歴史の世界

楚漢戦争⑫ 劉邦、決起す

前回に続き、劉邦について書く。今回はいよいよ決起の場面を書く。」

決起

秦の二世皇帝の元年(紀元前209年)7月、陳勝呉広の乱が起こった。この乱は陳勝を王とする「張楚国」の建国という形で成功を収める。これを境に各地で庶民が県令を殺して決起する情勢になった(県令は秦の中央政府から派遣される)。

劉邦がかつて務めていた沛県の県令は、このような状況で一旦は秦に対して決起する決断をしたが、その後に決起を取りやめようとしたので県民に殺された。県民は逃亡していた劉邦を迎え入れて県令として決起した。

亭長の職を放棄して盗賊の親分となっていた劉邦を県令として迎え入れるというのは腑に落ちないところがあるのだが、腕っぷしの強い人間が一人でも欲しかったという事情もあるだろう。しかしいちばん重要なのは沛県を県令の代わりに事実上仕切っていた蕭何・曹参が劉邦を選んだということだ。おそらく決起の前に連絡や根回しをしていたのだろう。

ともかく沛県は県令の犠牲によって一致団結して決起することとなった。劉邦はこの時点で二、三千の兵を得た。

初戦からの順調な出だし

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出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/巻頭

沛県の決起に反応して泗水郡の監(郡のナンバー2)が出兵してきた。劉邦は沛県に属する豊邑(劉邦の故郷)で応戦してこれを破る。既成の軍ができたばかりの反乱軍に敗れる要因としては、地元で徴兵された泗水郡の兵たちが寝返ったと考えるのが自然だろう。

その後、劉邦は攻勢にまわり、泗水郡の守(郡のナンバーワン)と戦い、これを殺した。この後も亢父、方与と転戦した。

故郷の豊邑が寝返る

劉邦は順調に軍を進めていたが、ここで豊邑が魏軍に寝返ったという報を聞くことになる。

上述したように、張楚国を建国した陳王(陳勝)は各地の反秦勢力を吸収するためにそれぞれの地域に軍を派遣した。二世2年(前208年)10月、周市(しゅうし、しゅうふつ)は魏に派遣されこれを平定した。

そして周市は豊邑に使いを出して以下のように言わせた。

「豊は元々、梁の人が移住した場所である。(周巿は)魏の地の数十城をすでに平定している。雍歯が降伏すれば、(雍歯を)侯に封じて、豊を守らせよう。降伏しないのなら、すぐに豊を屠るだろう。」 *1

豊邑はかつて劉邦の親分であった雍歯が守っていたが、雍歯は劉邦の下につくことを快く思っていなかった。そして雍歯は戦わずして魏に降った。

劉邦は兵を返して豊邑を攻めたが取り戻せずに沛県に帰るしかなかった。

高祖本紀に詳しく書いてはいないが、碭などの豊邑より西の地域も劉邦の手から離れたようだ。

秦嘉を頼る

二世2年(前208年)12月 *2、 中央から派遣された秦軍が張楚国の都・陳を陥落、滅亡させる。

陳王は逃亡してまだ行方不明という時期に、東海郡(現在の山東省南部と江蘇省北部)を支配していた秦嘉は甯(ねい)君と共に景駒(楚の貴族である景氏の出身)を楚の仮王とする楚国を建国する。これは張楚国が滅亡した今、自分たちが反秦勢力の中心だと宣言するためのものだ。

秦嘉は郯を本拠地にしていたが、今度の楚国の首都は留県とした。留県は沛県の南東約20キロにある(上の地図参照)。劉邦はすぐさまこの陣営に参加することにした(完全に服属したのではなく客将になったようだ)。

劉邦は豊邑を攻略するために秦嘉に兵を貸してくれるように求めた。これに対して秦嘉は兵を貸す条件として、西方から東方へ進軍してくる秦軍と戦うことを求めた。

この時の情勢は、張楚国を滅亡させた秦軍が東進して泗水郡の郡都の相県を攻略し、そして劉邦の盗賊時代の根拠地であった𥓘の沼沢地も秦軍の勢力下に置かれていた(ちなみに豊邑は、所属する韓が秦軍によって全面的に攻め込まれているのでほとんど孤立状態だったと思われる)。

劉邦は甯君と共に秦軍と戦うこととなる。楚軍は初戦では敗れたものの留で体制を整えると𥓘で秦軍を敗走させることに成功した(2月)。劉邦は𥓘で五、六千の兵を得て *3 、さらに下邑を陥落させた後、留に戻った。佐竹靖彦氏によれば、𥓘は劉邦の、下邑は呂氏一族のかつての縄張りだったので、これら2つの地で得た兵は元々彼らの「息のかかった連中」であった *4

このあと3月に劉邦は豊邑を攻めたがこれを陥落させることはできなかった。『史記』秦楚之際月表 によれば、このとき劉邦は項梁の兵数が多いことを聞き、豊邑を攻めることを要請している(どうやら聞き入れられていないようだが)。

張良との出会い

陳勝呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。その頃、陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧公族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、劉邦に出会い、これに合流したという。

張良は自らの将としての不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。

出典:張良 - Wikipedia

  • 史記』留侯世家がネタ元。

張良始皇帝を暗殺未遂を起こしたことは有名だが、お尋ね者になった張良は下邳に隠れていた(地図参照)。下邳から留に行く途中で劉邦に会い、意気投合して彼の配下になったという。

引用の中の「沛公はまことに天授の英傑だ」(沛公殆天授)の部分は佐竹氏は「沛公は天がわたしに授けてくれた特別な人物である」と解釈している(p254)。軍師の才はあるが、軍を率いる能力を持たない彼がこのように思っても不思議ではないだろう。

項梁の楚国に参加する

4月、会稽郡から北上してきた項梁は秦嘉の楚国を認めず滅ぼしてしまった。項梁が薛に留まって反秦勢力を集めて会盟を開くと、劉邦もこれに参加し、客将(別将)の一人となった。

劉邦は薛で項梁と会見すると、項梁は劉邦の要請に応じ、兵卒5千と五大夫の将(高級将校 *5 )10名を劉邦を与えた。劉邦はこれを以って豊邑を攻め、ようやく奪還に成功した。

これ以降も項梁の客将として行動することになる。



*1:周フツ - Wikipedia

*2:秦暦は10月が年始となる

*3:『史記』秦楚之際月表 によれば、劉邦の兵は総勢九千になった

*4:佐竹氏/p251

*5:佐竹氏/p260