歴史の世界

前漢・高祖劉邦⑤:休民政策/黄老思想

「休民政策」とは便宜的な言葉で、用語辞典に載っているようなものではない。字のごとく「民を休める」ための政策のことだ。これと黄老思想の関係は後述する。約2000字

休民政策

漢五(前二〇二)年二月に皇帝となったあと、高祖は洛陽に滞在していた。そこで五月に詔(しょう)を発布したが、この詔は兵士や民に対して、戦乱の終息を告げるものであった。その要点は、①諸侯に属していて関中に定住するものには、一二年の税役を免除し、東方に変えるものはその半分とすること。②戦乱による流民は、郷里の県に帰らせて、もとの爵と田宅に復すること。③人の奴婢となった者は、開放して庶民とすることなど、である。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史/講談社選書メチエ/2006年/p210

高祖は即位してまもなく、長安に都を置くことを決定するより前に上のような詔を出している。詔とは皇帝から命令のこと。

同じような文章をもう一つ引用。

秦末の動乱は、人びとの生活に影響をあたえざるを得なかった。[中略]

この事情から、高祖劉邦の最初の施策は、ともかくも人びとを休養させることに絞られた。

一般の兵士たちには、功績に応じて徭役[労役]免除などの恩典を与えたり、爵位(後述)を一級上げたりして、それぞれ故郷に帰らせ、農事につかせた。戦乱の中で奴隷になったものは、これを救い、戦争のどさくさで大儲けをした証人たちは、これを弾圧した。また、秦が滅びる原因となった法令は、これを大幅に削減し、蕭何に命じてあらためて「九章の律」を制定させた。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p295(引用部分は尾形氏の筆)

前回書いたが九章律は法三章の宣言に基づいて民を休めるために新たに作り変えられた法典だ。

爵位(後述)」はp298-299に書いてある。要は「民間の秩序」を形成させるためのからくりなのだが、長くなるので詳しくは原著参照。*1

休民政策は武帝の時代の前半まで続いた。高祖は匈奴に敗れて屈辱的な和平を結んだ後も断続的に交戦したが全面戦争は避けた(これも武帝が攻勢に出るまで)。

黄老思想

始皇帝が『韓非子』に惚れ込んだこと、法家の李斯を使ったことから、統一秦は法家思想を採用したといえる。では前漢は何か?前漢すべてではないが初期の頃は黄老思想だった。

休民政策は武帝の時代に終わったと書いたが、前漢を支える思想も武帝の時代に黄老思想から儒教に代わった。休民政策と黄老思想は一体だった。

黄老思想

中国の道家(どうか)思想の一派。神話や伝説上の帝王黄帝(こうてい)と、道家思想の開祖とされる老子(ろうし)とを結び付けた名称である。漢の初め(前2世紀前半)に政術思想として為政者の間で流行した。宰相の曹参(そうしん)が無為(むい)清静の政術として斉(せい)の国から伝え、秦(しん)の厳しい法治に苦しんでいた人心を解放するものとして歓迎された。ことさらなことをせず、基本的な法にゆだねて単純簡素な政治を行うことを主にし、『老子』や『黄帝書』を尊重した。ほぼ50年にわたって漢の統治の指導理念となっていたが、武帝(在位前141~前87)の儒教尊重による積極的な政治思想によって衰微した。

1973年に馬王堆(まおうたい)で発見された古文書に、『老子』と続いた「経法」などという4編があり、黄老関係の資料とされている。黄老の起源ははっきりせず、『史記』によると、戦国中期の申不害(しんふがい)や末期の韓非(かんぴ)などの法家(ほうか)思想もそれに基づいたものとされているが、おそらく戦国末期の斉の国でおこったとみるのが正しいであろう。武帝ののちでは、もはや政術としての性格を失ったが、後漢(ごかん)では「黄老浮図(ふと)」とよばれ、浮図すなわち仏陀(ぶっだ)と並ぶ信仰の対象として祭祀(さいし)が行われ、後の道教信仰に連なる様相をみせている。[金谷 治]

出典:コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

曹参のエピソードが「曹参<wikipedia」に載っているので参照。一部だけ紹介。

蕭何が死んで代わって相国になった曹参が恵帝に職務怠慢で責められた時にこう言った。「高帝は蕭何とともに天下を平定し法令はすでに明白です。我々はそれを遵守すればよいのです」と。恵帝は納得して、休息するようにといった。



*1:もしくは西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p140-156(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)参照