歴史の世界

「中国人論・中国論」カテゴリーの主要な参考図書およびウェブサイト

「中国人論・中国論」シリーズ終了。

コラム的に1つの記事として書こうと思ったがこんなに長くなってしまった。

まあ、これから中国史を勉強するにしても、現代の国際政治を考えるにしても中国人の行動様式を知っておくことは有用だとは思う。

この記事では、主な参考図書とウェブサイトを書き残しておく。

岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)

この厄介な国、中国 (WAC BUNKO)

この厄介な国、中国 (WAC BUNKO)

東洋史家・岡田英弘氏の本。歴史を通して「中国人とはなにか」を書いている。

この本を手にしたのは10年以上前で、その頃は反中本の1つとしか思えなかったが、今は「中国人を知るマニュアル」くらいに思っている。原著が20年前のものだが、読者のほうで多少の知識のアップデートをすればこの本は十分現役だ、と思う。

幅広い事項と少ない紙幅のため、詳細とは言えない部分が少なくたいので、気になる事項に対しては別の情報源を当たるしかない。

小室直樹小室直樹の中国原論/徳間書店/1996

小室直樹の中国原論

小室直樹の中国原論

社会科学者小室直樹氏の本。こちらも上の本と同様に歴史に中国人の行動様式を求めている。

ただし、小室氏は「中国史の記述は驚くほど正確」(p280)と書いているが、これは違う。現代の中国政府が歴史を改竄しまくっていることは周知の事実だが、歴代王朝も同様なことをやっている。

中国の正史は、例えば『明史』を清代の歴史家が書くように、先代王朝史を次代に書くことが慣習となっていた。そうなると歴史家は「先代王朝は末期に悪政を行ったので、自分たちの王朝が倒した」と易姓革命を正当化しなければならない。これだけでも嘘が必要だ。

また次代に正史を書かせるために現王朝はあらゆる資料を書き残すのが中国王朝のしきたりになっているのだが、都合の悪いことは書き残さないことも少なくないという。改竄も同様だろう*1

さらに一般庶民に関連する史料が極端に少ないという。

まあ他地域に比べれば、中国史は史料が 遥かに多いので、社会科学のサンプルが豊富なのは確かなのだろう。後はサンプルが有用化否かの分別の問題だ。

林 思雲(ペンネーム), 金谷 譲/中国人と日本人―ホンネの対話/日中出版 /2005

こちらは現代の中国人と中国をよく知る日本人が書いた本。

2005年という経済大国と言われる前の時代に出版された本だということを念頭に置かなければならないが、個人的には勉強になった。

特に、人間関係については上の2つと違う角度で同様なことを言っているので、知的好奇心を刺激された。3冊を読み比べると大変面白い。

この本は、一般的な中国の庶民の人間関係の感覚と、中国中央政府のその感覚は同じだということに気づく(当然なのだが)。

題名通り、中国人だけでなく、日本人についても書いているのだが、日本人に関するところはほとんど読んでいない。

渡辺利夫/決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ/扶桑社/2017

決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ

決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ

  • 作者:利夫, 渡辺
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

福澤が『脱亜論』を書くまでの短い歴史と彼の内面を探る本。

『脱亜論』を書く前、福澤は李氏朝鮮の清国からの独立と近代化を応援していたが、独立派のクーデターの失敗と独立派に対する中央政府の凄惨な仕打ちに、福澤は絶望して李氏朝鮮そしてその後ろにいる清国が近代化するという幻想を捨てた。

著者の渡辺氏は、『脱亜論』には福澤自身が李氏朝鮮が近代化できるという幻想に対する自省が含まれているのではないか、という趣旨を書いている。

倉山満(監修)/大隈重信、中国人を大いに論ず 現代語訳『日支民族性論』/祥伝社/2016

『日支民族性論』は監修者の倉山氏本人が「ネトウヨ本」と書いている。行き過ぎた部分があるのだろうがその部分がどこなのか私には分からない。日本を持ち上げ過ぎなきらいはある。

大隈は『日支民族性論』を書く前に、有名な「対華二十一カ条の要求」の交渉を行っていた。ここで蒋介石率いる中華国民国政府と粛々と交渉していたはずだが、蒋介石側が秘密協定をすぐさま世界に公開して日本側を批判し始めた。これに対して呆れたのか怒りを覚えたのか、この本を通して「支那はどうしようもない奴らだ」と世に訴えた。

このような本だからある程度割り引いて読まなければならないが、大隈の主張が岡田英弘氏の主張にかなり近いのがとても興味をそそった。

倉山氏の言うように「ネトウヨ本」かもしれないが、大隈がたいへんな教養の持ち主だったこともこの本で分かる。

中国人論として的を射ていると思うので6つの記事に亘って参考にしさせてもらった。

【9月8日配信】歴史人物伝「●●もビックリの中国論?!大隈重信を語る」倉山満 宮脇淳子【チャンネルくらら】 - YouTube」という番宣の動画もたいへん参考になる。

(毎週火曜配信)皇帝たちの中国 宮脇淳子 田沼隆志 - YouTube

『チャンネルくらら』というYouTubeのチャンネルの中の番組。

岡田英弘著『皇帝たちの中国』をネタ元にして中国史を語る番組なのだが、この番組で語られる注目すべきことはずばり中国人論だ。『皇帝たちの中国』よりも『この厄介な国、中国』の話のほうが面白い。中国人を知りたい人は見るべき番組だ。




現代中国に関する本はたくさんあってそれも読まなければ、とは思ったが、遅読のため諦めた。


*1:有名な話としては、『崔杼、其の君を弑す』と書いた役人が崔杼(春秋時代の斉の権力者)に殺されたエピソードがある。このエピソードが語り継がれているのは、殺されることを覚悟で真実を書こうとする官吏は歴史上ほとんどいなかったことの裏返しだろう。

【中国人論・中国論】平等思想が無いか希薄 ―人間関係から外交の話。

【中国人論・中国論】のカテゴリーの中で中国人社会の人間関係について書いてきた。

「法治」が通用しない弱肉強食の中国社会では、人間関係が全てだ。

平等思想が無いか希薄

人間関係には、宗族(氏族・大家族)、幇(互助組織、秘密結社)、同郷組織、同業組織、同僚、友人関係など、さまざまだが、共通することは、内輪と外を峻別することだ。例えば、内輪の人間を騙すことはめったにしないが、外の人間を騙すことに関しては倫理道徳が働かない。

さらに、内輪の中でも上下関係が発生する。上下関係があるのは当たり前のことと思うかもしれないが、中国人社会では内輪の中で暗黙の序列ができるらしい。 面子に関する記事で紹介したが、序列を上げるために食事会で太っ腹なところを見せたり、序列を下げないために人前で叱責されることを極端に嫌がる。そして序列が上がれば下の者を利用することができる。

そういうわけで、中国人は平等とか対等ということに対する姿勢は日本や欧米とは全く違う。平等思想が無いか希薄だと思っておいたほうがいい。

覇権を握ろうとする中国

第二次大戦後、内戦と政治的失敗で低迷していた共産党中国だったが、鄧小平の経済開放路線が徐々に実を結び始め、海外からの強力もあって経済発展を遂げ、現在では世界第2位の経済大国にまでなった。

中国の経済発展を支えた海外の思惑はどのようなものだったか。日本は戦前の賠償金の代わりとして中国を援助していたが、欧米はどのような思惑があったのか。

欧米は中国が民主化すると思っていた。経済発展すれば自ずと民主化するだろうと楽観視していた。日本もそうだったかもしれない。

しかし、現在の中国を見て、世界各国はそのような思惑が見当違いだったことを知った。

民主化どころか独裁化が進み、中国社会はハイテクを駆使した『1984』の世界になりつつある。今や14億人が被検者となる壮大な実験場だ。

上の動画の中では「アメリカは、なぜいつも中国を見誤るのか?」が秀逸で、アメリカは太平天国の乱(1851年)のころにすでに見誤っていて、戦前は宋美齢蒋介石の嫁)に騙されていた、という。

さらに同動画では、ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸 中国の真実』を紹介している。

暗黒大陸 中国の真実

暗黒大陸 中国の真実

  • 作者: ラルフタウンゼント,Ralph Townsend,田中秀雄,先田賢紀智
  • 出版社/メーカー: 芙蓉書房出版
  • 発売日: 2007/09/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 4人 クリック: 29回
  • この商品を含むブログ (19件) を見る

私は未読だが、紹介によれば、この本の中身は、岡田英弘著『この厄介な国、中国 』や大隈重信著『日支民族性論』とかなり似ている(このブログの【中国人論・中国論】カテゴリーの参考文献)。

さらに、タウンゼント氏の本は出版当初は注目されなかった。ココらへんも上の2冊と似ている。

「対等の概念のない中国」

最後に紹介する動画。これも奥山氏の動画。

上の動画の最初で扱った事件のきっかけは以下のようなものだ。

9月30日に英保守党の大会内で同党人権委員会が主催した香港関連行事。撮影された映像には、中国中央テレビCCTV)の女性記者(48)がやじを飛ばした上、主催者側の一人に平手打ちしたとみられる様子が捉えられていた。[中略]

イベント開催を手伝っていた保守党党員のイノック・リウ(Enoch Lieu)さん(24)はAFPに対し、女性記者が講演者の一人に対し、反中的だとののしる声を上げたため、会場を退出するようイノックさんが促したところ、2回平手打ちされたと語った。[中略]

CCTV広報の談話として、この出来事は「許し難い」と述べて主催者側に謝罪を要求するとともに、英国の警察当局に「女性記者の正当な権利を保護」するよう訴えた。

出典:英保守党大会で中国国営テレビ記者排除、在英大使館が謝罪要求 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News 2018年10月2日

この委員会では、香港の人権問題について話し合われていた。要は、香港の民主主義が大陸によって壊されようとしているという話なのだが、これに中国記者が食って掛かった、という話。

この後日談がこの動画の本題。この加害者の女性が本国の中国では被害者と報道され、英雄視されている。動画がインターネットにアップされ、彼女が加害者なのは間違いないのだが、それでも中国側はこちらが被害者だと主張している。中国では、彼女が被害者である証拠の動画がフィルタリングされているのだろうか。

同様の話が二個目の事件。

スウェーデンの首都ストックホルムで、ホテル内のロビーに居座ろうとした中国人観光客の親子3人が警官によってホテルから引きずり出されて、10数キロ先の路上に放置されるという騒動があった。親子はこの模様を撮影した動画を中国のウェブサイト上で公開。中国外務省もスウェーデン政府に公式に抗議しているが、スウェーデン側は「中国人観光客が我が国の法を犯しており、警察の対応に何ら違法性はない」とコメントしている。

米政府系メディア「ボイス・オブ・アメリカ」がストックホルムで観光業に従事しているスウェーデン人女性に取材したところ、彼女は「この10年来、中国人観光客のマナーのひどさや非常識さが、スウェーデンばかりか欧州諸国全体でも問題になっており、今回の騒動も、その延長線上あるのではないか」と指摘している。

親子3人は宿泊予約よりもほぼ1日早い9月2日未明、空港からホテルに到着。ホテルは満室でチェックインできなかった。3人はそのままホテルに居座り、ロビーで一夜を明かそうとした。

このため、ホテルのフロントの係員は「他の客の迷惑になる」などとして、警察に連絡。警察官はごねて座り込み泣き叫ぶなどする親子の両手両足を持って、ホテルの外に引きずり出した。

出典:中国人、スウェーデンでホテルを追い出され外交問題に│NEWSポストセブン 2018.09.26

この事件でも迷惑を撒き散らした中国人が本国では被害者として同情されている。

このような中国人たちの海外の振る舞いをみて、動画の解説者の結論は「対等の概念のない中国」。中国は他の外国より優れているので、中国人以外の人間が中国人の言うことにしたがって当然だ、と中国人が思い始めている。

国内で上のような調子で、加害者を被害者のように報道してしまっているから、国家が国民の海外での悪行を助長してしまっている形になっている。

戦前の日本は暴支膺懲などと言って奢っていた、と歴史で習うかもしれないが、これはちゃんと憤慨する理由があるのだ。

これに対して、これらの中国の振る舞いは理由がないどころの話ではない。

いよいよ世界が中国の正体に気づき始めた。

先日、竹田恒泰がある番組で言っていたことを思い出す。

彼が言うには、中国は覇権を握ってから正体を表せばよかったのに、その直前で正体を表してしまった。まるで因幡の白うさぎだ。

下の動画で同じようなことを言っていたので紹介。

【古事記の窓】習近平と因幡の白兎|竹田恒泰チャンネル2 - YouTube



中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その6 文を尊び武を卑しむ

「文尊武卑」。中国の性質と言われている。これに関する大隈の日中の比較の論も紹介する。

それと最後におまけとして、現在の日中の状況を書き留めておこう。

閭右と閭左

「文を尊び武を卑しむ」といえば、南宋朱子学を思い浮かべるが、大隈によれば、その起源は春秋時代にまで遡るという。

国史における都市は高い四角い城壁に囲まれている中央の大通りの両端の入り口を「閭(りょ)」といい、大通りの右手を「閭右(りょう)」、左を「閭左(りょさ)」という。

閭右には読み書きできる知識階級が、閭左には読み書きできないその他 労働民や商人が住んでいた。

官吏になること、学問や教育などの世界に身をおくことは、すべて右族[閭右に住む人々=知識階級ー引用者注]の任務と定まっていたから、支那では文学のことを「右文(ゆうぶん)の科」と称して尚(たっと)び、これに対して武を「左武」と称して賤しめたが、この習慣も基づくところは、閭右と閭左の制度の区別にあることを知るべきである。こういったような習慣は、春秋時代に大小幾多の邦国(くにぐに)をなしていたころからのものであろう。(p62)

上から分かることは、知識階級を尊び、武人・兵士を含むその他を卑しんでいる、ということになる。この風潮は今でも健在で、中国の役人は庶民を蔑んでいる。

中国は、「官」と「民」の徹底した二元社会です。"父母の官" という言葉が昔ありました。「官」の地位は、一般大衆の父母のようなものであって、だから限りなく尊く、ゆえに一般大衆は無条件に官員の指図に従わなければならないという意味です。こんな社会では、一般大衆は絶えず官員から蔑まれ、自尊心を傷つけられる状態に置かれることとなります。

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p77、林思雲の筆

「文尊武卑」の根源は支配階級のその他の人々に対する軽蔑・差別にあるようだ。

「文→虚飾」「武←質」

以前に大隈の儒教と道学(老子)の評価について書いた。*1

大隈は、老子が《「文(外見)」を嫌って、「質(内面)」を尚(たっと)んだ》(p47)と書いている。

文とは孔子儒家のこと、つまり、外交儀礼や祭祀儀礼のようなマナーに執着している人々のこと。

質とは老子自身が追求するところ、つまり、外見や飾りを取っ払って本質または現実をありのままに見抜くことを重要視する。

以上のように儒教と道学を評価し、大隈は、当然のことだが、儒教を批判して道学を評価した。

そしてこの評価が「文尊武卑」にそのまま繋がる。文すなわち知識階級が読み書きができない人々を蔑むあまり、「質」を軽視する傾向にあった。実質を無視した机上の空論が まかり通り、自滅の道を ひた走ってしまう気質を持っているということか。

具体的に言えば、国外からの武力的脅威が常にあるにもかかわらず、武を賤しめつづけた。

その結果どうなったか。中国は「常に文弱によって亡ぶ」という歴史を繰り返してきた。

武強で亡ぼしても、文弱に征服される

しかし中国史の面白いところは、中国を征服した蛮族たちが、征服後にたちまち文弱になってしまう、という法則のようなものがある。

[蛮族たちが]その志を遂げ、支那を征服して、いわゆる「中国」に入るとどういうわけか、すぐにそれに同化されてしまう。すぐに在来の支那文明に阿(おもね)り、古くの聖人たちに媚び、先王たちの道に屈従する。そのため、「文をもって太平を修飾する(レトリックで表向きの平和を美化する)」というような積弊にまで同化されてしまう。

支那の領土は大きく、[中略] 多少の消長はあったといっても、清朝盛時の範囲くらいは常に保っていたから、これに優る強国が四隣にない。[中略]

蛮族は、武力的、物質的に漢民族を征服していても、かえって漢民族からは、文学的、精神的に征服されていた。(p100-101)

結局のところ、外から支配されたとしても政治システムに新しい要素が加わることはなく、産み出されることもなく、「文尊武卑」を内包した旧来の政治システムが時代が清朝に至るまで踏襲されていった、と大隈は主張する。

大隈の日本観

上のような中国観に対して大隈は日本をどう見ていたのか?

まず、支那人と日本人を比較しているところから見ていこう。

要するに、支那の国民性は弱いのである。日本のように「強」を尚ばず、ただ「文」のみを尚んだ。文質彬々(ひんぴん)(外見と内面の調和)というのも文字の上に残っているだけで、実際に彼らは、「文」に偏って「質」を尚ぶことはない。

これではいけない「質」を根底にたもたなくてはいけない。ただし「質」といってみただけでは、なおわれわれの感情を呼ぶのに十分ではないところがある。それで、われわれはさらに「強」という字を捻出し、これまでやってきたのである。

「強」というのは、さまざまな徳の根底に潜在している肝腎のものである。改過遷善(過ちを改め、善に遷す)とはいうが、言葉では容易なように見えて、実はたいへん難しいものである。非常な自制心、克己心を要する。

この自制心と克己心は、われわれのいうところの「強」である。単に自制心、克己心といっただけでは、まだわれわれが言い表そうとする情をつくしていまい。これを「強」といって、初めて完全に表現できる。この「強」を尚ぶ精神が、わが有史以来の国民性を貫いて流れ、今日に及んでいるものなのである。(p151-152)

「自制心」と「克己心」は類語だそうだが、大隈は言わんとするところは「己に打ち克って感情をコントロールできる心」ということだろうか。

それでも「強」が重要なのが分かるが、その説明がよく分からない。

別の引用をしよう。

日本固有の民族性は尚武にある。尚武の気風は質実であり、「偽らざる誠」の上に立脚して現れる。

この精神が、実に物質的にも精神的にも、邁往果敢(まいおうかかん)(ひたすら前進し、決断力に富む)の勇気を発揮するのである。進んでみて、種々の難関に触れ、時に蹉跌(失敗)があって過誤から免れなかったとしても、たちまち大きな克己心や自制心を喚起して、その失敗を回復していくのである。

生存競争の世は、こうでなくてはいけない。すっかり身体を鍛えて百錬の製鉄のようになる。そして、これを用いるには千挫不屈(千回失敗しても屈しない)の精神で臨む。このことを認めて、誰もが言うように、日本は尚武の気風に富むということなのである。

この点が、その文弱の弊害にこれまで打ち克ってこられた。(p127)

「偽らざる誠」については漢字が伝来するよりも前から日本人の思想の根底に有り、「まこと」は「質」と言い換えることができる、としている(p125)。

個人的には中国人と日本人の大きな違いは「偽らざる誠」を尊ぶか否かにあると思う。ただし、国際社会は弱肉強食、魑魅魍魎の馬鹿し合いの世界なので、嘘をつけなくてはやっていけない。嘘のつき方に関しては中国人はお師匠様だ。

大隈は上の文章を書いている時に幕末の時代、攘夷志士の行動を思い浮かべていたのかもしれない。失敗してもひたすら進み、しかし克己心や自制心を忘れなかったために明治維新が成立したのだ、と。

幕末維新以外の歴史にもその解を求めている。すなわち、支那文明を模倣した平安時代を打ち壊して誕生した「尚武を尚んだ」鎌倉幕府が誕生したことを評価している。(p146)

日本は幕府という政治体制を あまり変えることなく踏襲したが、大隈的には「尚武を尚んだ」政権だからアリなんだろう。

おまけ:現代の中国と日本(2018年10月前半)

中国

現在の中国政府は内政においては好景気一本だけで成立している。つまり景気が良いので言論の不自由や経済活動や法・行政の不備が数多くあってもどうにか成り立っている。逆に景気がどん底になれば、庶民の不満が一気に吹き出して収集がつかなくなる可能性は低くない。だから中央政府は景気のコントロールに必死だ。かなり嘘に塗り固められて入るが。

軍事面ではどうか。「文尊武卑」は見られない。現在の中国の軍事力は米国の助力無しで日本と戦った場合は勝つことは間違いないと言われている。量だけでなく質の面でも日本は凌駕されているという話だ。

日本

現在の日本の内政は、ほとんど安倍総理のおかげで成り立っている。安倍総理以外に経済学を理解している議員が上層部にはいない。野党も同じ。しかし政治は安倍総理ひとりでできるものではない。周りが財政均衡主義という間違った経済思考を持っているので、これに引きずられて消費増税をしようとしている。このあたりは安倍総理の力量の限界だというしかない。

軍事面では、結局のところ米国に頼るしかない。安倍外交は高く評価されている。

しかし、自国の軍事力の軍事増強は進んでいない。軍事費がGDP比1%というのは他国と比べて最低レベルだ。しかも20年以上に及ぶ不景気(デフレ)のためにGDPはその年数分増えていない。その間の中国の軍事費の伸びを見れば、日本が中国に負けるのは当然というものだ。

これを重要視しない政治家・マスコミそして日本国民は尚武を尚んでるとは言えず、むしろ「文尊武卑」ではないかとしか思えない。

そういういみでは、大隈が指摘した日本論と中国論が逆転している観がある。



監修者の倉山満氏がこのほんは「ネトウヨ本」だと言っているので、批判的に読む必要があると思っていた。

この記事で扱っている部分は特にそうかもしれない。

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その5 中華思想

この記事では中華思想について書く。

中華思想

「その八 支那の自大心とその実際の勢力」という章の「支那の自大心」は中華思想つまり自国(民族)が中心で他は野蛮だという考え方。しかし支那の「実際の勢力」を見ると自大(うぬぼれ)に過ぎないと言っている。さらには中華思想が「自力で国勢を発展させることができない根本の弊竇(へいとう、穴となる欠陥)」だとする*1

支那は昔から自国を称して「中国」といっているが、それは、自国が文明の中心であって、他は全て蛮民であると信じる思想を内に持ったである。

しかも支那は、早くよりヨーロッパ全土よりも大きな領土を奄有(えんゆう、わがものにする)していたので、「支那をもって全世界」と心得て、これを繞(めぐ)る(とりまく)他の諸邦を「四海」と称していた。この海とは「晦(かい)」であって「ウミ」ではない。つまり四方の蒙昧(知識がなく道理に暗い)な民族という意味である(晦=暗)。詳しくいえば、東夷・南蛮・西戎北狄を称するもので、中国はそれらに包まれた中心の光である。

そして、その光をもって「晦(くら)き四方」をしだいに明るくするというのが理想であったが、このような例は西洋にもある。(p52-53)

しかしその実態はそんな威張れるものでもない、と主張する。

自国の実態

大隈の主張を要約すると、(倉山氏の解説より)「実態は単なる都市連邦。何度も周辺諸民族に滅ぼされている。」(p178)

支那上代の早くから封建制度である。おそらくは五帝三王(神話上の理想の君主と、夏・殷・周の三代の王)の時代に創められたであろうというが、事実を究めると、ただ協約の上にきわめて薄弱な連邦を成立させていただけであった。(p53)

周代までの邦とは、王は四方に赴き、その地域の君侯を集めて一緒に山で天を祀り、暦と律度量衡(規律と測量単位)を一致させる協約を結んだだけのものに過ぎなかった、と。

以上は文献に載っている話だが、岡田英弘氏は都市連邦(黄河文明)の誕生について仮説を立てている。

このことは、youtube動画「新番組「皇帝たちの中国 第1回 中国人はどこから来たのか」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら・6月5日配信】 - YouTube」で語られている。

簡単に言えば以下のようになる。

文明前夜の大陸では商売が盛んになり、商売相手の別の都市と互いに娘を嫁がせるなどして同盟関係を築く。この同盟関係の中心となったのが二里頭遺跡がある洛陽付近だった。ここが黄河文明の中心地となる。

時代が下ると漢字が起こり、国内のエリートがこれを使ってコミュニケーションをとる。そしてこのエリート階級を中国人(=漢人漢民族)ということにした、という。そして文字が読めない周囲の民族は野蛮人ということにした。

この仮説の注意すべき点は、もともと漢人という民族がいたのではなく、東夷・南蛮・西戎北狄の洛陽付近の集まりが漢人になったということだ。

さて、話がそれてしまった。

上のような都市連邦の状態は始皇帝により統一され、前後の漢に受け継がれたが、三国時代西晋の後、蛮族に侵入される。隋唐王朝漢人ではなく「北狄」だ。その後も、「何度も周辺諸民族に滅ぼされている」。

朝貢の実態

また倉山氏の解説より「「朝貢」などと威張るが、実態は貿易にすぎない。」

『春秋』には、「王者は夷狄(蛮族)を治めず」と説かれているが、これは、「中国諸侯の居住地の外部を帝王は統治しない」という意味で、いわば「来る者は拒まず、往く者は追わず」という主義によっている。

「来る者は拒まず」とは、周囲の夷狄の国より、そのときの帝王の正朔(せいさく)、つまり帝王が定める暦日を用いて文書をつくり、自国の主要な物産を宝物とみなして、みずから齎してくるか、あるいは使者に献じさせるかすれば、帝王がその宝物の数や価値を計り、それ以上の価値のある物品を賜ることを通例としていた。

これは実は、今日でいうところの貿易なのである。たいへん遠方の国からこのような宝物を持ち来たるということは、帝王の徳が絶遠の境(辺境)にまで及んだということだろう。彼らはそうみなして喜び、また誇りにしたのであった。

そしてまた、この折に、今度も何年かに一度、あるいは一年かに幾度か来貢(朝貢しにくる)すべきことを約束して帰るのである。

実に簡単なものながら、これも一種の国際条約であるのだが、とはいえ、その約のとおり来ない国があったとしても、べつにこれを罰するでもなく、そのまま放っておいた。これが「往く者は追わず」という意である。

いかに、その実を問うことなく、ただその名のみを愛したかであろう。少しでも土地を有するものが来貢すれば、すべてをその会盟のなかに入れ、賓客として接遇した(重要な客人としてもてなした)。(p54-55)

上は周代以前の話だが、朝貢の構造は秦以降も同じようなものだった。

秦以降の朝貢については、宮脇淳子氏が詳しく説明してくれている動画がある。

【6月19日配信】皇帝たちの中国 第3回「朝貢の真実」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

さて、「朝貢は貿易に過ぎない」というのは中国の外側から見た話。

では帝王(王または皇帝)は何のために朝貢を行ったのか?本当に「その実を問うことなく、ただその名のみを愛した」のか?

上の文章の一部を再び貼り付ける。

たいへん遠方の国からこのような宝物を持ち来たるということは、帝王の徳が絶遠の境(辺境)にまで及んだということだろう。彼らはそうみなして喜び、また誇りにしたのであった。

外国人が帝王に貢ぎ物を差し出すの場所は朝廷で、その場所には国内の家来たちが大勢 集まっている。

帝王が、外国人が貢いでいる姿を家来たちに見せる理由は「帝王の徳が絶遠の境(辺境)にまで及んだ」と思わせるためである。ただしこの場合の「徳」とは「顔が利く」という意味だ。

「帝王はたいへん遠くまで顔が利く」→「帝王は国外にもたいへん広いネットワークを持っている」→「帝王は何でも手に入れることができる」→「帝王はすごい」となるわけだ。

そういうわけで、帝王にとって朝貢は内政問題なのだ。だから外国人には貢ぎ物よりも価値のあるものを渡す。(詳しくは上の動画参照)

ここらへんは、普通の中国人どうしの人間関係でも共通するものがある。つまり、顔が広い、ネットワークが広い人の周りには人が集まりやすい。それは、彼に頼れば自分が欲しいものが手に入るかもしれない、困ったことがあったら顔が広い彼に頼めばなんとかしてくれるかもしれない、と思うからだ。

中華思想が引き起こした悲劇

1881年、清国とロシアの間でイリ条約が結ばれた。

清国の支配下にあった東トルキスタンで反乱が起き、これに乗じてロシアがイリ地方を占領した。この事態に両国の間で交渉を行うことになった。詳細は省くが、結局 曽紀沢という外交官のおかげもあって、イリ地方の一部が返還された。

この交渉の場で曽紀沢は相手に向かってこう言った。「支那は眠れる獅子である。ひとたび覚めればたいへんだ」(p13)。

曽紀沢が支那を眠れる獅子といったことは、けっして一場(その場かぎり)の大言ではなく、みずからもそのように信じ、また、ややもすれば、イギリス、フランス、ロシアなどもそのように思い込んでいたかもしれない。(p14)

清国はアヘン戦争などの反省から軍事増強を図り、整えつつあった(洋務運動)。日清戦争の前までは列強はまだ清国の力量を図りかねていたようだ。

しかし中華思想が軍事増強の努力を蝕んだ。日本を侮りきっていた結果、日清戦争で惨敗した。その後 列強諸国による「中国分割」が始まった。

日清戦争の]結果、支那の真相が世界に暴露されてしまったのである。暴露されてみると、考えていたような眠れる獅子などではなく、息を引きとって四肢がすでに冷たくなった老獅(老いた獅子)であった。(p19)

孫子に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」とあるが、中華思想のせいで自他の分析を鈍らせた結果、大敗を招いた。

おまけ:日本にもあった中華思想

日本にも中華思想というものがあった。wikipediaの「中華思想」には「日本」という項がある。日本の中華思想漢人王朝の「明(みん)」が滅亡した直後に産まれた。

明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸時代の儒学者山鹿素行は著書『中朝事実』の中で「日本ではすでに神道という聖教が広まっており、もし聖人の道が行われていることが中華であることの理由ならば日本こそが中華である」という主張をした。

出典:中華思想 - Wikipedia(日本の項)

日本版中華思想は幕末になると尊王攘夷尊皇攘夷)に変わり、最終的に明治政府をつくる原動力となった。

しかし尊王攘夷は危ない思想でもあった。「攘夷」とは蛮族(外国人の別称)は打ち払え(斬ってしまえ)というものだから当然だ。これが全国の下級武士に流行して外国人や開国派の日本人を襲うテロ集団のイデオロギーになった。

一番危なかったのが長州藩で、列強4国に向かって戦争を仕掛けた(四国戦争=下関戦争)。彼らにとって日本が植民地として魅力的な地域だったら、下関は日本第一号の植民地になっていただろう。

最終的に攘夷志士たちは現実主義者の大久保利通らの元に戦い、結果、明治政府ができたのだが、この経緯を見ると奇跡としか思えない。

ただ一つ言えるのは、日本の中華思想の核は皇室という具体的なものだったので、皇室を守るためには攘夷志士は攘夷を捨てて外国人を夷狄と蔑視することを止めなければならなかった。



*1:ただし大隈は「中華思想」という語は使っていない

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その4 道学(老子)について

大隈重信、中国人を大いに論ず  現代語訳『日支民族性論』

大隈重信、中国人を大いに論ず 現代語訳『日支民族性論』

この記事では、上の本を元に大隈の道学観を書いていく。

道学について

道学とは つまり「老子」のことだ。箔をつけるためかどうか知らないが、道学の始まりは黄帝、大成者を老子ということにして、道学を「黄老の学」と呼ぶこともある。黄老思想については「前漢・高祖劉邦⑤:休民政策/黄老思想 」で紹介した。

老子の全容を語ることはできないので、黄老思想の説明だけを紹介しよう。

黄老思想

中国の道家(どうか)思想の一派。神話や伝説上の帝王黄帝(こうてい)と、道家思想の開祖とされる老子(ろうし)とを結び付けた名称である。漢の初め(前2世紀前半)に政術思想として為政者の間で流行した。宰相の曹参(そうしん)が無為(むい)清静の政術として斉(せい)の国から伝え、秦(しん)の厳しい法治に苦しんでいた人心を解放するものとして歓迎された。ことさらなことをせず、基本的な法にゆだねて単純簡素な政治を行うことを主にし、『老子』や『黄帝書』を尊重した。ほぼ50年にわたって漢の統治の指導理念となっていたが、武帝(在位前141~前87)の儒教尊重による積極的な政治思想によって衰微した。[金谷 治]

出典:出典:コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大隈は《「文(外見)」を嫌って、「質(内面)を尚(たっと)んだ」(p47)と書いている。

「礼(マナー)」をとやかく語っているだけの儒家を嫌い、道学は本質または現実をありのままに見抜くことを重要視する。

これに続く文章を引用しよう。

清浄無為(清らかで自然に任せている)で、大道(正しい徳の道)に合うのを願い、社会の秩序はこれによって保たれる。政治は法律が定めるところに任せればよい。

いっとき、それ以外に「三百の敬礼、三千余の威儀」などといった繁瑣(煩瑣)なものをつくりだして、自由なわれわれの進退(行動)を拘束しようという試みもあったとはいえ、これらのことはすでに過去に属するものであって、実は当世ではなんら用のないものだとしたのだった。

道学が人を導くのは、きわめて簡素である。それで、その学徒の中から、一方で刑名の学、他方には兵学が起こり、これによって社会を当世することになった。これが、そもそも時代の変化の初めだった。(p47)

ここでは「時代の変化の初め」は秦の始皇帝が中華統一を達成し、刑名の学を使って全土を統治しようとしたことを指す。

刑名とは実際の行いと言葉による名目の一致を求める考え方、もっと簡単に言えば、行動に対する賞罰のルールを厳格にして守ることを重要視する思想のことだ。

秦が滅んで前漢になると、劉邦とその遺臣たちは秦の法律を受け継ぎながら黄老思想に基づいた政治(法律を定めて守る以外はほとんど何もしない単純簡素な政治)を行った。

さて、大隈は始皇帝の大改革を高く評価している。大改革の一例として焚書坑儒を評価して以下のように書いている。

これだけのことを断行しなくては、従来分裂してしまっていた列国を合体して、そこに十分な統一的制度を立てることが、とうてい不可能であったからだ。これを悪行することは、まったく支那人の思想に横たわる根本の誤りである。民を新たにする治世の要はここにある。これでなくては、国勢の発展を期することができないのではないか。(p40)

さらに秦の滅亡以降の支那について以下のように書く。

法治国家の端を啓いた秦の帝業(皇帝の政治)も、このように脆くも道なかばで挫敗(挫折し失敗)することとなる。こうして支那の政治は、進歩どころか、かえって大きく退歩した。その後にも、われわれから見れば、乗じるべき革命の機会は幾度もあったにもかかわらず、これをあえて行なうものはなかった。(p151)

要するに言わんとすることは、支那は秦よりも後、問題の本質を直視して根本的な大改革をすることができずに今日に至っている、と主張する。

いちおう書いておくが、支那は刑名の学(法家の学)を捨てて、儒教の思想だけで統治していたわけではない。

別のところで大隈も書いている通り、前漢の初期は秦の法律を踏襲した。また、それ以降の前漢儒教の思想と法(刑名)の思想を織り交ぜて統治に利用している。このことは宣帝が皇太子(のちの元帝)に対して「漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。儒教だけが素晴らしいなどと勘違いするな!」という逸話が『漢書』・『十八史略』などに書かれている。*1

このことを小室直樹氏は次のように書いている。

中国における統治機構は、じつは二重構造だった[中略] 。すなわち、表向きは儒教で国を治めてきたのだけれども、実際は法家の思想で統治してきた。これを「陽儒陰法」と言う。

出典:小室直樹小室直樹の中国原論/徳間書店/1996/p179-180

そういうわけで、大隈が主張するように法家の思想(道学)が統治に重要だということはそのとおりかもしれないが、秦滅亡した後に退歩したというのはあからさまな間違いだ。

国史における法治国家

ここで、法治国家の話をしよう。

中国における「法治国家」と現代の政治を話す時に使う「法治国家」とは意味が違う。

刑名の学で有名なのは始皇帝の丞相であった李斯や『韓非子』を書いた韓非が有名だが、彼らは法家と呼ばれた。法家の目指すところは、人々の行動に対する賞罰のルール(法)を定めて厳格に遵守することによって政治を行うこと。儒家の徳治(為政者の徳に基づく政治)に対立する政治思想とされる。

では、現代の法治国家とはどうちがうのか?

近代リベラル・デモクラシーの発祥地は英国。1688年の名誉革命、そして翌年の権利宣言では、高らかに謳いあげる。王は最高である。王はすべてである。しかし王は法の下にあり、と。この法律とは人民を主権者から守るもの、というのが近代法の根本的な考え方なのだ。[中略]

近代法がイギリス、アメリカといった国々で進歩してきたのは、いくつかの革命を通してである。そして欧米諸国に定着した。ではそのテーマは何かというと、一言で言えば、法律というのは政治権力から国民の権利を守るものである、ということ。近代法はそういう立場に立っている。清教徒革命(1624-1660年)、名誉革命(1688年)、それからアメリカ独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)、これらに一貫して流れている精神は、法律とは権力に対する人民の抵抗であるという思想なのだ。人民が主権者から自分たちを守る楯、それが法律であると。

ところが、このような精神がまったく欠落しているのが法家の思想(法教)、中国の法概念なのである。立法だとか、法の行使だとか、そういう点についてはとても進んでいるが、「法律とは政治権力から国民の権利を守るものである」という考え方がまるでない

考えてみれば、それも当然のことであろう。法家の思想において法律とは、統治のための方法なのだから。法律はつまり為政者、権力者のものなのである。

韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。この場合の「役人」というのは、いまでいう行政官僚のこと。

一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。

こうした考え方が法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのでもある。

出典:小室氏/p206-207(本で傍点になっている箇所を下線にした)

上のようなことは現代でも続いている。

例えば、中国で商売をしている日本人や欧米人が中国の法律を字面通りに守って商売をしていると、役人がやって来て「お前はこの内規に反するじゃないか」と言い出して、罰するようなことを平気でするのだ。「内規なんて聞いてないよ!」と言っても通用しない。役人が法律を勝手に解釈してもいい権利を持っているのだから。

このことは外国人に対してでなく、中国人に対しても同じだそうだ。少し上の話とずれるが、別の本から引用しよう。

中国は、「官」と「民」の徹底した二元社会です。"父母の官" という言葉が昔ありました。「官」の地位は、一般大衆の父母のようなものであって、だから限りなく尊く、ゆえに一般大衆は無条件に官員の指図に従わなければならないという意味です。こんな社会では、一般大衆は絶えず官員から蔑まれ、自尊心を傷つけられる状態に置かれることとなります。

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p77、林思雲の筆

庶民がやむを得ず役所に行くと、役人に冷淡な目と傲慢な態度で迎えられる。これに対して庶民は愛想笑いで対応しなくてはならない。なぜなら、そうしないと「相手が機嫌を悪くして、してほしい手続きをしてくれない」からだ(p78)。

というわけで、大隈の指摘とは逆に、現代の中国では刑名の学が役人に悪用されて、より悪い社会になってしまっている。

道学と道教

最後に少しだけ道教の話をしておく。

私は老子道教の始祖だとばかり思っていたが、それは間違えであった。

中国、古代の民間信仰を基盤とし、不老長生・現世利益を主たる目的として自然発生的に生まれた宗教。のち、仏教への対抗上、神仙説など道家の思想、および仏教の教理儀礼が取り入れられた。5世紀前半、北魏寇謙之(こうけんし)が教祖を黄帝老子とし、張道陵を開祖として道教教団を形成した例もあるが、多くは民間信仰として発展。

出典:道教(どうきょう)とは<デジタル大辞泉(小学館)<コトバンク

もともと道教民間信仰の集合体のような雑多なもので、その上に、老子の思想を取り入れることもあれば、神仙の思想を取り入れることもある。他にも占星術・易や陰陽五行なども含まれている。

さて、更に神様も適当で三国志で有名な関羽関帝として神格化され、老子太上老君という神になっている。

道教が歴史に初めて出てきたのは後漢末の太平道(つまり黄巾賊)と五斗米道だ。彼らは秘密結社と言われるが、簡単に言えば互助組織だ。後漢末の治世が乱れた時期に生き残るために集まった集団だった。

この時、五斗米道が『老子』をテキストとして採用した。しかしその理由は、岡田英弘氏によれば、「文字とその使い方を覚えさせるというのが真相であった」*2

諸橋轍次氏によれば、道教は「老荘の言葉は引用していますが、それはただ宣伝術に利用したまでのこと、実は老荘の養生法とはあまり多くの関係はないように思われます。」 *3

こういった互助組織が元になって道教の集団が各地に根付いて、さらにあらゆる思想その他を取り入れて雑多を極めた。南北朝時代に三洞・四輔という分類が為され、かなり曖昧な分類で整理されて、どうにか他の宗教と同列に語られるものになったらしい。

その後の展開はwikipedia道教のページか松岡正剛氏の該当ページが参考になると思うが、やっぱり雑多すぎて分かりにくい。

ただし、儒教とは違い、宗教として一般大衆に根付いていた。そういうわけで、中国を代表する宗教は儒教ではなく道教である

現代になると道教は大陸では中国共産党文化大革命期に「秘密結社としての性格が強いもの有り」と危険視され、否定された*4 *5。これが認められるのは1990年代に入ってからだ。しかし台湾や香港などでは熱烈な信仰ぶりが見られ、他の宗教と肩を並べている*6



秦の始皇帝は中華統一のために焚書坑儒を断行したが、現在の国家主席習近平は「民族統一」のために数十万単位のウイグル人を「再教育」という名目で強制収容所に収監している。*7


*1:前漢・宣帝の治世 - 歴史の世界宣帝 (漢) - Wikipedia参照

*2:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)/p211

*3:諸橋轍次荘子物語/講談社文庫/1988/p308

*4:今枝二郎/道教NHKライブラリー/2004/第11章 現代中国の道教

*5:道教 - Wikipedia

*6:今枝氏/同上

*7:米国務省、中国のウイグル族弾圧に「深い懸念」 制裁を検討 | ロイター

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その3 儒教について

儒教について大隈がどのように説明しているのかを書く。

この記事では、上の本を元に大隈の儒教観を書いていく。

儒教の要点「仁」

まず大隈は以下のように述べる。

古今にわたって見るかぎり、偉人が人を導く語は、たいていにおいて大差のないものである。[中略] 孔子が仁を説き、仏が慈悲を説き、キリストが愛を説くのも、その要点は同じところにある。(p42)

3者の3つの語の類語は「愛」である。この「愛」は性欲に関する愛(エロース)ではなく、他者への「思いやり」「慈しみ」を表す。

仏の慈悲とキリストの愛(アガペー)が「博愛」(すべての人に対する平等の愛)であるのに対して、孔子の仁は「仲間内(共同体の中)への愛」である。戦国時代の墨子はこれを批判して「兼愛」を説いた。兼愛は博愛と同じ意味を表す。

「礼」と後代の儒家

さらに進む。

「智これに及び、仁よくこれを守り、荘をもってこれに涖(のぞ)むとも、これを動かすに礼をもってせざれば、いまだ善(よ)からざるなり(道理を知って「仁」の道を守り、荘重な態度をもって臨んだとしても、民衆の心を動かすのには「礼」をつくさなければ、善処したとはいえない)」

いわば、孔子による儒学の生命とするところは、「礼」の攻究にあった。つまり孔子は、「詩書、執礼みな雅言す(「礼」をとるときは、どれも上品な言葉づかいである)」といって、『詩経』『書経』とともに「礼」を攻究することこそがその要諦であった。

しかし、これがそもそも後代に至るまで長く儒学の迷誤となり支那全国に「新民(民を親(あら)たにする)」の要素を欠き、国勢の発展を失わせた基となった。(p43-44)

「礼」とは大衆においては冠婚葬祭のマナー(作法)であり、政治においては外交などの儀礼プロトコール)のことである。

つまり大隈は、孔子が最も重要だとしていたのは「仁」であるのに、後代の儒家が「礼」に固執し、また三代(夏・殷・周)を理想としすぎて、新しい社会を創ることができない、と言っている。

後漢の時代に儒教は国教にまでなったが、後漢が滅ぶと いよいよ形式的、装飾的なものになっていった。(p50)

孔子支那への批判

しかし大隈は孔子自身も批判している。

大隈は老子孔子の問答を書いた後に「いかに老子が、孔子が礼儀の細節(本質ではないこと)に拘わり、表面を粉飾(虚飾をとりつくろう)しようとするのを戒めたかがわかる」と書いている。(p46)

同時代の老子にさえ、このように見られたのだから、後代の儒家孔子の主張を迷誤しても仕方のないことのように思える。

そして最終的には支那への批判へと繋がる。

支那が古来、幾多の革命を経たにもかかわらず、その文明の上になんら新しい要素を加えてこなかったのは、孔子儒教を万古不易(ばんこふえき)の道と誤認して、宗教的偏執(へんしゅう)ともいえるものを抱(いだ)き、それにのみ拘泥して他を排斥してきたからである。(p42)

支那が「新しい要素を加えてこなかった」というのは言い過ぎのように思えるが、中国人が、西洋と比べて、新しい要素を生み出した偉人に対するリスペクトが無いことは確かだ。

一説によれば、中国の科学史家ジョセフ ニーダム著『中国の科学と文明』を知るまで、中国人自身が過去の中国における科学技術の発明・開発を知らなかったという。

変わり果てた儒教

上で「後漢の時代に儒教は国教にまでなったが、後漢が滅ぶと いよいよ形式的、装飾的なものになっていった」と書いたが、後漢が滅んだ後、儒教はどのようになったのか。

魏(220-265)に入ると、儒学は、曹操に、その子である曹丕曹植に弄(もてあそ)ばれて、詩賦の流行となった。

時代は下って六朝(222-589)に入ると、儒教は、仏教と抱きあわせられて、詩賦や清談と並び盛んに行われ、いよいよ形式的、装飾的となった。

さらに時が経って、唐(618-907)から宋(960-1279)以降になると、それは性理の学(宇宙の理(ことわり)から人間や物質の存在原理を追求するもの)と化し、政治とはますます縁遠くなって今日に至っている。(p51)

性理の学とは朱子学のことであるが、朱子学の説くものは孔子が説く「仁」とは程遠いものだった。

大隈重信岡田英弘の「儒教観」は同じ

岡田英弘氏は有名な東洋史家であり、特にモンゴル史で有名だ。中国に対しては批判的である。

さて、岡田氏の儒教観を見ていこう。

儒教という言葉をどう定義するかにもよるが、宗教としての儒教は、2世紀末の後漢時代に事実上滅びている。本来の儒教は、先祖を祀ることを重んじ、その儀礼をいちいち定めた信仰であった。いわば葬式専門の学はだったらしく、葬式や副葬の儀礼についてひどくうるさい。墨家の文献に『非儒篇』というおがあり、その中に当時の儒家について書かれている部分があるが、それによると、儒家というのは人が死ぬとやって来て、屋根に上がってホイホイと魂を呼んだり、鼠の穴をほじくって出てこいと叫んだりするので、バカバカしくてしょうがないとある。どうやらこれが儒教の本来の姿、つまり一般民衆の生活に根ざした姿であったようだ。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)/p179-180

上で語られているのは「原儒」と呼ばれる孔子以前の儒教で、このころは職能的シャーマンだった。*1

上の本で岡田氏の主教としての儒教の説明は以上で全部だ。この本は宗教を説明する本ではないので紙幅の関係もあるが、孔子の説く「仁」の説明が上の説明よりも些末なことだと岡田氏は考えていると読める。

さて、岡田氏によれば、「宗教としての儒教」は後漢の滅亡をもって滅んだ。

しかし「宗教ではない儒教」は存在している、とする。それはどういう意味か?キーワードは「科挙」。

科挙の試験の目的は、これまでに何度も説明してきたように、公用通信文や公文書に用いられる漢文を、古典に基づいて正確に筆記できるか―科挙が求めているのは、ひたすら文章作成能力であった。そして、その文章作成において、模範文例集として採用されたのが儒教の経典(いわゆる四書五経)とその伝統的な注釈であった。そんなわけだから科挙儒教の経典が採用されたからといって、受験生も試験管も儒教の教えを信じているわけではない。あくまでも、四書五経は彼らにとって漢文作成のためのツールなのである。

しかし、何事においても建前と本音がある。本音では四書五経はツールであっても、建前としての科挙の受験者は儒教徒になることが求められた。科挙の試験を受ける者はみな孔子廟に行く習わしがあり、形式的ではあるが、そこで孔子様に弟子入りするという手続きを取ることになっていた。儒教は信仰の対象としてではなく、科挙の試験の出題範囲としてのみ生き残ったわけである。

出典:岡田氏/p181

ここで重要なのは、漢人・漢族と言っても彼らの言語は多様で方言というよりも別の言語と言ったほうがいいほど離れている場合もある。

これらの人々は実は話し言葉ではなく漢字で繋がっている。春秋戦国時代までは同じ意味の漢字でも様々な形の物があったが、秦の始皇帝焚書をして漢字を統一したおかげで、この漢字によって大陸の人々は意思疎通できるようになった。

しかし昔は文法というものが無いのでどうしたかというと、四書五経に頼った。つまり儒家に頼った。

上で書いたように、儒家は『詩経』『書経』を大事にして暗記するほど読み込んでいた。隋の時代には他にも宗教があったが、漢字・漢文に秀でていることに関しては儒家が他を圧倒していた。そしてテキストも普及していて、且つ、整理もされている。こうして科挙のテキストとして採用されることになった。

さて、時代は下って宋の朱子学(性理の学)について。

この「新儒教」を確立したのが、朱子学の大成者・朱熹であった。宋代に誕生した朱子学儒学の一派であると言われているが、それは事実ではない。その証拠に、朱子学では孔子が一度も語ったことのない宇宙論、陰陽論が扱われている。これはもともと道教の思想である。

しかし、朱熹はなにもイカサマをやろうとしたわけではない。当時においては、儒・道・仏の三教を厳密に区別する習慣はなかった。むしろ、この三教を同時に取り扱うのが当たり前だったのであり、儒教を歪めたという意識は彼らにはなかったことであろう。

現代に至り、純粋化されたと考えられている儒教にしても、道教的な要素がひじょうに大きく残っている。例えば儒教の気の哲学には、理と気の二つの原理があるとされているが、これも道教が基本になっている。また、陰と陽が混じり合っていることを示す太極図も道教からきたものである。

このように、儒教の基本的な体系と信じられていることの多くが、実は道教を起源としているのである。

出典:岡田氏/p213

ここで書いていることも、大隈の主張と大差ない。

さて、多少の違いはあるが、基本的に大隈と岡田氏の儒教観は同じだ。もっと言えば「中国観」もかなり重なる部分がある。両者の本を読み比べると大変興味深い。



参考になる動画

【9月8日配信】歴史人物伝「●●もビックリの中国論?!大隈重信を語る」倉山満 宮脇淳子【チャンネルくらら】 - YouTube

youtubeのチャンネル「チャンネルくらら」*2の「皇帝たちの中国」シリーズ(リンク)(宮脇淳子*3が語り手)


*1:1205夜『儒教とは何か』加地伸行|松岡正剛の千夜千冊参照

*2:倉山満氏の番組

*3:岡田英弘氏曰く「最良の弟子であり最愛の妻」

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その2 同時代の支那の動きを踏まえて

まず、大隈と同時代の清国の歴史を振り返る。そのあとに大隈がそれを見てどのような中国観を持ったのかを見ていこう。

洋務運動と日清戦争

日清戦争の前は、清国はまだ「眠れる獅子」と恐れられていた。ヨーロッパ近代文明の科学技術を受け入れて国家増強を図った(洋務運動、1860年代前半 - 90年代前半)。中でも海軍を建設しドイツから購入した鉄甲戦艦「定遠」および「鎮遠」は日本に脅威を抱かせた。日本は甲申事変の失敗して清国に朝鮮の権益を奪われ、清国はいよいよ傲慢になっていた。

この傲慢さは日清戦争(1894-95)の敗北により潰えた。「眠れる獅子」がただのハッタリでしかなかったことが世界に暴露され、いよいよ列強国の大陸への蚕食が始まった。

戊戌の変法(1898年)

日清戦争後、支那人は日本を恨むどころか日本に学ぼうという機運が生じて多くの留学生が日本に来た。

光緒帝も日本に学ぼうとした一人で、日本に亡命していた康有為を抜擢して政治改革に乗り出した。この改革は洋務運動のような表面的な欧米の科学技術の導入とは違い、日本に学んで政治制度そのものを近代化しようとしたものだった。

しかし、西太后が光緒帝を幽閉して実権を奪った結果、この改革は失敗に終わった。そのようなわけで、百日維新とも呼ばれる。

この反動で、日本排斥の声が盛んになった。

義和団の乱(1900年)

戊戌の変法が失敗した後、すぐに義和団の乱が起こる。この乱の鎮圧後に列強諸国が北京に入ったが、日本軍が連合軍の中でも一番規律が厳粛だったので、北京の警察権はことごとく日本に託された。

この結果、支那人は再び日本に学ぼうという機運が生じ、多くの書生が来日して軍事・経済・政治などの書物を持って帰った。

さらには西太后までがこの流れに乗って彼女が潰した戊戌の変法の焼きまわしの改革を始めた(光緒新政 1901年)。しかし西太后がこの乱に乗じて列強諸国に宣戦布告したことが内外からの信頼が失墜し、清国は滅亡へと向かった。

日露戦争(1904-95年)の後

世界の予想に反して日露戦争は日本が勝利した。

これによってまたもや支那では日本を信頼する熱が生まれた。

日露戦争の勝利によって]支那は急に、また日本を信頼するようになり、日本から学ぶこととなった。[中略] かれこれ支那の学生は2、3万人も来たであろう。

日本からも、多くの人が支那に雇われていく。支那は、中央も地方も、盛んに日本人を招聘し、顧問といえば、ことごとく日本人という観があった。その力によって支那で大革新を行おうとしたのである。[中略]

しかし、彼らは、ただ模倣に急いだため、その意までに十分に徹底していなかった。それで、外国人などとの交渉のときにも、疑義を生じて解説に苦しむ場合があると、日本の公使館まで説明を求めにきた。滑稽な話ではあるが、実際に彼らは、その義(いみ)に通じることができていないにもかかわらず、そのまま日本の法令を用いたのだった。

出典:大隈氏/p25-26

日本も不平等条約撤廃のために、急ごしらえのヨーロッパ法制をつくって、その中身は日本の実情と合わないものも少なくなかったという。

日本の場合はそれから時間をかけて実情に合わせていったが、中国大陸はその余裕はなかった。日露戦争の直後に清国は崩壊し、軍閥割拠の戦乱の世になっていった。

同時代の支那の動きを踏まえて

同時代の支那の動きを踏まえて大隈は支那について何を思ったか。

苦痛がされば日本を排斥し、苦痛が来れば日本を信頼する。いったい、どういった理由からなのか。そのあいだの心理状態はたいへん怪しいもので、想像もできないほどに変態(病的な状態)が多い。

人は経験を尊ぶ。それによって、どんなときに苦痛が来て、どんなときに苦痛が去るかを知らなければならず、したがって、その不利となる態度や精神を改めなくてはならないから、たんに功利的説明を用いたとしても、すぐにわかるはずであるのに、これがわからないのは、いったい、どういうわけなのか。

出典:大隈氏/p22-23

上に対する疑問に答えるとすれば、いくつか案がある。

その1福澤諭吉が『世界国尽(くにづくし)』で書いた、支那には「本当に国のためを思う者が」いないというのが、当時の日本との大きな違いと言えるだろう(福澤諭吉の『脱亜論』参照)。

中国が大きすぎて個々人が国のことを考えられなかったということが考えられるが、私の考えでは逆に、「本当に国のためを思う者が」大勢いた幕末維新の方が特異だと思う。日本は他地域と違ってほぼ一国一民族だったからだろう。

こう考えれば、なぜ現在の中国政府がウイグルなどを強制的に漢人化しようとしていることが分かる。

その2。『中国人と日本人』*1によれば、中国の特性の一つに「5分間の熱情」というものがある、という。言い換えれば健忘症だ。

上の本でいくつか例を挙げているが、まず一つ挙げる。

世界史にも出てくる「対華二十一カ条の要求」という条約が1915年5月7日に署名された。中国ではこの日を「国恥記念日」として、中国人は毎年この日に記念活動をすると心から誓った。しかし、中国人はこれをすっかり忘れてしまう。

中国思想史における先駆者的存在だった梁啓超が、「国恥記念日」10周年にあたる1925年5月7日に「10回目の『5・7』」という文章を書いて、中国人の健忘症ぶりを批判するとともに、理性に欠けて感情的で衝動的な中国人の抗議活動のありかたを嘆いています。

皆を怒らせるだろうが敢えて言う。"国恥記念" というこの言葉は、"義和団" 式の愛国心に基づいたものに過ぎぬ!義和団式の愛国心が良いか悪いかはここでは言わない。だがその源になっているのは "5分間の熱情" であって、この種の非理性的な衝動が持続性を有するなどとは、私は絶対に信じないのだ。(梁啓超、前掲)

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p171、林思雲の筆

怒るときも礼賛するときも "5分間の熱情" だというわけだ。熱しやすく冷めやすい。

その3反日ナショナリズム

義和団の乱の時に「扶清滅洋」と「掃清滅洋」というスローガンが叫ばれた。どちらにしろ「中国から列強勢力を追い出せ!」というものだが、これがナショナリズムの源流だという人もいる。さらに、日露戦争以降 大陸の権益が日本に集中し始めると、排外主義も反日へと集中していく。

これに加えて中華思想(劣等感の裏返し)から成る日本への蔑視が反日ナショナリズムを成立させた。

ここで中国のナショナリズムにおける宮脇淳子氏の見解を紹介しておこう。

のちに毛沢東義和団の反乱を「ナショナリズム」と捉えました。確かに「外国人出て行け」という排外運動なので、ナショナリズムだとも言えますが、ナショナリズム自体を定義し直した方がいいでしょう。「ネイション」は国のことですが、古田博司さんが言うように、中国や韓国に愛国ナショナリズムがあるかというと、あるのは反日ナショナリズムだけです。国を大事にするナショナリズムがあるならば、反日だけでなく、同国人で助け合うとか、もう少しやることがあるのではないかということです。したがって、中国のナショナリズムは、正確にいうとエスノセントリズム(自民族中心主義)と言い直したほうがいいでしょう。

出典:宮脇淳子, 岡田英弘/日本人が知らない満洲国の真実 封印された歴史と日本の貢献 - Google ブックス

  *   *   *

また、大隈は支那人を評して忘恩と背信の行為の多いことは「ほとんどその遺伝性によるものである」とまで断言している(p9)。

当時の日本人が請われるがままに善意であれこれ教えても、支那人はその恩をすぐに忘れて日本排斥に向かうことに憤慨している。



*1:金谷譲、林思雲/日中出版/2005/p168、林思雲の筆