歴史の世界

前漢・宣帝の治世

霍氏一族を族誅した後、宣帝の親政が始まる。その政治は霍光政権の恤民政策の継承と発展であった。匈奴が分裂したこともあって総じて平和な時代だった。約5200字。

内政――循吏と酷吏

循吏の登場

何よりも大事なことは、人民の生活を安定させることであり、そのためには、地方官に恤民政策(人民をあわれむ政策)をとらせることであった。それまでの郡太守の職掌は、担当地域の治安を維持し、戸口数を正確に査定して租税・人頭税・徭役を徴収し、郡兵を監督・訓練することであった。いまやそれに加えて、民生を維持し、農業を奨励することがその要務となった。こうして出現するのがいわゆる循吏である。

循吏とは、酷吏に対応する言葉で、後者が法術第一主義の官吏であるとすれば、前者は人民愛撫を主義とする官吏である。そして、武帝時代を代表する官吏が酷吏であるとすれば、宣帝時代を代表とする官吏は循吏であった。[中略]

霍光の政策は恤民政策を第一としていたのであるから、その点では宣帝と共通する。相違するところは、宣帝の親政開始とともに、循吏として名声のある地方官を、このように中央の高官に登用した点であり、そこに、循吏がにわかに注目されることとなった理由がある。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p333-334

  • 最後の段の「このように」は中略した部分の書いてあることだが、地方行政で評判の良かった王成や黄覇が宣帝によって召し出されたことを指す。

宣帝は地方の循吏を重用したり爵位を授けたりすることによって、他の地方の官吏に対してどのように行動すべきかを示し、官吏はこれに倣ったということだ。

酷吏の必要性

宣帝は循吏だけではなく酷吏も活用した。

武帝代に酷吏に抑え込まれ続けていた地方の豪族たちが強力になりつつあり、これらの悪事を抑制するためには酷吏を用いねばならなかった。

宣帝期にも武帝期と同じく酷吏が活躍した。例えば、大姓〔※豪族のこと〕が威勢を張る琢(たく)県(北京市の南)では郡吏以下皆「たとい郡太守に逆らうことがあっても、大姓にはさからえない」というありさまであった。宣帝はそこに酷吏の厳延年を送り込み、大姓の悪事を暴き数十人を誅殺した。厳延年は酷吏であったが、豪強〔※豪族のこと〕を弾圧するだけでなく、貧者を扶助することもしている。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p97/上記は鷹取祐司の筆

以上のように循吏と酷吏をうまく使い分けたところに宣帝の内政の特徴がある。

対外政策

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出典:出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p393

西域都護設置

匈奴の弱体化に伴い、漢帝国は西域で攻勢に出た。

前67年、漢の勢力下にある車師が漢に背いて匈奴と結んだ。

宣帝の地節2年(紀元前68年)、漢は鄭吉を侍郎とし、渠黎に派遣して刑を免除した罪人に耕作させて兵糧を集め、車師国を攻めようとした。収穫が終わると鄭吉は周辺の国々から兵を徴発し、自分が率いる屯田兵1500人と共に車師を攻撃した。車師は匈奴に援軍を要請したが、匈奴の援軍も鄭吉が迎撃に出ると前進せず、車師王は烏孫に逃亡した。漢は鄭吉を衛司馬とし、「護鄯善以西南道」(西域南道の監督役)とした。

神爵年間に匈奴が混乱すると、匈奴の日逐王(単于の従兄)が漢への降伏を鄭吉へ打診した。鄭吉は渠黎、亀茲の兵を徴発して日逐王と彼が率いてきた12,000人を迎え、途中で離反した者は斬刑に処して長安まで連行した(神爵2年(紀元前60年))。

日逐王の降伏により、鄭吉は「護車師以西北道」ともなり、以前の職と合わせて西域の南北両道の監督役となったことで、「西域都護」(「都」は大きい、全て、という意味)となった。また、以前の功績と併せて安遠侯に封じられた(神爵3年(紀元前59年))。また日逐王はこのとき帰徳侯に封じられた。

鄭吉は都護の幕府を西域の中心に置き、烏塁城を治所として西域諸国の鎮撫に携わった。(参考文献:『漢書』巻17景武昭宣元成功臣侯表、巻70鄭吉伝、巻96西域伝)

出典:鄭吉<wikipedia

都護の幕府(都護府)の烏塁城は亀茲(きじ)の東にあり*1、まさに西域の中央にあった。

呼韓邪単于の投降

西域地方が漢の勢力下に確保されると、匈奴の勢力はますます弱体化し、ついに内部分裂を惹起した。それは神爵二年(前60)の虚閭権渠(きょろけんきょ)単于の没後のことであり、漢の西域都護設置と年代が合致する。その分裂状態は、一時は五人の単于が並立するというありさまであったが、そのうちでは虚閭権渠単于の子呼韓邪(こかんや)単于が有力で、一時は他の単于を制圧してほぼ匈奴の統一に成功した。ところが、その兄の左賢王が自立して郅支(しつし)単于がとなるに及んで、ふたたび匈奴は両勢力に別れ、しかも呼韓邪単于の勢力は郅支単于に劣ることとなった。

その結果、呼韓邪単于は漢に投降してその救援を求めることになり、甘露元年(前53)、その子の右賢王銖婁渠堂(しゅるきょどう)を漢に派遣して入侍(にゅうじ)させた。入侍とは宮中にはいって天子に近侍することであるが、前述したように、外国の王子が入侍するということは実質的には人質として派遣されたことを意味する。

[前52、]呼韓邪単于は自ら五原の要塞を訪ね、甘露3年(紀元前51年)正月に入朝することを願い出た。呼韓邪単于が入朝すると、漢の宣帝は甘泉宮で呼韓邪単于に会い、単于を諸侯王より上位に位置するものと決め、臣と称しても名を言わなくても良いこととし、中国の冠や衣服、黄金の璽などを賜り、兵と食料を出して呼韓邪単于を助けた。

郅支単于は呼韓邪単于が漢に入朝したことを知ると兵が弱くもう戻って来られないと踏み、右地(西方)を攻撃した。しかし烏孫は漢が呼韓邪単于を受け入れたことを知ると郅支単于を拒んだ。(参考文献:班固著『漢書』巻94匈奴伝)

出典:呼韓邪単于wikipedia

郅支単于の勢力は漢の軍により前36年(元帝の代)に攻め滅ぼされた。

羌族制圧

羌族は古代より中国西北部に住んでいる民族で、言語的にはチベット系(チベットビルマ語派)に分類される。

国史において羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つである。漢代になると、北の匈奴が強盛であったため、初めのうちは匈奴に附いていたものの、漢の武帝により匈奴が駆逐されると、代わって漢に附くようになり、漢の護羌校尉のもとで生活することとなる。しかし、羌族はたびたび漢に背いて叛乱を起こしたため、その都度漢によって討伐された。*2

神爵元年(紀元前61年)、光禄大夫義渠安国が不穏な行動をしていた先零羌の首領30人を召し出して殺したことから、降伏していた羌も怒り、反乱した。趙充国は70歳以上であったことから、宣帝は御史大夫丙吉を遣わし、趙充国に誰を将とすべきか訊かせた。趙充国は「私を超える者はいません」と答えた。宣帝は再度「羌の軍勢はどれほどか。誰を用いるべきか」と訊いたところ、趙充国は「百聞は一見に如かず。兵は遠く離れていては測りがたいものです。急ぎ金城まで向い、そこから方略を献上したいと思います。羌は天に逆らい滅亡も遠くありませんので、私にお任せください」と言い、宣帝はこれを笑って承諾した。

趙充国は持久戦の構えを取り、羌に対し罪ある者を討った者は赦免して褒美を与えると告げた。宣帝は趙充国の子の右曹中郎将趙卬に期門、羽林の騎兵を率いさせ、また刑徒や各郡の兵など合計6万を動員した。酒泉太守辛武賢が騎兵をもって迂回して後方を攻撃し補給を断つことを進言したが、趙充国は反対した。

宣帝は楽成侯許延寿を強弩将軍とし、辛武賢を破羌将軍とし、反対した趙充国を責めた。しかし趙充国はなおも反対し、屯田をすることを願い出た。朝廷の大臣たちも次第に趙充国に賛成する者が多くなり、宣帝は趙充国の献策を認める一方で許延寿、辛武賢及び趙卬に出撃を命じた。許延寿らは羌を破り功を挙げた。(参考文献:班固著『漢書』巻19下百官公卿表下、巻69趙充国伝)

出典:趙充国<wikipedia

  • 「百聞は一見に如かず」という言葉はここから出たらしい。

こうして漢は北方および西方において漢は諸勢力に対して圧倒的優位な立場を確保した。

宣帝の評価

これら内外政治における成果から、文武に功績があったとされ、班固の『漢書』宣帝紀において、前漢中興の祖という評価を受けている。

しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強化させる原因になり、後の元帝の代には宦官と外戚が連携して政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。

現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭(元帝)とは反りが合わず廃嫡も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。

(太字部分は故事成語になった部分)
「漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。」
(意味:漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。なぜお前は儒教だけが素晴らしいなどと言い、儒教が理想とする周の政治に戻しましょうなどと世迷い事を言うのか。そのうえ、俗な儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今は良くない」などと言い出し、現実を見ようとせず、政治が出来ない。そんな連中を登用せよとは何事か。お前のような奴が漢王朝をおかしくするのだ。)

しかし、結局、劉奭に後嗣(のちの成帝)が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。元帝はこの一喝の言葉通り、儒者を登用して王莽の専制を招き、前漢滅亡の端緒を開いたのである。

なお、別府大学非常勤講師の中川祐志は、論文(参考文献参照)において、後漢光武帝が宣帝同様に民間から即位し、法家政策を取って豪族の暴走を食い止めようとしたため、同じ出自で同じ政策を取っていた宣帝を高く評価し、中興の祖と持ち上げたことから、王家を復活させたわけでもない宣帝が史書において異常に高く評価されていることを指摘している。光武帝はわざわざ宣帝に「中興の祖」を意味する「中宗」の廟号を奉り、王宮に祀るほどであった。また、中川は、儒家が往々にして讖緯説に基いて皇帝退位を持ち出し、権力基盤を危うくする存在だったことから、宣帝は儒家を退けたともしている。

参考文献
・班固『漢書』宣帝紀
十八史略
・中川祐志論文『光武帝の宣帝観・補論』別府大学紀要ゆけむり史学 No.7 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=ys00705

出典:宣帝(漢)<wikipedia

霍光政権(前1世紀序盤)②」で眭弘が昭帝に対して禅譲を進言した事件を紹介したが、宣帝の時代にもこのような進言があったとのこと。この讖緯説は王莽の帝位簒奪において大きな役割を果たすことになる。

宣帝の評価だが、法と儒、言い換えれば、酷吏と循吏を使い分けて政治を動かせた人だった。

匈奴が弱体化したことも宣帝にとってラッキーなことだったが運も実力のうちと考えれば彼の評価は上がるだろう。特に儒教を含んだ中国の思想では「運も実力のうち」は真実だ(実際ところは武帝代の努力のおかげだが。一説によればこの頃寒冷化が進み北方に住む匈奴に大打撃を与えたという*3)。

*1:クチャ/亀茲<世界史の窓

*2:羌<wikipedia

*3:原宗子/環境から解く古代中国/大修館書店・あじあブックス/2009/p163(ただ寒冷化がいつから始まったのかは書いていない)