歴史の世界

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その5 中華思想

この記事では中華思想について書く。

中華思想

「その八 支那の自大心とその実際の勢力」という章の「支那の自大心」は中華思想つまり自国(民族)が中心で他は野蛮だという考え方。しかし支那の「実際の勢力」を見ると自大(うぬぼれ)に過ぎないと言っている。さらには中華思想が「自力で国勢を発展させることができない根本の弊竇(へいとう、穴となる欠陥)」だとする*1

支那は昔から自国を称して「中国」といっているが、それは、自国が文明の中心であって、他は全て蛮民であると信じる思想を内に持ったである。

しかも支那は、早くよりヨーロッパ全土よりも大きな領土を奄有(えんゆう、わがものにする)していたので、「支那をもって全世界」と心得て、これを繞(めぐ)る(とりまく)他の諸邦を「四海」と称していた。この海とは「晦(かい)」であって「ウミ」ではない。つまり四方の蒙昧(知識がなく道理に暗い)な民族という意味である(晦=暗)。詳しくいえば、東夷・南蛮・西戎北狄を称するもので、中国はそれらに包まれた中心の光である。

そして、その光をもって「晦(くら)き四方」をしだいに明るくするというのが理想であったが、このような例は西洋にもある。(p52-53)

しかしその実態はそんな威張れるものでもない、と主張する。

自国の実態

大隈の主張を要約すると、(倉山氏の解説より)「実態は単なる都市連邦。何度も周辺諸民族に滅ぼされている。」(p178)

支那上代の早くから封建制度である。おそらくは五帝三王(神話上の理想の君主と、夏・殷・周の三代の王)の時代に創められたであろうというが、事実を究めると、ただ協約の上にきわめて薄弱な連邦を成立させていただけであった。(p53)

周代までの邦とは、王は四方に赴き、その地域の君侯を集めて一緒に山で天を祀り、暦と律度量衡(規律と測量単位)を一致させる協約を結んだだけのものに過ぎなかった、と。

以上は文献に載っている話だが、岡田英弘氏は都市連邦(黄河文明)の誕生について仮説を立てている。

このことは、youtube動画「新番組「皇帝たちの中国 第1回 中国人はどこから来たのか」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら・6月5日配信】 - YouTube」で語られている。

簡単に言えば以下のようになる。

文明前夜の大陸では商売が盛んになり、商売相手の別の都市と互いに娘を嫁がせるなどして同盟関係を築く。この同盟関係の中心となったのが二里頭遺跡がある洛陽付近だった。ここが黄河文明の中心地となる。

時代が下ると漢字が起こり、国内のエリートがこれを使ってコミュニケーションをとる。そしてこのエリート階級を中国人(=漢人漢民族)ということにした、という。そして文字が読めない周囲の民族は野蛮人ということにした。

この仮説の注意すべき点は、もともと漢人という民族がいたのではなく、東夷・南蛮・西戎北狄の洛陽付近の集まりが漢人になったということだ。

さて、話がそれてしまった。

上のような都市連邦の状態は始皇帝により統一され、前後の漢に受け継がれたが、三国時代西晋の後、蛮族に侵入される。隋唐王朝漢人ではなく「北狄」だ。その後も、「何度も周辺諸民族に滅ぼされている」。

朝貢の実態

また倉山氏の解説より「「朝貢」などと威張るが、実態は貿易にすぎない。」

『春秋』には、「王者は夷狄(蛮族)を治めず」と説かれているが、これは、「中国諸侯の居住地の外部を帝王は統治しない」という意味で、いわば「来る者は拒まず、往く者は追わず」という主義によっている。

「来る者は拒まず」とは、周囲の夷狄の国より、そのときの帝王の正朔(せいさく)、つまり帝王が定める暦日を用いて文書をつくり、自国の主要な物産を宝物とみなして、みずから齎してくるか、あるいは使者に献じさせるかすれば、帝王がその宝物の数や価値を計り、それ以上の価値のある物品を賜ることを通例としていた。

これは実は、今日でいうところの貿易なのである。たいへん遠方の国からこのような宝物を持ち来たるということは、帝王の徳が絶遠の境(辺境)にまで及んだということだろう。彼らはそうみなして喜び、また誇りにしたのであった。

そしてまた、この折に、今度も何年かに一度、あるいは一年かに幾度か来貢(朝貢しにくる)すべきことを約束して帰るのである。

実に簡単なものながら、これも一種の国際条約であるのだが、とはいえ、その約のとおり来ない国があったとしても、べつにこれを罰するでもなく、そのまま放っておいた。これが「往く者は追わず」という意である。

いかに、その実を問うことなく、ただその名のみを愛したかであろう。少しでも土地を有するものが来貢すれば、すべてをその会盟のなかに入れ、賓客として接遇した(重要な客人としてもてなした)。(p54-55)

上は周代以前の話だが、朝貢の構造は秦以降も同じようなものだった。

秦以降の朝貢については、宮脇淳子氏が詳しく説明してくれている動画がある。

【6月19日配信】皇帝たちの中国 第3回「朝貢の真実」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

さて、「朝貢は貿易に過ぎない」というのは中国の外側から見た話。

では帝王(王または皇帝)は何のために朝貢を行ったのか?本当に「その実を問うことなく、ただその名のみを愛した」のか?

上の文章の一部を再び貼り付ける。

たいへん遠方の国からこのような宝物を持ち来たるということは、帝王の徳が絶遠の境(辺境)にまで及んだということだろう。彼らはそうみなして喜び、また誇りにしたのであった。

外国人が帝王に貢ぎ物を差し出すの場所は朝廷で、その場所には国内の家来たちが大勢 集まっている。

帝王が、外国人が貢いでいる姿を家来たちに見せる理由は「帝王の徳が絶遠の境(辺境)にまで及んだ」と思わせるためである。ただしこの場合の「徳」とは「顔が利く」という意味だ。

「帝王はたいへん遠くまで顔が利く」→「帝王は国外にもたいへん広いネットワークを持っている」→「帝王は何でも手に入れることができる」→「帝王はすごい」となるわけだ。

そういうわけで、帝王にとって朝貢は内政問題なのだ。だから外国人には貢ぎ物よりも価値のあるものを渡す。(詳しくは上の動画参照)

ここらへんは、普通の中国人どうしの人間関係でも共通するものがある。つまり、顔が広い、ネットワークが広い人の周りには人が集まりやすい。それは、彼に頼れば自分が欲しいものが手に入るかもしれない、困ったことがあったら顔が広い彼に頼めばなんとかしてくれるかもしれない、と思うからだ。

中華思想が引き起こした悲劇

1881年、清国とロシアの間でイリ条約が結ばれた。

清国の支配下にあった東トルキスタンで反乱が起き、これに乗じてロシアがイリ地方を占領した。この事態に両国の間で交渉を行うことになった。詳細は省くが、結局 曽紀沢という外交官のおかげもあって、イリ地方の一部が返還された。

この交渉の場で曽紀沢は相手に向かってこう言った。「支那は眠れる獅子である。ひとたび覚めればたいへんだ」(p13)。

曽紀沢が支那を眠れる獅子といったことは、けっして一場(その場かぎり)の大言ではなく、みずからもそのように信じ、また、ややもすれば、イギリス、フランス、ロシアなどもそのように思い込んでいたかもしれない。(p14)

清国はアヘン戦争などの反省から軍事増強を図り、整えつつあった(洋務運動)。日清戦争の前までは列強はまだ清国の力量を図りかねていたようだ。

しかし中華思想が軍事増強の努力を蝕んだ。日本を侮りきっていた結果、日清戦争で惨敗した。その後 列強諸国による「中国分割」が始まった。

日清戦争の]結果、支那の真相が世界に暴露されてしまったのである。暴露されてみると、考えていたような眠れる獅子などではなく、息を引きとって四肢がすでに冷たくなった老獅(老いた獅子)であった。(p19)

孫子に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」とあるが、中華思想のせいで自他の分析を鈍らせた結果、大敗を招いた。

おまけ:日本にもあった中華思想

日本にも中華思想というものがあった。wikipediaの「中華思想」には「日本」という項がある。日本の中華思想漢人王朝の「明(みん)」が滅亡した直後に産まれた。

明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸時代の儒学者山鹿素行は著書『中朝事実』の中で「日本ではすでに神道という聖教が広まっており、もし聖人の道が行われていることが中華であることの理由ならば日本こそが中華である」という主張をした。

出典:中華思想 - Wikipedia(日本の項)

日本版中華思想は幕末になると尊王攘夷尊皇攘夷)に変わり、最終的に明治政府をつくる原動力となった。

しかし尊王攘夷は危ない思想でもあった。「攘夷」とは蛮族(外国人の別称)は打ち払え(斬ってしまえ)というものだから当然だ。これが全国の下級武士に流行して外国人や開国派の日本人を襲うテロ集団のイデオロギーになった。

一番危なかったのが長州藩で、列強4国に向かって戦争を仕掛けた(四国戦争=下関戦争)。彼らにとって日本が植民地として魅力的な地域だったら、下関は日本第一号の植民地になっていただろう。

最終的に攘夷志士たちは現実主義者の大久保利通らの元に戦い、結果、明治政府ができたのだが、この経緯を見ると奇跡としか思えない。

ただ一つ言えるのは、日本の中華思想の核は皇室という具体的なものだったので、皇室を守るためには攘夷志士は攘夷を捨てて外国人を夷狄と蔑視することを止めなければならなかった。



*1:ただし大隈は「中華思想」という語は使っていない