となく想像できるかも知れない。

ちなみに上の引用にある「義」ついて佐竹氏は「義とは正しく筋道が通っていることである」とし、劉邦の仁義の内実は、「気配りと集団への献身」であると書いている(佐竹氏/p75)。私個人としては、任侠の精神の要素としての「義」なのだから、もっと庶民的に「恩に報いる、人間関係を大切にする」程度の意味でいいのではないかと思う。

劉邦の人心掌握術

長くなるが、最初に黥布(英布)と劉邦が初めて顔合わせをするときのエピソードを紹介する。

『史記 黥布列伝 第三十一』の現代語訳:2》を参考にした。

黥布は項羽の父の項梁に決起の時から従った猛将だった。しかし秦帝国を滅ぼして項羽の天下になった頃から黥布と項羽の仲が悪くなった。

そして楚漢戦争が始まった後、劉邦陣営は黥布を寝返らせようと説客の随何を派遣し、黥布は随何の説得に応じた。

しかしそれでも迷いを捨てきれない黥布は項羽の使者と面会する。随何はこの場にズカズカと入り込み「九江王(黥布)は既に漢に帰順された。楚がどうして出兵させることができようか。」と啖呵を切った。

愕然とした黥布は観念して決心し、楚の使者を殺して項羽に反旗を翻した。しかし迎え撃つ項羽軍に大敗し、随何と一緒に劉邦の元へ向かった。

以上が前段で、ここからが劉邦の人心掌握術の話になる。

黥布は命からがらに劉邦陣営に着いた。そして、黥布が劉邦に帰順したことを示すための初めての顔合わせとなる面会の時が来る。

黥布が面会の場に入ると、劉邦は床几(しょうぎ)に腰掛けて下女に足を洗わせていた。黥布は劉邦のあまりにも無礼な態度に腹を立てたがどうすることもできない。面会が終わった後に自殺しようと決心した。

しかし、退出して宿舎に入ると、帷帳(とばり)・衣服・調度類も飲食物も従者も、漢王の陣屋と同じようなものだったので、布はまた望外の待遇に大喜びした。

出典:『史記 黥布列伝 第三十一』の現代語訳:2

佐竹氏によれば、劉邦は酈食其(れきいき)と面会したときも下女に足を洗わせながらするという無礼を行っていた。

これから見ると、かれは相手にまず相手にまず屈辱を与えることを一種のタクティスにしていたように思われる。[中略]

かれは相手に己の弱みを思い知らせておいたうえで、あらためて最高の待遇を与えることにより、相手を自分の完全な支配下に組み込むのである。

出典:佐竹氏/p74

上のようなことをやる人はそうそういないとは思うが、初対面の人に高圧的、挑発的、攻撃的な態度をとって主導権を握ろうとする人、つまり初対面で上下関係をはっきりしようとする人は結構いるだろう。

こういうタイプの中には自分の身内(仲間、味方)とそうでない人を峻別し、身内をとても大切にしてそうでない人はぞんざいな扱いをする人がいる。劉邦もそういう人だったのかも知れない。



*1:劉邦陣営の忠臣の多さも司馬遷による捏造だと言う人もいるかも知れないが項羽陣営と相対的に見てほしい。

楚漢戦争⑨ 劉邦を取り巻く環境

前回に続いて劉邦について書いていく。

今回は劉邦を取り巻く環境について。

今回もテキストは以下の本を使う。

劉邦

劉邦

劉邦の故郷とその周辺の地図

劉邦は泗水郡沛県に属する豊邑の人。

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出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/巻頭

↑の地図で、劉邦の故郷豊邑を囲む三日月形の太線について佐竹氏は以下のように説明する。

いま、泗水を弦とし、単父、𥓘県の西側あたりを通る線を弧とする三日月形を描くと、楚漢戦争の英雄豪傑たちは、ほぼ全員この地域から起こったといってよい。本書では、この地帯を「泗水系三日月形水郷沼沢地帯」と名づけることにする。このころ、淮水流域の低湿地帯やさらに南方の地域の経済開発が進行しており、大梁の中原の住民がこのフロンティアに移住していた。そして、このフロンティアの縁辺に広がる水郷地帯が当時の群雄(アウトロー)のいわば根拠地となっていたのである。

なお以上のような水郷の出身者とは別に、外交や謀略に活躍した陳平と酈食其(れきいき)等の、劉邦集団としてはやや特異な人材は、いずれも先進的都市文化の地である魏の、そのまた中心地の陳留郡の出身である。

出典:佐竹氏/p52

沛県は戦国末は楚が領有していたが、春秋時代は宋の領内であった。当時の中原(文明圏?)の縁辺にあった(楚は春秋時代の中期までは中原の人々から「蛮族」扱いさていた)。沛県より南に行くと元々の楚の地域になるのだが、南に行くにつれ人口が減り、邑が点々としてあるような状態となる。

「フロンティア」に流入する人々とアウトロー

上に書いてあるようなフロンティアに流入する人々を「さらなる成功を目指す進取に富む人々」とイメージする人がいるかもしれないが、こういうフロンティアに流れ込んでくる人たちは大抵は故郷を追い出された人たちだ。たとえば秦に破壊された旧魏都・大梁の民が河川を下って豊邑や沛県やその近辺の沼沢に流れこんだ。あるいは秦の建築現場や辺境警備などの労役への旅路の途中で逃げ出した人々も逃げ込んでくる。あるいは故郷にいられなるような事件を起こした人々も来る *1

流入した人々は、邑に迎え入れられて職につけた人々はいいが、あぶれた人々はアウトローになるしかない。そしてこの地域に広がる沼沢地はアウトローの住処となる。

アウトローの稼業がどのようなものだったかは前回の記事の最後に書いたが、もう一つ例を書き留めておこう。

劉邦が亭長の職務を放棄して身を隠す時期があったが、その逃亡先が芒・𥓘の沼沢地だった。

この芒、𥓘の沼沢地は、魏、楚、呉、越との交通の要衝に位置していること、地理的に大きな広がりをもち、水路が四通八達し、沼沢地のところどころに丘陵があることによって、群盗の根拠地として理想的な条件をもっていた。[中略]

さらに『水滸伝』にも芒、𥓘の沼沢地のイメージが出てくるし、事実、明代までは芒、𥓘の沼沢地を舞台とする群盗の活躍が史料に記されているのである。

出典:佐竹氏/p203(太字は傍点の代用)

劉邦はこの地で群盗の親玉になった。

反秦勢力の温床となった沼沢地

史記項羽本紀で范増が『楚雖三戸,亡秦必楚』(たとえ楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚である)という言葉を引いているが、楚人だけでなく、各地から流入してきた秦に恨みを持つ人々が楚の地に集合して反秦勢力の核となった、と言うことができる。沼沢地は反秦勢力の温床の地であったわけだ。

人間関係

佐竹氏は、人間関係、現代中国語では「人際関係(レヌヂーグワヌシ)」の重要性について述べている。ここでは人脈または人脈づくりの話としてこの言葉を使っている。

中国の伝統的な見方では、天の時、地の利、人の和という三要素が歴史の動きを決定する。人際関係は人の和のなかの一要素であって、天の時、地の利という二つの要素と共鳴することによってこそ、大きな力を発揮するのである。

劉邦にとって天の時とは、秦の天下統一とその後の急速な瓦解であった。地の利とは、大梁と豊沛のあいだに成立する地域的社会関係であった。大梁は魏の商工業の中心地であり、豊沛の低湿地帯は魏の民衆にとってのフロンティアであった。より具体的にいえば、歴史的な経過によって旧六国の中でも最も反秦的であった楚国の辺縁において、大梁を頂点とし豊沛を底辺とする任侠的な人際関係の網の目の形成という事態であった。

出典:佐竹氏/p96

人間関係の第一歩は父の太公や王陵・雍歯のヤクザの世界だった。その次からの段階は別の記事で書くが、亭長という公職時代にさらに人脈を広げ、群盗時代には沼沢地に落ちのびて来た流民たちと繋がることになる。

劉邦は以上のようなめぐり合わせの中で人脈を作り上げたのだが、当の劉邦がこのようなめぐり合わせを活かせるような人物でなかったら、反乱集団のリーダーにすらなれなかっただろう。

次回は劉邦の人柄について書いていく。



*1:余談だが米国建国前に北アメリカに流入したヨーロッパ人も故郷から落ち延びてきた人のほうが断然多い。

楚漢戦争⑧ 劉邦の生まれ育ち

前回まで項梁・項羽を中心の歴史を書いてきたが、今回から複数の記事に分けて劉邦について書いていく。

テキストは以下の本。

劉邦

劉邦

劉邦の名前について

高祖,沛豐邑中陽裏人,姓劉氏,字季。父曰太公,母曰劉媼。

出典:史記/卷008(高祖本紀)- Wikisource

高祖すなわち劉邦は泗水郡沛県に属する豊邑の人。姓は劉、字(あざな)は季。父は太公、母は劉媼。

劉邦は貴族ではなく庶民・農民の子だった。父親の「太公」は「じいさん」、母親の「媼」は「ばあさん」を意味する語で、本当の名は伝わっていない。

字(あざな)というのは、現代日本での姓名の名に近いのだが、前近代の中国の貴族層においては、名は字と諱(いみな)の2つがあった。

諱は本名と言っていいとおもうが、中国の風習で諱は口にすることをはばかられた *1 。そこで本名の代わりになるもの、つまり通名が必要になるがそれが字だ。ちなみに項羽の場合は「羽」が字で「籍」は諱。

ただし劉邦が庶民の頃は諱を持っていなかった。おそらく季が本名だったのだろう。

中国での名前の付け方の一つに上から順番に伯・仲・叔・季とつけるやり方がある。三国志で有名な夏侯淵の子は上から夏侯衡(伯権)・夏侯覇(仲権)・夏侯称(叔権)・夏侯威(季権)...とつけられた(カッコ内は字) *2。(日本で一郎二郎とつけていくようなもの。)

劉邦の兄弟は長兄に劉伯、次兄に劉喜(字が仲)が、異母弟に劉交がいる。劉邦は三男なのに季なのは、季という語には四番目という意味以外に末っ子という意味を持つので、劉邦は先妻の末っ子だから季だというのが通説だ *3 。ちなみに劉交の字は游。

では、劉邦の「邦」とはなんだろう?佐竹氏の推測によれば、「邦」には方言で「にいちゃん」または「兄貴」という意味があり、劉邦はまわりから「劉のアニキ」と呼ばれていた。そして劉邦が官吏(亭長)になった時に諱が必要になったので、自らの諱に「邦」を採用した、とのこと。通説では即位してから諱を採用したとされる。(p34-37)

劉邦の生年

劉邦の生年については、前256年と前247年の2つの説があるのだが、佐竹氏は両方とも史実に合わないということで、前237年説を唱えている(詳しい理由についてはここでは書かない)。このブロクではこの説に従う。

劉邦の周辺は任侠の世界

任侠とは簡単に言ってしまえばヤクザのことだ。

現代日本ではヤクザは政治と切り離されていることになっているが、数十年前まではヤクザと政治家の密接な関係は公然の秘密だったらしい。今は厳しく取り締まられているので表立っての付き合いはできない。世界を見渡せばヤクザあるいはそれを上回るような非合法組織が政治と関わっているなんてことはいくらでもあるだろう。

劉邦がヤクザ者であったことは『史記』高祖本紀では ぼかしてあるが、いくつかの列伝の中で劉邦の少年・青年時代の実情を垣間見ることができる。

劉邦の父親の劉太公は農夫だったが、ヤクザとつるんで遊ぶのが好きだったようだ。父は盧という姓を持つ人物と仲が良かったが、その息子の盧綰と劉邦も相愛(刎頚の友?)になって 常につるんでいたという。劉邦は2人の兄が実直に農作業をしているのを尻目に、盧綰とともに不良グループを作っていた。

たとえば、後に漢帝国の丞相になる曹参と王陵もヤクザ界隈とつながりを持っていた。曹家は沛県の有力家族で県の役人を務める家でありヤクザともつながりを持っていた。というよりヤクザと交渉せずに政治・行政はできないという社会だった。いっぽう、王陵は若くして任侠として実力を認められている存在であり、劉邦は彼に兄事していた。

また当時の沛県の裏社会の顔は雍歯(のちに劉邦の臣下となる)で、表の社会の事実上の責任者は功曹掾という役職にあった蕭何だった。蕭何も後に丞相になる人物だ(曹参は蕭何の部下だった)。

表と裏が密接な関係を持っているのは沛県だけではなく、当時の中華世界では普通であったようだ。例えば魏にいた頃の張耳は裏社会の大物だったが、外黃県の県令を務めた。また項梁は貴族の家系ではあるが没落した後は裏社会とつながり、逃亡先の呉で顔役になり葬式などの行事を仕切っていた。

では、当時の「無頼の徒」がどのような人々だったか?

豊邑の沼沢地に潜んでいた無頼のものたちは、『水滸伝』に描かれた後世の梁山泊の住人がそうであったように、日頃は漁業を営みながら舟運に従事し、機会を見ては追剥ぎに転じるような連中であった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2004/p85

また、碭郡昌邑県(現在の山東省菏沢市巨野県)の人、彭越も若い頃は鉅野の沼沢で漁師をやりながら盗賊業を行っていた *4



*1:日本にもこの風習は入ってくる

*2:排行 - Wikipedia

*3:佐竹氏は劉邦は後妻の子だとしている

*4:彭越 - Wikipedia

楚漢戦争⑦ 鉅鹿の戦い 後編

前回からの続き。

二世3年(前207年)12月

項羽軍到着前の状況

この12月に項羽軍が秦軍に攻め込むのだが、ここで項羽が攻め込む前の状況を確認しておこう。

章邯はまず鉅鹿の糧道を絶ち、鉅鹿の兵は飢えはじめた。陳余は援軍を率いてやって来たものの章邯軍の多勢ぶりを恐れてただ見守っているしかなく、張耳は何度も救援要請をしたが、陳余は動かなかった。そこで張耳は家臣の張黶(ちょうえん)と陳余の親族である陳澤を使者に送り「かつて刎頸の交わりを交わし、また数万の軍を擁しながらなぜ援軍を送らないのか? 援軍を送って共に死んでくれないか」という手紙を送った。だが、陳余は「ここで援軍を派遣しても無駄死にするだけだ」と断った。張黶と陳澤は食い下がって5千の兵を陳余から借りて章邯軍を攻めたが、歯が立たずに二人とも戦死し、5千の兵は全滅した。これを見ていた他国の援軍や張耳の息子の張敖も章邯の強さを恐れ、見守るしかなくなってしまった。

出典:陳余 - Wikipedia

兵力の差はどのくらいだっただろうか。佐竹靖彦『項羽』では鉅鹿軍を包囲するのは中央から来た王離軍20万、後方支援が章邯軍30万で合わせて50万という数字を提示している。

これに対して項羽軍が来る前の反秦勢力の数字はよくわからない。陳余軍が数万という数字が張耳・陳余列伝にある。張耳の鉅鹿軍本体の数字は分からないが、20万の軍勢が一気に押しつぶせない程度の人数はいたはずだ。この他には項羽本紀には十余の救援軍がいたと書いてある。

飢えに苦しんでいる張耳としては、鉅鹿にいる全部の反秦勢力が団結して戦えば包囲は破れると考えただろう。餓死するくらいなら戦死したほうがマシだと考えるところまで切羽詰まっていた。これに対して「ここで戦っても犬死するだけだ」と陳余は考えた。張耳と陳余は項羽のおかげで助かるのだが、この一件のせいでその後の2人は敵対することになる。

項羽軍の攻撃

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出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p162

  • ↑の地図の「安陽」は諸説あるとのこと。

佐竹靖彦『項羽』では項羽軍は5万強だったという。

項羽黄河の東岸に着くと、まずは当陽君と蒲将軍に2万の兵に河を渡らせて戦わせたがあまり戦果は得られなかった。この後また陳余から援軍を請われたので、今度は全軍をあげて河を渡り、舟を壊し、3日分の食料以外のものをすべて焼き払い、決死の覚悟で秦軍に挑んだ。

兵数に圧倒的な差があるのだが、これを自軍の武力と勢いでカバーしようとしている。秦軍に勝つための戦略などほとんど無かっただろう。そんな項羽軍に犬死したくない陳余が救援を要請したというのだが、本当だろうか?

さて、楚軍の戦いぶりに関しては項羽本紀では反秦勢力の諸侯の目線で語られている。

この時、楚軍の戦士は諸侯中もっとも強力で、諸侯の軍で鉅鹿を救援し防壁を築くものが十余軍あったが、どの軍も出て戦う者がなかった。楚軍が秦軍を撃つと、諸将はみな防壁の上から見ていた。楚の戦士は一人で十人の敵に当たらぬ者がなく、楚の雄叫びは天を動かすばかり、諸侯の軍は人々みな恐れておののかない者はなかった。

出典:小竹文夫・小竹武夫訳/史記本紀Ⅰ/ちくま学芸文庫/1995/p204

数ヶ月も膠着状態だった戦いを項羽軍は数日のうちに終わらせた。

20万の王離軍は壊滅し、1月、王離は捕虜となる。章邯軍は敗走した。

戦後、反秦軍の諸侯たちはみな項羽の前にひれ伏して服属した。

戦後

以下のことは鉅鹿の戦いの後から1年2ヶ月の間の話になる。

章邯は司馬欣を都に送り皇帝に指示を請うが、逆に宮中の腐敗や趙高によってあらぬ罪を着せられ家族が処刑されたことを知った司馬欣に「功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される」と言われ、殷墟で将兵と共に項羽に降伏した。

この際、章邯・司馬欣・董翳の3名を項羽は鷹揚に助命したものの、3名に従った20万の秦兵は数で楚兵を圧倒しており、蜂起による楚軍の被害を憂慮した項羽の指示で、夜襲を受け坑殺された。

出典:章邯 - Wikipedia

反秦勢力鎮圧軍の総司令官であった章邯が項羽に投降し、これにより秦帝国が盛り返す可能性は無くなった。滅亡が確定したと言っていい。

王離が率いた部隊は中央軍の大部分であったが壊滅し、反秦勢力の鎮圧部隊は章邯とともに投降した(20万もの秦兵はその後 項羽の指示により坑埋めにされた)。

この時点で、項羽が号令できる兵は秦帝国を遥かに上回り、戦闘に参加しなかった反秦勢力も項羽の命令を聞かざるを得ない状況になりつつあった。

漢元年(前206年)

暦と元号について

二世3年8月に二世皇帝胡亥が趙高に殺害されている。

秦暦は前207年9月まで「二世」の元号を使い、前206年10月から秦王子嬰の元年が始まる。

しかし『史記』においては、前206年10月から「漢元年」となっている。このような元号は使われていなかったのだが、司馬遷歴史観においては、二世皇帝の死によって秦帝国は滅亡して漢帝国が始まったということになっている。ここではこれに従う。

項羽と劉邦の対立

『史記』秦楚之際月表によれば、 項羽は漢元年(前206年)10月に諸将・諸侯の兵40万を従えて西進し河南(河南郡?、函谷関の東の地域)に至る *1

11月、新安(現・河南省)で上記の20万の元秦兵を坑殺した。

そして12月、項羽はようやく函谷関 *2 へ到着したが、行く手を阻む者は秦軍ではなく劉邦の軍だった。劉邦軍が項羽軍より先に秦を落としていたのだ。

ここから項羽と劉邦の確執が始まるのだが、その話は別の記事で書く。



*1:將諸侯兵四十餘萬,行略地,西至於河南

*2:首都・咸陽に繋がる道の要所

楚漢戦争⑥ 鉅鹿の戦い 前編

さて、いよいよ鉅鹿の戦い。

鉅鹿の戦いは趙国の鉅鹿での戦闘。秦と楚の勢いが逆転する重要なイベント。そして項羽が楚国の実権を握り、それだけでなく、反秦勢力のほとんどを従える存在となる。

この戦いは秦帝国から前漢帝国の過渡期の中でサラッと流されやすいのだが、秦帝国の滅亡が不可避となる重要なイベントであり、楚漢戦争を理解する上でも重要なので詳しく書いていく。

史記』に書いていない部分に関しては佐竹靖彦『項羽*1 による。

項羽

項羽

鉅鹿の戦いが行われた鉅鹿は趙国の都市の一つ。

趙国は張楚国・陳王の配下だった張耳・陳余が、かつての趙の公子であった趙歇を王として擁立していた。趙の都は西部・信都。

以下の年月は基本的に『史記』秦楚之際月表による。

秦の二世2年(前208年)後9月(閏9月)

秦の総大将・章邯は秦の二世2年(前208年)9月に項梁軍に大勝した後、後9月(閏9月)に趙国を本格的に攻略することにした。新しい楚国を倒すために東部に深入りするよりも、首都・咸陽に より近い趙国を制圧することを選んだわけだ。斉の勢力を深追いしすぎて項梁らに敗北した反省がうかがわれる。

秦軍が趙に来るという情報を聞いた張耳・陳余は計画を練り、張耳は趙王と共に鉅鹿(邯鄲の北東)で籠城し、陳余は常山(鉅鹿の北西)に行って兵を集めることにした。

一方、章邯は秦都・咸陽から派遣された王離軍に鉅鹿を包囲させ、自身は兵站を含む後方支援をした。章邯は鉅鹿と棘原(黄河の北岸)を繋げる甬道を築いた。甬道とは食料などの物資運搬を行うための特別な道で、道の両側に障壁を築いて敵の攻撃を防ぐ。これにより鉅鹿の籠城戦の王離軍に十分な補給を確保した。

楚国はこの後9月に宋義を上将軍(総大将)とした楚軍も趙国の救援に出発させている。

二世3年(前207年)10月

秦の暦は10月に年始を迎える。年が明けて二世3年(前207年)10月、章邯はかつての趙都・邯鄲を攻撃・破壊して住民を他に移した。ここに籠城されると陥落させるのに数年を要すると判断したからだ *2

燕国からは将軍・臧荼が救援として到着、また斉からは田都が田栄の意に反して項羽の下に駆けつけた。

宋義率いる軍とは別に、楚国は劉邦軍を西へ派遣する。劉邦軍は成武(定陶の東南)の南で東郡と王離軍の別働隊を破る *3。 ただし、劉邦軍のそれ以上の戦績は芳(かんば)しくなかった。

このような状況の中で、宋義率いる楚軍は安陽に着いてから動こうとしなかった。

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出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p162

  • ↑の地図の「安陽」は諸説あるとのこと。

11月

安陽逗留46日が経ったとき、項羽は宋義に秦軍を直談判したが拒否される。

宋義の戦略は籠城戦で秦軍が勝利した後で、疲弊しているところを叩くというものだった。さらに宋義は斉と同盟を結ぶ算段をつけて、息子の宋襄を斉の相にすることとなった。かつての大国であった楚と斉が同盟すれば秦に対抗できるというわけだ。佐竹氏によれば、懐王・宋義は戦国時代のような複数の国に別れた中国の未来を思い描いていたのだが、項羽は秦軍を攻め滅ぼすことしか考えていなかった。

さて、宋義は自ら無塩まで行って宋襄を送るための大酒宴会を行った。そういった中で、兵士たちは飢え凍えていた。

ここで項羽は決断する。

項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。

出典:項籍 - Wikipedia 

佐竹氏によれば、『史記項羽本紀では、この時 諸将は怖れおののいて項羽服従したと書いているがそうではなく、諸将と兵たちは「秦を倒す」という反秦勢力の本来の目的に立ち戻った項羽を積極的に支持し、これがその後の奇跡的な大勝利につながった、としている。

続く。



*1:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010

*2:史記』秦楚之際月表による。『史記』張耳・陳余列伝では邯鄲破壊の後に張耳らが鉅鹿に入城したことになってる

*3:史記』秦楚之際月表には《攻破東郡尉及王離軍於成武南》とあるが、王離軍は鉅鹿を包囲しているので、こちらは秦の中央から派遣された王離軍の別働隊と思われる