歴史の世界

中国人について⑥ 人間関係 その5 面子について

中国人論の重要な要素の一つ「面子」について書いていなかったので、ここで書いておこう。

[(面子は)中国精神の綱領であるから、これをつかみさえすれば、ちょうど24年前に弁髪を引っこぬいたのと同じように、身体全体も一緒にくっついて来る」と辛亥革命から24年たった1934年に魯迅は言いました(「面子について」『且介亭雑文』所収)。

また、キッシンジャー元・米国務長官いわく、自身の経験から言えるのは「中国人とつきあうときは、面子を立ててやらねばならない」(『キッシンジャー秘録』)ことだそうです。

中国人の行動原則を理解しようとするなら、「面子」の理解は不可欠です。しかし「面子」は、非常に特殊な中国独特の概念で、外国人の理解を非常に困難にしています。

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p105-106、林思雲の筆

中国人が如何に面子を重要視しているかということについてはネット検索をすれば たくさん出てくる。その中から幾つかを参考にして「面子」とは何かに迫っていこう。

中国人と日本人―ホンネの対話

中国人と日本人―ホンネの対話

「面子」に関する2つの場面

まず、2つの代表的な「面子」の場面を書いていこう。

一つは食事会の場面、もう一つは上司に叱られるという場面だ。

食事会の企画者が全額払うのが基本。割り勘は論外

中国人から見ると、日本の割り勘や、弁当1個の会食などはすべて「ケチ」な振る舞いにあたる。中国人の会食は必ずといっていいほど数多くの料理を注文し、いずれも山盛りで食べきれず残される。また、基本的には誰か一人が全員分の費用を支払う。そして次は別の人が負担する。[中略]

「日本でもケチはあまり良くは思われないけれど、中国では『ケチと思われたら終わり』と言われるぐらいダメだと言っていて、文化の違いには気を付けたいと思った。」

中国では人間を評価するにはよく「気前がいい」とか「ケチ」だとか言う。「気前がいい」は非常にランクの高い評価となる。逆に、「ケチ」というのは、まるで「最低」同然の軽蔑である。親戚、友人、同僚、近所といったところではもし「ケチ」というレッテルを貼られ、悪い評判が定着したら、「おしまいだ」といっても過言ではないほど、頭が上がらないし、人間関係はぎくしゃくし、なにもかもつまずく恐れすらある。

ケチへのあまりにも強い恐怖感と・・・ ・・・「面子」とは実にコインの両面である。「ケチ」と思われたくないため、横並び意識が強く働き、交際費の額をどんどんエスカレートさせていく。「ケチ」の反対は「面子」で、ケチは面子を潰す最大の要因の一つである。だから、面子を立てるためには、ケチなことを絶対してはならない。ケチと面子は水と火の関係でなかなか両立できないことだ。

(執筆者:王文亮 金城学院大学教授編集担当:サーチナ・メディア事業部)

出典:ここが違う日本と中国(4)―「気前いい」VS「ケチ」

中国人を人前で叱ってはいけない

中国人は面子や体面をものすごく重んじる人たちです。日本語でも「面子をつぶされた」という言葉がありますが、「面子をつぶされる」ことの意味合いは、おそらく中国人と日本人とでは比較にならないほど違うと思います。

たとえば、日本では職場で上司がみんなの前で部下を叱り飛ばすことなど、それほど珍しい光景ではありません。叱られた部下も多少へこむかも知れませんが、「面子をつぶされた云々」ということにはならないでしょう。

しかし、中国では、上司がみんなの前で部下を叱り飛ばしたりしたら、たいへんなことになります。叱られた部下は「面子をつぶされた」として会社を辞めるか、あるいは叱り飛ばした上司をものすごく恨むでしょう。

在中日本企業の駐在員が赴任時によく注意されることは「中国人の部下を叱るときは、個室に呼んで、こっそりと叱れ」ということです。中国人はみんなの前で叱られて恥をかかされることはプライドが許しませんし、みんなの前で叱られている姿を見られてしまった社員は「仕事の出来ないヤツ」というレッテルを貼られてしまいます。

出典:連載コラム「行けばわかるさ」14/毎日留学ナビ 丹勇貴

ただし、「個室に呼ぶ=叱ること」ということが職場の常識になってしまったら、個室に呼んで叱っても中国人は「面子をつぶされた」と感じてしまう。上司は彼らの面子を潰さないために幾つかのテクニックを用意しておかなければならないそうだ。

2013年に広島県のある会社で、中国人実習生が経営者を含めた社員8人が殺傷した事件があるのだが、これは面子にかんけいしているという。(叱責された中国人研修生が8人殺傷・・・中国人を指導する際のタブーと外国人研修生制度 - NAVER まとめ*1

余談になるかもしれないが、池内恵氏が以下のようにツイートしている。

面子とは「他人の自分に対する評価」だ

さて、面子に話を戻そう。

上の2つの場面で共通していることは、中国人が「他人の自分に対する評価」をひどく重要視していることだ。

中国人が日本人と比べて格段に人間関係を重要視しているので、他人からの評価がそれだけ重要になる。

では、なぜ必要なのだろう。

以下にその回答を紹介しよう。

「面子」は本来、平等な人間関係に「上・下」の差をつけ、さらにその「優位」を利用して、さまざまな便宜が図られるようになった。そのため中国には伝統的に「人間は平等」という概念は希薄で、最近、その意識が芽生え始めたが、まだまだの観があり、むしろ中国人の多くが自分と周囲の人間に「高・低」「上・下」の差をつけようとする。そしてその差をつける最大の基準が「面子」にほかならない。しかも中国人は「面子」を利用して、常に自分に利あるように図ろうとする。
たとえて言えば、中国人にとって「面子」は銀行貯金のようなもので、自分の努力次第で貯金額は増減し、蓄えたままその金額を眺めて自己満足もできるし、必要な時、取り出して使うこともできる。

中国人は交際する相手の一人一人の面子のレベルを互いによく把握しているし、初対面の人には相手の面子レベルを探りながら自分の取るべき態度を決めていく。こうしたつき合い方はごく当たり前のことで、中国人は「面子ゲーム」の中で生きていると言っても過言ではない。
それでは「面子」のレベル、「面子」の多寡、高低を決める要素は何であろうか。
「面子」を決める要素は多岐にわた[るが、]・・・ ・・・庶民が「面子」を測ったり、「面子」を作るのにもっともよく使う要素は、字義とおりで「顔が広い」そのことである。つまり交友範囲の広さ、知人の多寡である。

こうして中国人には、ある行動パターンが生まれることになった。他人との交際では可能な限り「関係」を近づかせようとし、「仲間に取り込む」意識を非常に強く持つのである。「他人」は「知人」へ、「知人」は「親戚・親戚に近い友人」へというようにである。

出典:中国人の思考方法 ―― 恥と面子 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」趙慶春

顔が広い人に対して周りの人は「あの人はたくさんのコネを持っている」→「彼に頼めば彼が持っているコネを使って私の願い事が叶うかもしれない」→「彼と親交を深めたい」と思うようになる。

逆に上司に叱られてばかりいる人に対しては「あいつは仕事ができないヤツだ」→「あいつと付き合ってもしかたないのではないか」と思うようになるかもしれない。

さらに面子を潰された人は面子を潰した人を(それが正当な理由が有るか否かにかかわらず)ひどく恨むまたは憎むようになる。だから「面子を潰さない」ことが中国人社会のマナーの一つになっている(『中国人と日本人』p118)

上の引用にあるように、仲間内の序列で上位に立てば、下位の仲間を利用することができる。下位の人も上位を利用するのだが、利用されることのほうが多いということなのだろう。

こうなれば、面子がどれほど重要なのかが腑に落ちる気がする。

日中の比較:「顔」と「恥」と「面子」

社会に生きる以上、人目を気にするのは人間の定めである。問題は、どのように気にするか、である。日本語には「顔をつぶす」「顔を立てる」「顔色をうかがう」など、顔に関する豊富な表現がある。面子を重んじる中国には、「面子にこだわる」の意だけで「愛面子」「要面子」「講面子」があり、「面子を与える」は「看面子」「給面子」「留面子」、面子をつぶす場合は「駁面子」「掃面子」「裁面子」「傷面子」などと枚挙にいとまがない。

日本人の「顔」は恥の文化とかかわるので、露骨に「見て」も、「見せる」のもいけない。目立たないように顔を立てなければならない。露骨な振る舞いは空気が読めない行為として排斥される。中国人のメンツはむしろ、だれがだれのメンツを立てたのか、みんなにわかるように表現しなければ意味がない。状況を踏まえて人のメンツを立てられる人物には、非常に高い評価が与えられる。その逆もしかりで、メンツをつぶす行為には忘れがたい恨みや憎しみがついて回る。いい加減な空気は入り込む隙間を与えられていない。

出典:八方美人と八面玲瓏の違いは顔とメンツの違い 加藤隆則 – アゴラ

上で言われる「恥の文化」は周囲の目を気にすることは共通しているが、「世間様に白い目で見られるようなことをすることは恥である」という道徳・倫理観だ((この考え方はルース・ベネディクト菊と刀』の「恥の文化」とは違うらしい。詳しくは自民党の偉い先生も勘違いしている「恥の文化」参照)。

中国の面子とは かなり違うことに気づくだろう。

結局のところ、中国人には「対等」とか「平等」という考えは無いか希薄で、「仲間内でも支配するかされるか」、「人を使うか人に使われるか」の世界なので、面子によるランクづけは重要だということだ。



『中国人と日本人』によれば、中国人は親戚の誰かが出世したり財を成したりすると、その親戚一同は彼を誇りに思い、自分も「面子が立った」と思うらしい(p108-109)。