歴史の世界

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その1 大隈が本を出す原因となった「対華二十一カ条の要求」

大隈重信が『日支民族性論』という中国論本を出している。この記事ではまず、大隈がなぜ本を出版する気になったのかを書いていこう。

この記事では、大隈が本を出す原因となった「対華二十一カ条の要求」について書く。

今回は倉山満監修「大隈重信、中国人を大いに論ず 現代語訳『日支民族性論』 」*1に頼って書いていく。

「対華二十一カ条の要求」

上の現代語訳の監修をして倉山満氏はこの本に対して「現代人が読めば、「ネトウヨ」と断じるに違いない中身である」と書いている。

では、なぜ大隈はこのような本を世に問わねばならなかったのか。当時、大隈内閣は、いわゆる「対華二十一カ条の要求」で内外世論の批判にさらされていた。それに対し、大隈個人の支那観を述べるための出版という意味合いが強い。(p4、倉山氏の筆)

「対華二十一カ条の要求」とは当時の大隈内閣が袁世凱中華民国政権に突きつけた要求のことだ。

倉山氏によれば、「なお、「二十一カ条要求」との言葉自体が中華民国プロパガンダである。日本政府が突きつけたのは、「十四カ条の要求」と「七カ条の希望」だったが、「希望」の部分もいっしょにして、いかに自分たちが圧迫されているかを世界にプロパガンダしたのだった」(p6、倉山氏の筆)。

ここで問題なのは、袁世凱に「最後通牒の形式にしてくれ。そうした形で押し付けられた形にしないと私が暗殺される」などと泣きつかれてお人よしにもその通りにすると、かえって「このような要求を突きつけられた」などと世界中にプロパガンダされる始末だった。

出典:p177、倉山氏の筆

「要求」については、簡単に言えば、清国の継承国である中華民国政府に対して、日清の間で結ばれた条約その他取り決めを守ることの要求。第1号から第4号まで。中華民国が清国の継承国と諸外国から承認されるためにはこれは必須条件だった。

第5号

第5号にある七カ条は希望条項とも言われる。日本の大陸に対する権益拡大と言えるだろう(ただし、大隈の主張によれば善意だった、後述)。これが問題となった。これは秘密条項だったにもかかわらず中国側が世界に暴露した。

第5条は以下の通り。

第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他

  • 中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
  • 中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
  • これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること[10]
  • 一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
  • 武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
  • 福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
  • 中国において日本人の布教権を認めること

出典:対華21カ条要求 - Wikipedia

これに対して第一次大戦の敵国ドイツが反対するのは当たり前だが、同盟国のアメリカも反対を表明した。アメリカは中国大陸の権益がほしかったので、日本の大陸の権益拡大を止める動きに出た。イギリスも権益拡大に懸念を表明したが、アメリカが英仏露三国に呼びかけて日中両国に協同干渉をするよう提議すると三国当局から拒絶された。

結局、日本政府は第5号を削除した形で1915年5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。袁世凱は9日を「国恥記念日」と呼んで、中国人に対して反日を煽った。もちろん自分の弱さから反日に中国人の目をそらすためである。

大隈の支那に対する思い

さて、このような経過の後に現職の大隈首相は何を思ったのか?

このたびの、わが国の対支(し)交渉は、日独戦後という区切りにおいて、日本と支那の永遠の平和の基礎を確立しようとする誠意から出たものだ。それなのに、彼らは、まったくその反対の考えを持ち、外国の勢力に頼ることで、むしろ日本の要求を緩和しようとした。

日本排斥の感情は、この3カ月の談判(交渉)の経過の中で、はっきりと見てとれた。なぜならば、談判の初期、関係両国ともに、その内容を極秘とする約束があったにもかかわらず、彼らはこれを少しも秘することなく、すべて漏らしたからである。

しかも、漏らすにしても、事実を事実として、ありのままに漏らすのならまでよい。しかし、これを誇大し、いかにも日本が強勢をもって支那を苦しめているかのように、支那の新聞や外国の通信員などに通知した。

そして、はじめのうちは、わが要求に少しずつ応じるようであったが、しだいに変化し、4月ごろより態度を変え、排斥に転じるようになった。5月1日になると、ほとんどその立ち位置を変えたかのようで、長期間にわたり忠実に交渉してきた案件の、すでに合意したものまで破った。

ついに、支那の側から、ほとんど最後通牒と言ってよいものを、わが国に送ってくるに至った。支那人の豹変の性格を、このわずか3カ月の交渉のあいだに、縮図として見せられたかのような観がある。

出典:p28-29

両者まじめに進められてきた交渉をいきなりひっくり返された上に一方的に悪者にされたて、大隈は憤慨した。

そして、大隈はこの本を出版した。「二十一カ条」の交渉の内幕と、なぜ支那人がこのような亡状(無礼な振る舞い)をするのかということを公にしたかったのだろう。

この本には「なぜ支那人がこのような無礼な振る舞いをするのか」に対する答えを中国の歴史を紐解きながら語っている。

習慣は、第二の天性であるという。この支那人固有の悪しき性質も、長いあいだの歴史で養われて今日に至り、ついに第二の天性として成立を見たのだろう。この民族性が改善されないかぎりは、その外交、政治、教育、社会、風俗の上に現われた力が、たがいに集合して、最後に支那を滅ぼさねば終わらないであろう。

出典:p32-33

中華民国は大陸からいなくなったが、代わりに中国共産党政権が誕生して現在に至る。そして、大隈の言う「第二の天性」は現在も脈々と受け継がれている。

おまけ

話はそれるのだが書き留めておく。

袁世凱中華民国政府が交渉の内容を世界に暴露した時、日本内部でもこれに反応した者がいた。

我が国の論調にも、いくつもの弱点を示すものがあった。与論(社会的合意)を代表すると見られている新聞には、支那人を惑わせる(彼らの方を持ち、期待させる)ような、ものが、たくさん現れた。こうなってくると、私は、ただ支那人だけを批判するわけにはいかない。日本にも、まだいくらか東洋流の弊害が残存していて、ことあるごとにそれが現れる。

出典:p30

しかし実際は世論のほとんどが「二十一カ条」に賛成で、反対する新聞と言えば、読売新聞くらいだった。雑誌を含めれば『第三帝国』というものと、もう一つ石橋湛山の『東洋経済新報』がある。(胆紅/一九一〇年代日本の中国論ー『東洋経済新報』を中心に(pdf )参照)

賛成派には吉野作造もいる。吉野の主張を要約すると「自分も支那には強国になってほしいがその歩みは極めて遅く、欧米列強の侵入を防ぐことは到底できない。日本の国益を考える時、日本が欧米列強に遅れを取らずに支那における権益拡大することは当然である。」

これに対して、石橋湛山は(要約)「隣国が富強になることは日本の富強になる原因になる。今回の条約でこれを遮断した。」また、経済的利益から領土拡張、利権獲得に反対もした。まさに小日本主義の主張である。(前掲のpdf参照)

歴史は石橋湛山に軍配を上げたが、当時の石橋湛山の思想の根底には、当時の支那人を昔の幕末維新の志士たちと同一視して、同情を寄せていたらしい。今で言うところの親中派だったということになる。(岡本隆司/近代日本の中国観/講談社選書メチエ/2018/p23-32)

ただし、石橋も他の当時の一般的な日本人と同じく、当時の支那を「文明国」だとは思っていなかった。

支那国民が旧清国を倒して以来16年余の歴史は、公正に考えて、何処にか支那を世界の文明国と認めしむる力があったか。外国人に安んじて支那の裁判、支那の税制、支那の警察に其生命財産を託し得ると認めしむる証兆があったか。(「支那は先ず其実力を養うべし」『石橋湛山全集』6)

出典:岡本氏/p25

上の論説を書いたのは1928年に蒋介石政権が列強各国に対し、不平等条約・在華権益の破棄を求めた時のことだ。列強国が不平等条約を結んだのは支那の裁判・税制・警察に身の安全を任せることなどできなかったからだ。

石橋は、日本がやったように列強国に認められるほどの「実力」をつけてから不平等条約の撤廃を求めなさい、と主張している。(p26)

もうひとり名前を挙げるとすれば支那通として有名だった内藤湖南だが、彼の言説は頓珍漢としか思えない。要約はここには書かない。先程示したpdfで読める。彼は同時代の支那の現状や人々に関心がなかったようだ。(岡本氏/p105-110)



*1:祥伝社/2016

中国論① 福澤諭吉の『脱亜論』

(この記事は中国論というより、なぜ福澤が『脱亜論』を書くに至ったのか、が主題。)

日清戦争の10年ほど前、福澤は朝鮮の独立と近代化に傾注していた。しかし彼が支援していた朝鮮独立党(開化派)のクーデターが失敗に終わり、朝鮮政府が彼らとその親族の悲惨な処罰をした。

福澤はその報を聞き、『脱亜論』を書いた。朝鮮と支那に対する絶縁状だ。

朝鮮と支那は日本人とは全く別物で、近代化するのは極めて難しい。彼らと互いに援助することは毛ほども役に立たず、むしろ彼らと交わることで欧米人から同種だと間違われるかもしれない。ゆえに、彼らとは縁を切ろう、というものだ。

ただし、絶縁状と言っても日本国が本当に中朝と付き合わないわけにはいかないので、福澤は「心の中で、謝絶するものである」というエクスキューズを書いている。

さて、この文章に至るまでの背景を書いて、その後『脱亜論』の一部を見ていこう。

同床異夢

幕末の志士の中では、欧米列強と対抗するために日本は支那と朝鮮と同盟をすべきだ、という論があった。例えば勝海舟がそうだ*1。いっぽう、吉田松陰のように朝鮮を属国化しようという論もあった*2

明治の世になると、まず前者の論が出てくる。

1874年(明治7年)の台湾出兵の際の天津条約交渉に参加した大久保利通は、李鴻章から「日本、支那、朝鮮等東洋の団結」を目的として相互に語学校を開設することを約束していた。

出典:興亜会 - Wikipedia

この流れの中でアジア主義の総合機関「興亜会」が設立される。リンク先によれば、アジア主義の「原点であり、源流である」。

だがこの流れの初めから日本と清国は同床異夢だったかもしれない。日本は朝鮮が清の属国状態から独立して日本のように富国強兵化することを望んだ。いっぽう、清は台湾出兵の後、日本を仮想敵国とした北洋艦隊を創設した。朝鮮の宗主権を手放す気など無かっただろう。

朝鮮半島での近代化への活動が活発化すると日清の対立は顕在化して引くに引けない状況になっていく。

福澤と金玉均の出会い

以下の本を頼って見ていこう。

決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ

決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ

  • 作者:利夫, 渡辺
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

1881年明治14年)、この当時李氏朝鮮は近代化からほど遠い体制だったが、国王高宗は日本の近代化の成功に興味を持ち、「紳士遊覧団」を結成して官僚たちを日本へ派遣し近代化を学ぶように命じた。この団体の中の一人、魚允中が従者2人福澤に乞うて預けた。二人は福澤邸に寄宿しながら慶應義塾にも通うことになった。この2人の留学生が機縁となり、その後 朝鮮人が福澤邸を訪れることが多くなる。(p55-56)

福澤が彼らから聞く朝鮮の現状は、門地門閥によって身分が固められ、社会的上昇など思いも及ばなかった「30年前の日本」である。家督を継いだ福澤が困窮に耐えられず家財を売却し、母と姪を故郷に残し慚愧の思い出中津藩を後にし大阪に出てきたのは、「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と記して旧制度にたぎる怒りを抑えきれなかったからだと、『福翁自伝』にはある。

福澤は自分の過去を朝鮮人留学生の中に見出し、少なくとも自分を頼ってくる朝鮮人には救いの手を差し伸べるのは自分の責だ、と感じるようになった。政権獲得に参加しなかったものは政権に入る資格なしとして、幕臣福澤は明治維新を傍観者としてやり過ごしたものの、みずからの思想の実現の場をどこかに求めていた。その場を福澤は朝鮮に「発見」し、朝鮮の開化派もまた福澤に支援を接岸したのである。

出典:渡辺利夫/決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ/扶桑社/2017

この流れに金玉均がいた。彼は「紳士遊覧団」の帰国者から話を聞いて興味を持ち、その後 国王の命により訪日を果たした。訪日の期間中は福澤の別邸に寄宿しながら日本の実情を観察した。また福澤の紹介で井上馨渋澤栄一後藤象二郎大隈重信伊藤博文などと面会した。

壬午事変勃発

金玉均は一旦見聞を終えて帰国しようとしたが、その途上で壬午事変の報を受ける。

壬午事変は攘夷思想を持つ高宗の実父大院君が起こしたクーデターだが、この動きにすばやく動き鎮圧したのが袁世凱率いる清軍3000兵だった。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた*3

清国は、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた[19]。従来、朝鮮の内政には関与しなったが、清国側とすれば台湾・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである[13]。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。

出典:壬午軍乱 - Wikipedia

これに対して日本の世論と福澤はどのように反応したのか。

清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年12月7日『時事新報』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである。

出典:壬午軍乱 - Wikipedia

以下は上の社説の後に続く文章。

然ば則ち之に処するの法如何して可ならん。我輩の所見に於ては唯一つ法かすみやかここあるのみ。即ち退(しりぞい)て守(まもり)て我旧物を全うするか、進(すすん)で取て素志を達するか。今日の進退速(すみやか)に爰(ここ)に決心すること最も緊要なりと信ず。

出典:渡辺氏/p61

渡辺氏曰く、後の文章は金玉均らに福澤が繰り返し諭した言葉だった。

この後、李氏朝鮮金玉均や朴泳孝ら日本と近代化を目指す開化派(独立党)と親清勢力(事大党)と中立派に分裂したが、政権は清軍をバックにした事大党の下にあった。開化派は劣勢だった。

金玉均のクーデター・甲申政変

1883年8月、清仏戦争が勃発し、京城の総勢4500名いた兵力の内2000名が清国内に移った。これをチャンスと見た開化派はクーデターを企画し1884年12月に実行する。クーデターは一応せいこうしたものの、3日しか持たなかった。袁世凱率いる清軍1500名に京城を囲まれて為す術がなかった。これに対して日本兵は130名で、情勢を変えることはなかった。(甲申政変)

金玉均は辛くも逃げて日本に亡命したが、朝鮮政府は開化派の残党と三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした*4

この報を聞いた福澤は1885年(明治18年)2月23日と2月26日に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説書いた。以下はその一部。

人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩はこの国を目して野蛮と評せんよりも、むしろ妖魔悪鬼の地獄国といわんと欲する者なり。しかしてこの地獄国の当局者は誰ぞと尋ねるに、事大党政府の官吏にしてその後見の実力を有する者はすなわち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国におり、もとよりその国事に縁なき者なれども、この事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。

  • 新字体、平仮名、現代仮名遣いに改め、適宜句読点、改行を施した。
  • 一部の漢字を現代風に直した。(吾々→我々、勉メ→努め)
  • 一部の固有名詞を現代風に直した。(歴山王→アレキサンダー王)

出典:朝鮮独立党の処刑 - Wikisource

金玉均は十年日本での亡命生活の後、上海で暗殺された(1894年)。「遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれて凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された」*5

脱亜論

「朝鮮独立党の処刑(前・後)」の約3週間後、1885年(明治18年)3月16日の『時事新報』に脱亜論を書く。

以下に脱亜論の現代語訳を途中から引用する。なお、読みやすさのために、私が勝手に段落分けした部分がある。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。

その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

出典:脱亜論 - Wikisource (翻訳:三島堂)

この文章に対して上述の渡辺氏は次のように評している。

文章をそのままたどっていくと、相当に激しい言説がストレートに表現されているようにみえる。一つには、福澤自身が他の文章でもそうだが、自己の主張を誤りなく伝えるために、婉曲な表現を好まず、逆に、とかく誇張してものごとを記述するという文章上の性癖があったということ、二つには、甲申事変に際して朝鮮政府が行った、福澤の想像をはるかに超える余りにも残虐な開化派の弾圧に憤怒の情を胸中に満たしていたこと、これが直接の原因であろう。[中略]

朝鮮は開化派のクーデター1つによって変わるほど簡単な隣国ではない。これを機に朝鮮開化派への心情的な思い込みはやめ、西洋人が外国をそうみなしているようなパワーポリティクスの論理にめざめて、朝鮮にも対処していこう。そういうある種の自省を、この文章の中に読んだほうが正しい。

渡辺氏/p87

福澤はこの事件が起こるまで、朝鮮人と日本人は そうは違わないと思っていたのかもしれない。それは一衣帯水論というより、外国を知らなかったというべきか。現在も日本国民の中で海外をよく知る人は少ないとは思うが(私も知らない)、当時は鎖国からやっと抜け出したばかりの時代だった。

おまけ:『世界国尽』(せかいくにづくし)

福澤は1869年(明治2年)の初冬に『世界国尽』を出版した。世界地理の入門書である。地理以外に、その国の歴史を説明している箇所もある。 (世界国尽 - Wikipedia )。

この本の中に支那について書いてある。

支那の政治の仕組みは、西洋の言葉で「ですぽちつく*1」というもので、ただ上に立つ人の思い通りに事が進む状態のため、国中の人は皆、いわゆる奉公人の根性になり、「帳面前さえ済めば一寸のがれ*2」という考えで、本当に国のためを思う者がなく、遂に外国から軽くみられるようになってしまいました。すでに天保年間、英吉利(いぎりす)に打ち負かされた時も、賠償金を払った上に、香港の島を英吉利に渡し、広東、廈門(かもん)、福州、寧波、上海の5ヶ所の港を無理に開かせられ、その後もふみつけられているようです。

*1. でぽちつく(depotic) 独裁的な。専制的な。
*2. 帳面前さえ済めば一寸のがれ 「帳面前」は帳面に記した状態。表向きさえ良ければ、その場を取り繕って責任をのがれること。

出典:齋藤秀彦 編著/福沢諭吉の『世界国尽』で世界を学ぶ/ミネルヴァ書房/2017/p13-14




福澤のいう「脱亜」は支那と朝鮮のことを指すのであり、他のアジアの国々は関係ない。
福澤は「脱亜入欧」とは言ってはいない。


中国人について⑥ 人間関係 その5 面子について

中国人論の重要な要素の一つ「面子」について書いていなかったので、ここで書いておこう。

[(面子は)中国精神の綱領であるから、これをつかみさえすれば、ちょうど24年前に弁髪を引っこぬいたのと同じように、身体全体も一緒にくっついて来る」と辛亥革命から24年たった1934年に魯迅は言いました(「面子について」『且介亭雑文』所収)。

また、キッシンジャー元・米国務長官いわく、自身の経験から言えるのは「中国人とつきあうときは、面子を立ててやらねばならない」(『キッシンジャー秘録』)ことだそうです。

中国人の行動原則を理解しようとするなら、「面子」の理解は不可欠です。しかし「面子」は、非常に特殊な中国独特の概念で、外国人の理解を非常に困難にしています。

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p105-106、林思雲の筆

中国人が如何に面子を重要視しているかということについてはネット検索をすれば たくさん出てくる。その中から幾つかを参考にして「面子」とは何かに迫っていこう。

中国人と日本人―ホンネの対話

中国人と日本人―ホンネの対話

「面子」に関する2つの場面

まず、2つの代表的な「面子」の場面を書いていこう。

一つは食事会の場面、もう一つは上司に叱られるという場面だ。

食事会の企画者が全額払うのが基本。割り勘は論外

中国人から見ると、日本の割り勘や、弁当1個の会食などはすべて「ケチ」な振る舞いにあたる。中国人の会食は必ずといっていいほど数多くの料理を注文し、いずれも山盛りで食べきれず残される。また、基本的には誰か一人が全員分の費用を支払う。そして次は別の人が負担する。[中略]

「日本でもケチはあまり良くは思われないけれど、中国では『ケチと思われたら終わり』と言われるぐらいダメだと言っていて、文化の違いには気を付けたいと思った。」

中国では人間を評価するにはよく「気前がいい」とか「ケチ」だとか言う。「気前がいい」は非常にランクの高い評価となる。逆に、「ケチ」というのは、まるで「最低」同然の軽蔑である。親戚、友人、同僚、近所といったところではもし「ケチ」というレッテルを貼られ、悪い評判が定着したら、「おしまいだ」といっても過言ではないほど、頭が上がらないし、人間関係はぎくしゃくし、なにもかもつまずく恐れすらある。

ケチへのあまりにも強い恐怖感と・・・ ・・・「面子」とは実にコインの両面である。「ケチ」と思われたくないため、横並び意識が強く働き、交際費の額をどんどんエスカレートさせていく。「ケチ」の反対は「面子」で、ケチは面子を潰す最大の要因の一つである。だから、面子を立てるためには、ケチなことを絶対してはならない。ケチと面子は水と火の関係でなかなか両立できないことだ。

(執筆者:王文亮 金城学院大学教授編集担当:サーチナ・メディア事業部)

出典:ここが違う日本と中国(4)―「気前いい」VS「ケチ」

中国人を人前で叱ってはいけない

中国人は面子や体面をものすごく重んじる人たちです。日本語でも「面子をつぶされた」という言葉がありますが、「面子をつぶされる」ことの意味合いは、おそらく中国人と日本人とでは比較にならないほど違うと思います。

たとえば、日本では職場で上司がみんなの前で部下を叱り飛ばすことなど、それほど珍しい光景ではありません。叱られた部下も多少へこむかも知れませんが、「面子をつぶされた云々」ということにはならないでしょう。

しかし、中国では、上司がみんなの前で部下を叱り飛ばしたりしたら、たいへんなことになります。叱られた部下は「面子をつぶされた」として会社を辞めるか、あるいは叱り飛ばした上司をものすごく恨むでしょう。

在中日本企業の駐在員が赴任時によく注意されることは「中国人の部下を叱るときは、個室に呼んで、こっそりと叱れ」ということです。中国人はみんなの前で叱られて恥をかかされることはプライドが許しませんし、みんなの前で叱られている姿を見られてしまった社員は「仕事の出来ないヤツ」というレッテルを貼られてしまいます。

出典:連載コラム「行けばわかるさ」14/毎日留学ナビ 丹勇貴

ただし、「個室に呼ぶ=叱ること」ということが職場の常識になってしまったら、個室に呼んで叱っても中国人は「面子をつぶされた」と感じてしまう。上司は彼らの面子を潰さないために幾つかのテクニックを用意しておかなければならないそうだ。

2013年に広島県のある会社で、中国人実習生が経営者を含めた社員8人が殺傷した事件があるのだが、これは面子にかんけいしているという。(叱責された中国人研修生が8人殺傷・・・中国人を指導する際のタブーと外国人研修生制度 - NAVER まとめ*1

余談になるかもしれないが、池内恵氏が以下のようにツイートしている。

面子とは「他人の自分に対する評価」だ

さて、面子に話を戻そう。

上の2つの場面で共通していることは、中国人が「他人の自分に対する評価」をひどく重要視していることだ。

中国人が日本人と比べて格段に人間関係を重要視しているので、他人からの評価がそれだけ重要になる。

では、なぜ必要なのだろう。

以下にその回答を紹介しよう。

「面子」は本来、平等な人間関係に「上・下」の差をつけ、さらにその「優位」を利用して、さまざまな便宜が図られるようになった。そのため中国には伝統的に「人間は平等」という概念は希薄で、最近、その意識が芽生え始めたが、まだまだの観があり、むしろ中国人の多くが自分と周囲の人間に「高・低」「上・下」の差をつけようとする。そしてその差をつける最大の基準が「面子」にほかならない。しかも中国人は「面子」を利用して、常に自分に利あるように図ろうとする。
たとえて言えば、中国人にとって「面子」は銀行貯金のようなもので、自分の努力次第で貯金額は増減し、蓄えたままその金額を眺めて自己満足もできるし、必要な時、取り出して使うこともできる。

中国人は交際する相手の一人一人の面子のレベルを互いによく把握しているし、初対面の人には相手の面子レベルを探りながら自分の取るべき態度を決めていく。こうしたつき合い方はごく当たり前のことで、中国人は「面子ゲーム」の中で生きていると言っても過言ではない。
それでは「面子」のレベル、「面子」の多寡、高低を決める要素は何であろうか。
「面子」を決める要素は多岐にわた[るが、]・・・ ・・・庶民が「面子」を測ったり、「面子」を作るのにもっともよく使う要素は、字義とおりで「顔が広い」そのことである。つまり交友範囲の広さ、知人の多寡である。

こうして中国人には、ある行動パターンが生まれることになった。他人との交際では可能な限り「関係」を近づかせようとし、「仲間に取り込む」意識を非常に強く持つのである。「他人」は「知人」へ、「知人」は「親戚・親戚に近い友人」へというようにである。

出典:中国人の思考方法 ―― 恥と面子 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」趙慶春

顔が広い人に対して周りの人は「あの人はたくさんのコネを持っている」→「彼に頼めば彼が持っているコネを使って私の願い事が叶うかもしれない」→「彼と親交を深めたい」と思うようになる。

逆に上司に叱られてばかりいる人に対しては「あいつは仕事ができないヤツだ」→「あいつと付き合ってもしかたないのではないか」と思うようになるかもしれない。

さらに面子を潰された人は面子を潰した人を(それが正当な理由が有るか否かにかかわらず)ひどく恨むまたは憎むようになる。だから「面子を潰さない」ことが中国人社会のマナーの一つになっている(『中国人と日本人』p118)

上の引用にあるように、仲間内の序列で上位に立てば、下位の仲間を利用することができる。下位の人も上位を利用するのだが、利用されることのほうが多いということなのだろう。

こうなれば、面子がどれほど重要なのかが腑に落ちる気がする。

日中の比較:「顔」と「恥」と「面子」

社会に生きる以上、人目を気にするのは人間の定めである。問題は、どのように気にするか、である。日本語には「顔をつぶす」「顔を立てる」「顔色をうかがう」など、顔に関する豊富な表現がある。面子を重んじる中国には、「面子にこだわる」の意だけで「愛面子」「要面子」「講面子」があり、「面子を与える」は「看面子」「給面子」「留面子」、面子をつぶす場合は「駁面子」「掃面子」「裁面子」「傷面子」などと枚挙にいとまがない。

日本人の「顔」は恥の文化とかかわるので、露骨に「見て」も、「見せる」のもいけない。目立たないように顔を立てなければならない。露骨な振る舞いは空気が読めない行為として排斥される。中国人のメンツはむしろ、だれがだれのメンツを立てたのか、みんなにわかるように表現しなければ意味がない。状況を踏まえて人のメンツを立てられる人物には、非常に高い評価が与えられる。その逆もしかりで、メンツをつぶす行為には忘れがたい恨みや憎しみがついて回る。いい加減な空気は入り込む隙間を与えられていない。

出典:八方美人と八面玲瓏の違いは顔とメンツの違い 加藤隆則 – アゴラ

上で言われる「恥の文化」は周囲の目を気にすることは共通しているが、「世間様に白い目で見られるようなことをすることは恥である」という道徳・倫理観だ((この考え方はルース・ベネディクト菊と刀』の「恥の文化」とは違うらしい。詳しくは自民党の偉い先生も勘違いしている「恥の文化」参照)。

中国の面子とは かなり違うことに気づくだろう。

結局のところ、中国人には「対等」とか「平等」という考えは無いか希薄で、「仲間内でも支配するかされるか」、「人を使うか人に使われるか」の世界なので、面子によるランクづけは重要だということだ。



『中国人と日本人』によれば、中国人は親戚の誰かが出世したり財を成したりすると、その親戚一同は彼を誇りに思い、自分も「面子が立った」と思うらしい(p108-109)。


中国人について⑤ 人間関係 その4 人間関係と権力/デメリット

前回まで、日本人の学者の本に頼って中国人について書いてきたが、今回は現代の中国人が書いた本*1に頼って書いていく。

私が参考にした日本人学者は幇や宗族という用語を使って、歴史から中国人の行動様式を抽出して表した。

今回紹介する現代中国人は、現代の事情の中から中国人の人間関係の問題を書いている。

中国人と日本人―ホンネの対話

中国人と日本人―ホンネの対話

なぜ留学生は帰国したがらないのか?の質問の回答の一つとして人間関係を挙げている。留学している中国人たちは以下のように答えている。

人間関係が非常に複雑な中国に比べて、外国の人間関係は はるかに単純である。外国にいればこの単純な人間関係のなかで、とても気楽に生活できる。だから帰国したいとは思わない。

出典:林思雲、金谷譲/中国人と日本人―ホンネの対話/日中出版/2005/p74(林思雲の筆)

中国人の共同体の外は弱肉強食の世界であり、いったん外に出たら全ての人が敵だと思わなくては騙されるのが中国社会だ、ということは前回までに書いてきた。

しかし、内側の人間関係でもまた、気を張り詰めていないと自分の財産が「仲間」によって いいように使われてしまう。

中国における人間関係/平等は無いか希薄

上で紹介した本の人間関係の説明。私が前回までに参考にした日本人学者とだいたい内容が一致しているが、用語はちがう。

また、前回までに宗族と幇について書いたが、人間関係は当然のことながらこれら以外にも数多く有る。地縁や商売仲間、あるいは単なる友人関係など。

さて、人間関係についての引用。

中国人は人間関係のことを、「円(ユェン)」と、非常に視覚的な呼び方をします。自分を円の中心として、周囲の人間関係は親近の度にしたがって幾重もの円を描き、次第に外へと広がっていきます。もっとも内側の円内に入るのは、両親や兄弟姉妹といった「親人(チンレン)」(肉親)です。その外の円には「親朋好友(チンパンハオヨウ)」(親友)で、さらにその外の円には隣人や職場の同僚といった「熟人(シューレン)」(知人)、そして一番外側が「外人(ワイレン)」(他人)です。

近代になって西洋の平等思想が中国へと入ってきましたが、平等の観念は、中国に入ると変質しました。西洋人の平等とは「友人にも敵にも同じように公平であること」、言い換えれば絶対的な平等です。しかし中国人の平等は相対的な平等です。

相対的な平等というのは、"内を先にし外を後にする"、つまりその人間との親疎の濃淡によって対処の仕方を変えることです。これは、相手との関係の程度にしたがって優先順序をつけるということでもあります。具体的に言いますと、肉親には九分、親友には七分、ふつうの友人には五分、ただの知人なら三分の心と力を充てるということです。これを "関係を「整頓」する" と言います。

出典:同上/p83-85

もちろん、赤の他人には無関心だ。

ただし、友人関係であれ肉親・宗族であれ職場関係であれ、その内輪の中でも平等は無いか希薄である。宗族には「長幼の序」があり*2、友人でも上下関係が見え隠れする(下の「友人を持つデメリット」の節を参照)。

人間関係と権力

例を一つ。

著者の林思雲氏が通っていた大学で、彼の友人の親戚に食堂の勤務員がいた。この勤務員はご飯とおかずを盛る係で友人はいつも他の学生の倍くらいの量を盛られていた。

つまり、ご飯とおかずを盛ることはその勤務員の権力になっており、親戚である友人はこの権益にあずかることができる。羨ましいと思うどころか歪んでいるとしか思えないが、これがまかり通るのが中国社会だ。

さて、食堂の中の権力だけならまだいいのだが、これが政治や裁判の場までまかり通る。

日本人は問題があれば、まず政府に頼り、法律によって解決しようとするはずです。しかし中国人は、問題が起これば、なによりも先に親しい友人のところへ行こうとします。友人の助けによって問題の解決を図るのです。

政府官員による権力の私物化をいまだに克服できないのが中国の現状ですが、その原因を考えると、文化に深く根を張る、 "関係を整頓する" という考え方につきあたります。

しかし権力を私物化して個人的な利益の追求に用いるのが、中国人がとりわけ物質的利益に貪欲なせいだとするなら、それは当たっているとは言えません。中国では多くの場合、権力を私物化したり私利を図ったりする現象は、賄賂を受け取るといった、物質利益をむさぼる形で発生するわけではありません。もっと単純に、友だちのために、情実から、権力を私(わたくし)の目的に用いるのです。

出典:同上/p88-89

仲間の誰かが なにがしかの権力を手にした場合、その権益はその権力者の円(人間関係)の仲間に供与されるべきだ、と中国人は考えている。だから裁判になれば法の公正よりも人間関係が先にくる。これが中国が「人治であって法治ではない」と言われる理由になる。この慣習に背いて法の公正に従って判決を下した裁判官は仲間全体から不興を買って、さまざまな困難にみまわれることになる。(p89-90)

友人を持つデメリット

事例をもう一つ。

最近、趙君は車を買いました。彼の車を買った喜びは、すぐに車を借りにひっきりなしにやって来る友人たちがもたらす頭痛によって取って代わられました。ある日、友人の某が彼の車を数日のあいだ借りて、他省に住む親戚の家へ遊びに出かけたのですが、戻ってきた車は傷だらけで、メーターは数千キロもの走行距離を示していたそうです。趙君の苦悩は筆舌に尽くしがたいものがありました。しかも数日後、車が故障して、その修理に数千元もかかりました。そこで趙君は、もうだれにも車は貸さないと決心したのです。そのおかげで、趙君の友だちは激減しましたが、彼の頭痛も激減したとのことです。

出典:同上/p92-93

ジャイアンのようなガキ大将ならこの社会は心地よいかもしれないが、のび太のような人だったら苦悩は筆舌に尽くしがたいだろう。

弱い立場の人は、簡単に言えば「タカられる」。権力にしても、車にしても。そして お裾分けしないと仲間から裏切り者扱いされる。最悪の場合、友人が敵になる。上の本によれば友人が仇敵になるのは特別なことでもないらしい。

タカられる他に「友人ならカネを貸してくれて当然だ」という空気もある。これを断るために予め貸せない理由を考えておかなければならない。さらに貸せなかったことに対して何度も謝らならなければならない。(p93)

この本では、こういった煩わしい人間関係を海外に移住または留学して断ち切った例を紹介しているが、宗族の場合は断ち切るのが難しいのではないか。あるいは できないのではないか。アウトローの幇(秘密結社)も。

おまけ

中国通の坂東忠信氏の言葉。

日本人は、価値観が一致して、自分の安全を託しても後悔のない人を親友とします。
中国人は、自分のお願い事をかなえてくれる努力を惜しまない人を親友とします。
(役に立ってこそ友達なのです)

日本人は、友達には迷惑をかけたくないと考えますが、
中国人は、迷惑をかけても許してくれてこそ友達と考えます。
(だからたまにむちゃくちゃなお願い事をされます)

出典:日本人と違う中国人の思考回路。 | 坂東忠信の日中憂考 2011.05.11



中国人について④ 人間関係 その3 二重規範と共同体

中国人社会を説明するために「二重規範」という用語を使ったほうがいいと思い、書いてみた。

二重規範と共同体

二重規範ダブルスタンダードと解されることがあるが、違う。

ダブルスタンダードは二枚舌というネガティブな意味で使われるが、二重規範は中立な用語だ。

かつての古代のベドウィンの民。沙漠の流浪民なのだが、チャンスがあれば、隊商でも村落でも、ほしいままに略奪し、皆殺し・・・ ・・・。

こんなこと、古代ベドウィンの倫理・道徳では、少しも不倫でも非道でもない。全くもって、倫理的・道徳的な行いそのもの。

では、古代ベドウィンの倫理・道徳において不倫・非道とはどういうことなのか。

まず、卑怯未練であって、あるいは未熟であって、まともな戦闘ができないこと。戦う民たる古代ベドウィンにとってこれほど不倫・非道はない。

ここまでなら、日本人にもよくわかるあはず。日本武士にとって、「卑怯者」と呼ばれることは最大の屈辱であり、不倫・非道のうちの最大のものであるのだから。

が、古代ベドウィンの倫理・道徳は、そこには止まらない。

略奪、強姦、虐殺ができるのにそれをやらないこと。

これもまた、古代ベドウィンからすると、たいへんな不倫・非道徳。

なんて言ったら途端に反論が出てきそう。太古のベドウィンなんて、そんなとんでもない民族(people)を引き合いに出してきたって、それはあんまり意味がない、と。

とんでもない。

古代ベドウィンだけではない。太古だけではない。前近代社会においては、どこでもいつでも、こんなぐあいであった。あに古代ベドウィンのみならんや。

前近代社会においては、日本の倭寇だって誰だって、基本的にはこんなぐあいであった。

これは、一体全体、どういうことか。

倫理・道徳は自分たちの集団の中にだけ存在するのであって、集団の外には存在しない。いや、正確に言うと、倫理・道徳は、集団の内と外では、全くちがったものとなる。すなわち、二重規範(double norm)となるのだ。[中略]

二重規範が共同体(ゲマインデ)(Gemeinde, commune)の特徴であると、マックス・ウェーバーは言った。中国の帮(ほう)は、共同体を作っているのである。

出典:小室直樹著/小室直樹の中国原論/徳間書店/1996/p23-24

上にあるように、二重規範の内側が共同体。共同体と言えば普通は「コミュニティ=社会集団または地域社会」の意味だが、社会学だと前者の意味になる。

幇(帮)も共同体だが、宗族も共同体。

世界トップクラスの安全性を保っている現代日本社会に住んでいると共同体の有り難みが薄れるが、中央政府すら信じることのできない中国では共同体の内と外の違いは かなりはっきりとしている。内輪の人間は裏切ってはいけないが、外の人間にはそれは適用されない。

さて、今度は中国の人間関係の話。

日本の社会と比較した「グワンシ[人間関係の意味--引用者注]」のもうひとつの特徴は、個人と個人の関係が共同体のルールを超えることだ。

日本でも、会社のコネで手に入れたチケットを友人に回す、などという行為は一般に行なわれている。しかし機密情報の漏洩など、重大なルール違反にまで手を染めるひとはほとんどいない。だが中国では、「グワンシ」のあるひとから依頼されれば会社のルールはあっさり無視されてしまう。これが日本企業が、「中国人は勝手に情報を持ち出す」と不満を募らせる理由だ。

なぜこのようなことが起きるかというと、日本と中国では「安心」の構造が異なるからだ。

日本の場合、安心は組織(共同体)によって提供されるから、村八分にされると生きていけない。日本人の社会資本は会社に依存しており、不祥事などで会社をクビになれば誰も相手にしてくれなくなる。だからこそ、会社(組織)のルールを私的な関係よりも優先しなくてはならない。

それに対して中国では、安心は自己人の「グワンシ」によってもたらされる。このような社会では、たとえ会社をクビになったとしても「グワンシ」から新しい仕事が紹介されるから困ることはない。だが自己人(朋友)の依頼を断れば、「グワンシ」は切れてすべての社会資本を失い、生きていくことができなくなってしまうのだ。

出典:中国人はなぜ裏切るのか―― 裏切られることを前提とする社会 | デイリー新潮 2018(橘玲氏の筆)

  • 引用の中の「(共同体)」は社会学の用語ではなく、一般的な社会集団の意味。

上の引用は幇についての説明だが、宗族でも同じだ。同じ共同体の構成員にルールや法律以上のものを求めてくる。

中国の共同体と「事情変更の原則」

資本主義において契約は絶対である。契約が結ばれてしまえばそれまで。契約は必ず、文面通りに実行されなければならない。事情変更の原則は許されないというのが資本主義の大原則である。

事情が変わったから(いったん結んだ)契約を変更してくださいという「事情変更の抗弁」を許していたのでは、経済主体(消費者と企業)は目的合理的(消費、生産)計画を立てることや、商品、資本のスムーズな流通ができなくなるからである。そのために市場機構が自由に機能しなくなること、いや市場がそもそも成立しないことをおそれて、資本主義は事情変更の原則を拒否したのであった。(p86)


日本人が「中国人は信用できない」と言うときの大きなテーマの一つが、この「事情変更の原則」である。中国人はすぐ、約束したときと事情がこう変わりました、ああ変わりましたと、それを理由に約束を反故にしてしまって平気である。反故にまでしなくても、勝手に変更しておいて涼しい顔をしている。(p27)

出典:小室氏

中国人は何故このようなことを平気でするのか?その理由は、共同体と二重規範にある。

共同体の内側の規範は絶対だが、外側はそうではない。内側では契約など無くとも口約束でもそれを破った構成員には人生を台無しにしかねない大きなペナルティが下されるが、それにくらべれば、事情変更による契約の不履行で起こるペナルティなど屁でもない。

さらに言えば、契約の不履行が珍しくない中国社会の中では 不履行によって社会的ペナルティが発生しないのかもしれない。そんな中で、日本人が「事情変更の原則が認められない」という資本主義の根本原則を求めてもどうにもならない。そして、いいカモにされている。

だいたい、「事情変更の原則」は地方行政ですらやっている。以前紹介したTwitterに埋め込まれている動画がその証拠だ。

https://twitter.com/sumerokiiyasaka/status/1019161698521894913

中国人は共同体の外のルールや法律を全く守らないと言っているわけではない。自分に有益なものについては守り、また、法律に守られる権利も主張する。しかしそうでない場合、共同体の内側の利益と相反する場合、外側のルールは軽視される(といっても外側のルール違反のペナルティが内側のペナルティより重ければ話は変わってくる)。



本文は以上。

故・小室直樹博士は、日本は資本主義社会ではない、または未熟だとずっと書いていた。
また、上で紹介した『中国原論』では、日本は会社を共同体化したと書いているが(p172-174)、その現象は20年以上続いたデフレのおかげで消滅した。
私は、少なくとも21世紀の現代日本は、資本主義社会だと思っている。


かなり断言して書いてしまったが、以前にも言ったように、私は、中国人と知り合いになったことは一度もない。


中国人について③ 人間関係 その2 幇(パン)と情誼(チンイー)

前回、宗族について話したが、今回は「幇(パン、ほう)」について。中国語では「帮会(パンフェ)」。

幇を一言で表せば「義兄弟」。ただし、この関係は宗族よりも、本当の兄弟よりも繋がりが強いと定義する人もいる。小室直樹著『小室直樹の中国原論』*1で紹介されている幇の代表例は「桃園の義盟」。つまり、劉備関羽張飛の義兄弟の契りだ。

ちなみに、google翻訳を使って「帮会」を和訳したら「ギャング」と出た。英訳はもちろん「Gang」。 幇は歴代王朝末期に現れる秘密結社として使われる用語だが(清末の青幇 ちんぱん が有名)、現代ではギャングとかマフィアを意味するようだ。日本でいう「~組」のように使われているらしい。

この記事では、ギャングやマフィアの話はせずに、共同体としての幇について書く。

「幇」とは何か?

中国は「関係(グワンシ)の社会」だといわれる。グワンシは幇(ほう)を結んだ相手との密接な人間関係のことで、これが中国人の生き方を強く規定している。

「グワンシ」は人間関係を「自己人(ズージーレン)」と「外人(ワイレン)」に二分することだった。「自己人」はインサイダー、「外人」はアウトサイダー一般にあたる。

自己人とは、自分と同じように100パーセント信用できる相手のことだ。人間関係でもっとも大切なのは血縁だが、情誼(じょうぎ)(チンイー)を結んだ朋友(ほうゆう)も自己人の内に入る。

それに対して外人は、文字どおり「自己人の外のひと」だ。「グワンシ」を持たない外人は、信用できることもあれば裏切られることもある。   中国人は外人を信用せず、すべてを内輪(インサイダー)でやろうとしている、というわけではない。それとは逆に、彼らは日々の仕事や生活のなかで外人ともおおらかにつきあう。ただ、どれほど親しく見えても、最後は裏切る(裏切られる)ことが人間関係の前提にあるのだ。

出典:中国人はなぜ裏切るのか―― 裏切られることを前提とする社会 橘玲 | デイリー新潮 2018

「朋友」が義兄弟、「情誼(じょうぎ)(チンイー)を結ぶ」とは義兄弟の契りを結ぶということだ。

もう一つ、岡田英弘氏の本から引用しよう。ただし、岡田氏は幇を「秘密結社」と書いている。

秘密結社の一員になるためには、義兄弟の契りを結ぶ必要がある。知識人階級の人々は科挙によって擬似的な親子関係である師弟関係を作ったが、それ以外の一般の人々は、秘密結社という、擬似的な兄弟関係を結ぶことによって、生きてきたのである。

たしかにどの秘密結社も、会員がなにかトラブルに巻き込まれたときには、仲間が協力して助け合う事になっている。結社には、それぞれメンバーであることを示す独特のサインがあり、その暗号を知っていれば、他の都市に行ってもその支部に草鞋を脱いで世話になることができる。病気になれば薬を作ってくれるし、仕事も世話してもらえる―こう書くと、いいことだらけのように見えるが、もちろんそんなはずはない。

いったん結社に入会すると、もうその人間はそこから抜けることはできないのである。

すべての結社は構成員の忠誠心によってその存立が支えられている。では、その構成メンバーの忠誠心はなにによって守られているのかと言うと、それは、アメとムチなのである。

つまり、メンバーであるかぎり、生涯、現実的な利益が保証される。しかし脱会することによるデメリットもまた甚だしい。このアメとムチが強力であればあるほど、その組織の基盤は強固なものとなる。アメリカのマフィアしかり、KKK しかり、日本のヤクザ組織しかりであり、一般の企業集団でも、この原則は変わらない。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)/p206

ただ、現代の「朋友」たちが皆、上のようなキツい縛りがあるわけではない。友人関係を断ち切ることはリスクを伴うが、普通にあることらしい。上の岡田市の説明のようなキツい縛りは やはりマフィアなどの場合に限られるのだろう。まあここらへんは日本人の理解の範囲だ。

幇の歴史

「幇=秘密結社」とすれば、歴史は劉備たちの時代まで遡ることができるが(黄巾の乱で有名な太平道や同時代の五斗米道)、それとは違うギルドとしての「幇」の歴史を紹介しよう。

帮 ぱん
中国、明(みん)・清(しん)時代、漕運(そううん)に従う運糧官軍は、各地に設置された衛所に配せられ、一隻10人乗りの漕運船10~20隻で一帮をつくり、一衛所に数帮があった。帮はいわば船団で、輸送の際の行動、命令の伝達、給与の受領、経費の支出、相互扶助、監視などの単位である。彼らは生計の足しに、禁を犯して商品を密輸していた。清代では、乗組員10人のうち9人が民間から雇う水手なので、帮を細分して甲をつくって監視した。しかし密輸は盛行し、帰りの空船では私塩(やみしお)を運んだ。この密輸には風客といわれるボスが水陸に采配(さいはい)を振り、当局の取締りには鉄砲で武装抵抗し、清末には無頼の徒も漕運船に流入し、反社会的、反清的行動に出た。しかも漕運制度が崩壊し始めると、貧窮化した彼らは、太平天国などの反乱軍や、秘密結社などに身を投じた。哥老会(かろうかい)の一派、青帮(ちんぱん)にはとくに多く流れたといわれる。[星 斌夫]
『星斌夫著『大運河――中国の漕運』(1971・近藤出版社)』

出典:帮(ぱん)とは - 日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク

まるで石工のギルドが起源のフリーメイソンのようだ。フリーメイソンも秘密結社と言われている。結局、秘密結社の話になってしまった。

情誼:義兄弟(朋友)と他人のあいだ

上に、「情誼(じょうぎ)(チンイー)を結ぶ」とは義兄弟の契りを結ぶということ、と書いたが、この情誼というのは交友関係の深度の意味もある。

宗族や帮以外でも人間関係があるわけで、そこには親密度の濃淡、信頼度の高低がある。

情誼が100パーセントの相手なら100パーセント信用できる相手といこと、つまり義兄弟。義兄弟の契りは絶対。

しかし情誼が40パーセントとか60パーセントなら相対的な関係になる。

それでは、情誼の説明を小室氏の本『中国原論』に頼って、経済(商売)の場面を利用して紹介しよう。

まず、資本主義社会における自由市場を思い起こそう。自由市場(完全競争市場)において、価格は需給によって決まる。しかし中国社会の市場は違う。「情誼が薄いものには高く売り、厚いものには安く売る」(p125)。

中国では、市場機構だけではなく、情誼もまた価格を決定する。この例からも明らかなように、情誼は、利害を基礎におく。利害(関係)の背後には情誼がある。

中国人の商売、商品(資本、労働力を含む)の売買は情誼によって規定される。また、情誼を深めるために行われる。このことを知らないと、中国では商売できない。スローガン的に言えば、商売の背後に人間関係あり。商売だけではない。賄賂もまた同じ。贈収賄の背後にも情誼がある。同じことを頼んでも情誼の深い人は、より少ない賄賂でやってくれる。情誼の浅い人は、大きな賄賂でないとやってくれない。情誼のない人は、どんなに大金を積んでもやってはくれない。つまり、賄賂のタダ取られである。

出典:中国原論/p132

以上の説明でわかるように情誼は

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出典:中国原論/p125

上図で外側の実線は情誼と(情誼の無い)他人の境界。情誼の中の点線は情誼の「深さの程度」を表している。

次に、商売上での情誼の深め方を書き留めておこう。

市場法則(例。価格決定)が、情誼の特性によって左右される!

彼らは金だけを追求する商売を軽視する。商売を通じて、豊かな人間関係が成立したにと満足しないのである(孔健『中国人―中華商人の心を読む』総合法令、1994年)。

すなわち、中国人の商売とは、

商売は、金と物のやり取りをすることだけではない。人間と人間の付き合いなのだと彼らは硬く信じている(同右)。

それゆえに、中国では情誼の有無で二重価格が生じる。

全く同じ品物でも、中国では買い手によって、値段がちがう(同右)。

換言すれば、

商人は、情誼を深めたい相手には安く売る。また、安く売ることによって情誼をもつ相手のネットワークを広げてゆく(同右)。

そして結局、

中華商人は、買い手によって、価格が異なることを不道徳だとも不当だとも思っていない。
むしろ当然の商法だと考えている(同右)。

中国の二重価格は、人種差別によるものでもなく、寡占によるものでもない。情誼の有無による。[中略]

情誼の「有無」でなく、その「深さの程度」を変数にとれば、同様にして三重価格、四重価格・・・ ・・・も説明される。

出典:小室直樹/数学嫌いな人のための数学/東洋経済新報社/2001/p159-160

ただし、橘玲氏の引用にあるように、内輪と思われていない人は裏切られる(またはポイ捨てされる)可能性が低くない。日本人の社長がカモにされるのはそのためだ。

最後に

いちおう書いておくが、中国人の人間関係は上の説明よりももっと複雑だ。

小室氏によれば、「帮理論は、勿論、一つの理念型(モデル)であり、中国を理解するに当たっての、最も根本的ではあるが最単純な理念型」と ことわっている。



上述のデイリー新潮の記事に書いてあるが、人間関係の内と外を分けるということが「幇(パン)」の本質なのだが、このことについては次回の「二重規範」で書こう。


*1:徳間書店/1996/p19

中国人について② 人間関係 その1 宗族

中国の人間関係の一部「宗族」のことについて書く。

宗族とは何か

宗族とは《父系血縁集団+部外婚制》である。氏族(共通の祖先を持つ血縁集団*1 )の一種。

父系(血縁)集団では父から男子へ受け継がれる集団のこと。女系は排除される。男系の子孫だけが死んだ人の魂を祀ることができる*2

部外婚制は、宗族の外から嫁を娶ること。この嫁は結婚しても姓は変わらない。岡田英弘氏の言葉を借りれば、「いつまでたってもよそ者扱いされている」、「極論を言えば、中国において女性とは、跡継ぎを作るための道具に他ならない。」*3

部外婚制は、近親婚の生物学的弊害のこともあるが、嫁を娶ったり出したりすることで他集団と同盟(主に商売上のネットワーク)を結ぶことができるという効用がある。ネットワークの拡大は、商売の利益の拡大と災害などの困難時に頼るべき選択肢の拡大を意味する。

氏族集団の場合、構成員の相互の系譜関係が明確でないが*4、宗族の場合、父方の系譜をたどれば誰がどこの宗族かが分かるようになっている。ただし、数代前までの祖先を覚えていなければならないが。

同姓不娶(同姓不婚)という言葉があるように、同姓と結婚することはタブーだった。ただし同姓でも宗族が違えば結婚できるのだが、好まれないらしい。

宗族には、「輩行字(はいこうじ)」という慣習もあった。

輩行字(はいこうじ)とは、中華圏の名のつけ方の慣行で、同じ宗族の世代ごとに、名(諱、いみな)に特定の漢字を使うことをいう。漢字そのものを共通にするのではなく、同一の偏旁を用いることもある。

儒教社会では世代の尊卑が重要であり、年下であっても自分より上の世代の人間には敬意を表す必要があるし、呼び方も変わる。自分の属する世代(輩分・輩行)を示す輩行字は世代をはっきり示す意味がある。

一般に、輩行字に何を使うかは親が決めるのではなく宗族の会合によって決定・維持され、族譜に記される。記憶を容易にするために詩の形式になっていることが多い。

出典:輩行字 - Wikipedia

ただしこの慣行は「大陸では現在ほとんど廃れている」とのこと*5

輩行の慣習については宮脇淳子氏が詳しく解説している(【10月2日配信】皇帝たちの中国 第4章 第1回「中国の裏の主役~宗教秘密結社」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube の14分あたりから。

輩行の簡単な例として、宗族内の同世代に「重」という字を割り当てて、単家族ではなくて親戚の同世代に番号を振り分ける。上の動画では朱元璋の諱は「重八」だったが、単家族で兄が7人いたわけではなく、実兄ではない従兄弟に「重四」とか「重五」という名前の人がいたようだ。

このような慣習は長老格の人たちは宗族の後の世代の所属員を好き勝手に使うために作られた。これが、宮脇氏いわく、「長幼の序」の正しい意味だ。

次に、宗族を保つために必要なもの。

宗族に必要なものは一般に「族譜」、「族産」(祖先祭祀、子女の教育や相互扶助に用いる共有財産)、「祀堂」の3点セット。

出典:中国の宗族 - ダオ・チーランのブログ・パシフィック

族譜 - Wikipedia」によれば、これは系譜の他に、「重要な人物の事績、重要な事件、あるいは家訓などを記載した文書」とある。また、「女系の先祖・子孫は掲載されない。」

「祀堂」(祠堂)は祖先祭祀を行う場所。

血縁集団の利点

日本には「遠くの親戚より近くの他人」という言葉があるが、中国の場合は近くの他人は あくまでも他人で、親戚(宗族)の方が遥かに重要だ。

たとえば、異国の地で2人の見知らぬ中国人がばったりと合う。少し話をするうちに両者が同じ宗族だと分かると、その時から彼らは苦楽を共にする仲間になる。*6

世界各地に散らばるチャイナ・タウンは中国本土が不安定化した場合の移住先としての保険となるだろう。もちろんチャイナ・タウンに宗族の構成員がいればの話だが。

こう考えると、子息の留学先も亡命先の候補になり得る。現代の中国共産党幹部の子息の多くは海外留学をしているが、幹部たちは財産流出や海外亡命のために子息を海外海外留学させているのではないかと中国内外で囁かれている。

ただし、多くの留学生が超有名大学でちゃんと学業を修めて帰国している。どの程度の割合なのかはわからない。

小室直樹の中国原論

小室直樹の中国原論

宗族の歴史

中国人はどうして、上のように、地縁より血縁を頼るのか?歴史的な(?)答えは以下の通り。

宋代以降の宗族形成・拡大の主な要因は、
(イ)合格者とその一族はものすごい特権が得られるが世襲はできない科挙に、合格者を出し続けるため(遠い親戚までの大勢の中から優秀な子供を集め、資金も一族が共同負担して英才教育すれば、合格の確立は上がる)
(ロ)実際の生活・経営の単位である小家族が、激しい社会流動のなかで生き残るための相互扶助(特に明清代に切実になる。現代も?) に求められる。ただし地域差なども大きい。華北より華中南で宗族が発達するのだが、その原因は十分わかっていない。

出典:中国の宗族 - ダオ・チーランのブログ・パシフィック

上のリンク先は宗族の歴史にも簡単に言及している。

宗族の歴史は、
(1)周代の宗法(戦国期までに崩れる)
(2)宋代の士大夫の宗族形成
(3)(明初にいったん弾圧されるが)明代中期以降とくに清代の宗族の大衆化
の3段階で理解できる(革命で弾圧されたが、改革開放政策下で復活)。
発表を聞いていて思ったのだが、従来の周代だけ教えるやり方は、紀元前から19世紀までずっと同じ状況が続いたと誤解させる点で、インドのカースト制(ヴァルナ制)の教え方と同じだ。これではいけない。

出典:中国の宗族 - ダオ・チーランのブログ・パシフィック

宗族と地域社会

以上、宗族は地縁集団ではなく血縁集団であることを述べてきたが、戦乱のような社会流動が無い平時は基本的に地域集団として機能している。

宗族が強い機能をもつのは、地域集団化していることも一つの条件になる。一村落の大半が同一宗族で占める、いわゆる単姓村や、複姓村であっても一定の区画に集まり住んでいる場合、日常の相互協力や外敵からの防御に有利である。また一集落にとどまらず、隣接数集落にわたって万を超す人口が集まっている例も華南や台湾中部においてみられる。

このような経済力を反映し分化をとげた宗族の構成は、未開社会に多くみられる均質な個人を単位とする単系出自集団の場合とは対照的であり、中国のような文明社会で父系組織が根強く機能しえた原因の一つであった。また、中国の伝統的政治機構も、たとえば藩政期の日本のように個々の農民を直接掌握せず、在郷地主であり知識人でもある郷紳層を介しての間接的なもので、村落レベルでの紛争も反乱に結び付かない限り、これら有力者を中心とした自治に任されていたことも、宗族の結合を強めた。宗族内から高級官吏資格試験である科挙の合格者を出すことは、単なる名誉にとどまらず、地方政治における利害関係と結び付いていた。またときに武闘を交えた各宗族間の勢力争いに生き残るためには、内部に矛盾や対立を抱えていても、外に対しては団結する必要があった。多額の費用と労力を要する族譜の作成や、豪華な装飾を施した祖廟(そびょう)ないし祠堂(しどう)、莫大(ばくだい)な面積を占める族田の存在は、こうした脈絡において意味をもつのである。

以上のような宗族は、宋(そう)代以降おもに華南において発達した。その原因としては、〔1〕名族が南に移り新開地で展開形成した、〔2〕入植開拓の際に必要であったこと、〔3〕治安の悪さから一族団結が必要であったこと、〔4〕水稲耕作による高生産力を維持するため、などと結び付けた説明が試みられている。[末成道男]

『モーリス・フリードマン著、末成道男他訳『東南中国の宗族組織』(1991・弘文堂)』

出典:宗族(そうぞく)とは - 日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク

石平先生に学ぶ宗族

特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか~宗族と一族イズム」石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube

特別番組「宗族を目の敵にした共産革命~中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム」石平 倉山満【チャンネルくらら・1月6日配信】 - YouTube

上の2つの動画で石平氏は宗族について詳しく語っている。

平氏の語るところによれば、もはや宗族は一つの国家と考えたほうが分かりやすい。

中国では一つの村は一つの宗族で成り立っている。村長は宗族の長で、彼が言わば国家元首だ。彼が政治のトップであり、裁判権を持ち、最高司令官でもある。

裁判権を持つ」というのは、村で起こった事件は、行政ではなく村の掟で裁かれる。

村長が最高司令官というのは、隣の村と戦争する場合の話だ。戦争は「械闘」と呼ばれる。1つ目の動画で詳しく説明されている。

「械闘」にもルールがある。「械闘」は行政からすれば刑事事件なのだが、「械闘」の当事者たちは絶対に行政に介入させない。「械闘」で死傷者が出た場合でも、行政に訴えることはせず、また個々人で敵討ちをすることも禁止されて、必ず「械闘」によって解決されるようにする。聞き手の倉山氏はこれらのルールは国際法そのものではないか、とコメントしている。

村の中で犯罪が起こったとき犯罪者は裁かれるが、村の外で起こったときはその犯罪が村の利益になるのならば、その犯罪者は村全体で守られる(こんな論理があったら「愛国無罪」の論理が通用するのもうなずける)。

教育も福祉も村で行われているとのこと。

さらに、歴代の統一中国の王朝は、北方からの征服王朝を除けば、全国の宗族(村)の「械闘」で一番強いところが統一王朝となる。ドイツ史においてプロイセン国王がドイツ皇帝になったことに似ている。まあ、古代ローマ帝国も同じようなものかもしれない。

以上、石平氏の宗族の説明からかいつまんで書いてみた。

上の動画は大変面白くて興味深い。石平氏の説明が全ての中国社会に当てはまるとは思わないが、私個人としてはこの説明にかなり納得している。

参考になる動画

平氏とは別の動画を紹介。

以下の動画の前半部分では、宗族を含む中国社会について東洋史家の宮脇淳子氏が説明している。

【7月24日配信】皇帝たちの中国 第2章 第3回「稲作伝来は朝鮮半島からではない?!高句麗は強かった」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube 2018



*1:氏族(しぞく)とは - コトバンクを参照

*2:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)/p84

*3:岡田氏/p84

*4:氏族(しぞく)とは - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

*5:族譜 - Wikipedia

*6:小室直樹小室直樹の中国原論/徳間書店/1996/p148