歴史の世界

人類の進化:ホモ属各種 ④ホモ・エレクトス 前編(ホモ・エレクトスと「人類の進化」研究の黎明期)

ホモ・エレクトスの最初の化石の発見は進化論の議論の盛り上がりの中で起こった。この化石の成果の発表が批判を浴びたことは当然の流れだったろう。「人類の進化」研究、つまり古人類学はこのように産まれた。

ホモ・エレクトスの歴史を知るついでに古人類学の黎明期の歴史を書き残しておこう。

進化論から「人類の進化」研究へ

チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)に触発され、ドイツの生物学者 エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)が1868年に『自然創造史』を出して、人類の進化に言及した。

ヘッケルはサルからヒトへ進化したことを証明する化石つまり「失われた環」(ミッシング・リンク)は熱帯アジアで見つかるだろうと主張した。どうやら彼は人類の祖先をオランウータンやテナガザルかその祖先と思っていたようだ。オランウータンやテナガザはアジアの熱帯のみに生息するので上記のように予測したのだろう。ヘッケルの他にもチャールズ・ライエルやアルフレッド・ウォレスなどが「熱帯アジア説」を唱えていた。

ちなみに、ダーウィンは『人間の由来』(1871年)で「アフリカ説」を唱えた。彼はゴリラやチンパンジーが人類の近縁だとした。そしてダーウィンのほうが正解だった。

ジャワ島での新種の化石の発見

ヘッケルはアジアで発見されるであろうミッシング・リンクに相当する動物(あるいは化石人類)にピテカントロプス・アラルス(Pithecanthropus alalus,pithec=サル,anthrop=ヒト,alalus=言葉のない)という名称さえ与えた。

ヘッケルの「アジア説」に触発されたオランダ人 ウジェーヌ・デュボワは1887年にインドネシア(当時のオランダ領東インド)に軍医として赴いた。そして1891年、ジャワ島のトリニールで「ミッシング・リンク」を発見した(臼歯と頭蓋冠)。

さらに翌年1892年に大腿骨を発見し、1894年に論文を発表した。彼はこの化石の種にピテカントロプス・エレクトス(Pithecanthropus erectus)と名付けた「エレクトス」は「直立する猿人」という意味らしい。日本ではジャワ原人と呼ばれている。

ただし、彼の成果がすぐに学界その他に受け入れられたわけではなかった。この頃はまだ進化論の風当たりが強く(聖書の天地創造に反するため)、これに加えて化石自体が本当に「ミッシング・リンク」なのか、ただのサルの骨なのではないかと疑われ論争になった。論争の渦中にいたデュボワは標本を他人に見せることを止め、あまり人と交わらない静かな晩年を送ったという。

北京での発見

時代は下り、場所も変わって、1920年代の北京に移る。

第一次大戦後、スウェーデンの地質学者ユハン・アンデショーンは中国(中華民国)に地質学者を育てる助っ人外国人として招かれていた。彼は漢方薬に使われる竜の骨(竜骨)に興味を持ち、1921年、オットー・ズダンスキーとともに竜骨の採掘場である北京周口店地区の竜骨山で発掘を開始した。そして1923年、先史時代の人類の臼歯の化石を発掘した。彼らは化石を祖国に持ち帰って分析し、その結果を1926年に発表した。ただし、この発表では まだ新種の化石であるとしていなかった。

1926年にもズダンスキーにより2つの臼歯が発見された。そして1927年彼はこれをホモ属のものとして発表した。

1927年、(ロックフェラー財団が創立した)北京協和医学院の教授だったDavidson Blackはこれらの化石を新種のものとしてシナントロプス・ペキネンシスSinanthropus pekinensisと命名した。のちに北京原人として一般的に知られるようになる。

その後 発掘作業は拡大し、1929年には中国人学者 裴文中によって頭蓋を含む大量の化石が発見された。しかしこの化石は日中戦争の中で紛失された。幸いにも、1934年に亡くなったBlack氏の後継の教授のドイツ人Franz Weidenreichが化石の詳細な記録を残していたため、頭蓋のレプリカを作成することができた。

ホモ・エレクトスへの統合

北京での相次ぐ発掘により、再びジャワ島が注目された。G. H. R. von Koenigswaldは1931-1933年のガンドンでの発見を初めとしてジャワ島の各地で化石を発見した。

1937年、Weidenreich氏はジャワ島のKoenigswald氏を訪問するなど両者は北京とジャワの新種類似性や比較検討について連絡しあった。その結果、両者の類似性と近縁種だということを認め、シナントロプス属を取りやめ、先取のピテカントロプス属に統合することにした。この決定についてデュボワは認めなかった。

第二次大戦後、アフリカ・ユーラシアの各地で上記の2地域の化石と類似した化石が相次いで発見され、比較検討された結果、これらを一つの種として統合され、ホモ・エレクトスとされた。ただしホモ・エルガステルのように意見が別れているものも少なくない。

おまけ:人類の「アジア起源説」から「アフリカ起源説」へ

戦後、ジャワ島・北京での大量の化石の発掘により、人類はアジアでサルから誕生した、という説が有力説または通説となった。デュボワの主張が批判を浴びせられた時から数十年たち、時代はすっかり変わった。

しかし、さらに大きな変化が起こる。

1925年、レイモンド・ダートが南アフリカホモ・エレクトスよりもさらに古い時代の化石を発表した。彼はこれにアウストラロピテクス・アフリカヌスと名づけた。しかし、この化石の脳容量が小さいために、学界では類人猿のものと判断され、ダート氏の主張はほとんど無視された。

しかしこれを強く支持したロバート・ブルームは、自らも南アフリカで発掘を始め、1938年、アウストラロピテクス・ロブストス(パラントロプス・ロブストス)を発掘した。

さらに古人類学界では有名なメアリー・リーキーが1959年、東アフリカのタンザニア・オルドヴァイ渓谷でジンジャントロプス・ボイセイ(のちのアウストラロピテクス・ボイセイまたはパロントロプス・ボイセイ)を発見した。次いでメアリー氏の夫と息子、ルイス・リーキーとジョナサン・リーキーが1964年にホモ・ハビリスを発表した。

これにより、今度はダーウィンのアフリカ起源説も注目され、大勢の古人類学者がアフリカで発掘を始めるようになった。アフリカ起源説が有力または定説になった。

最後に付け加えておけば、ネアンデルタール人の化石が最初に発見されたのは1829年だそうだ(この頃は進化論を議論する人も少なかった時代だから仕方ない。何か分からない骨をよく保存しておいたものだ。)

参考文献



こうして古人類学は紆余曲折して現在にいたっているが、おそらく現在も紆余曲折の途上にいるのだろう。通説や有力な説が覆されるのは珍しいことではない。これは歴史学でも同じ。

教科書を編纂する人は大変だ。