歴史の世界

進化:進化にまつわる歴史① ダーウィン以前

ダーウィン自然淘汰説が出る以前は聖書に書いてある天地創造説と古代文明の頃からあった自然発生説が信じられていた。

この世にある全てのものは神によって創造されたという天地創造説は中世西欧では当然のこととして受け入れられていたが、科学的知識が増加してくるに比例して、これに疑念を抱くようになる。これに対応しようとした教会側は自然神学を持ち出してきた。

いっぽう、自然発生説は古代より信じられていた説でアリストテレスもこの考えに基づいて『動物誌』や『動物発生論』を著している。


1623 スイスのギャスパール・ボアン、『植物対照図表』の一部で二名法を採用。
1686 イングランドのジョン・レイ、『植物誌』で種の概念を発表する。
1691 ジョン・レイ、『神の英知』で自然神学を説く。
1694 フランスのジョゼフ・ツルヌフォール、『基礎植物学』で種の上に属、目、網を立てる。
1735 スウェーデンのカール・リンネ、『自然の体系』で生物の分類を体系化した。二名法を本格的に採用し、分類学の祖と言われるようになる。
1802 イギリスのウィリアム・ペイリー、『自然神学』でデザイン論を発表。
1809 フランスのジャン=バティスト・ラマルク、『動物の哲学』で獲得形質の遺伝による進化論を発表。
1844 スコットランドのロバート・チェンバース、匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版。進化論が注目を集める。
1858 イングランドのアルフレッド・ラッセル・ウォレスとチャールズ・ダーウィンの共同論文を発表。自然選択による進化論を世に出すが、あまり注目されなかった。
1859 ダーウィンの『種の起源』が出版される。注目を集める。
1861 フランスのルイ・パスツール、『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定。
1865 オーストリア帝国のグレゴール・ヨハン・メンデル、『植物雑種に関する研究』を発表。発表当時は反響がなかったが、後世に「メンデルの(遺伝の)法則」として有名になる。
1940年代 ネオダーウィニズム(総合説)が成立。
1968 遺伝子の「分子進化の中立説」をNatureに発表。


自然発生説

自然発生説とは、「生物が親無しで無生物(物質)から一挙に生まれることがある」とする、生命の起源に関する説の1つである。一般にアリストテレスが提唱したとされている。近代に至るまでこれを否定する者はおらず、19世紀までの二千年以上にわたり支持された。

フランチェスコ・レディの対照実験を皮切りに自然発生説を否定する実験的証明が始まり1861年ルイ・パスツール著『自然発生説の検討』に至って、自然発生説がほぼ完全に否定された、とされる。

アリストテレスによる観察・判断・考察

紀元前4世紀ころのアリストテレスは、様々な動物の出産の様子(親の体から産まれる様子)なども観察した人物であるが、彼は多種多様な生物をじっくりと観察した結果、生物の中には親の体からではなく物質から一挙に生まれるものがある、と判断し、自著『動物誌』や『動物発生論』において多数の動物を自然発生するものとして記述した。例えば、ミツバチやホタルは(親の体から以外に)草の露からも生まれ、ウナギ・エビ・タコ・イカなどは海底の泥から産まれる、と記述した。

アリストテレスのこれらの観察はルネサンス期まで疑いなく人々に受け入れられており、疑う人はいなかった。

出典:自然発生説<wikipedia

天地創造と自然神学

聖書には唯一神が生命を含む万物を創造したと書かれており(天地創造)、長く信じられてきた。しかし西欧では17世紀の科学革命あたりから天地創造の物語に疑念を持つ信徒が急増し、協会側は対応を迫られていた。

18世紀初めの哲学者と進学者にとっての大きな問題は、科学が知的生活を支配し始めて以来そうであったが、理性と信仰とを調和させることであった。とりわけ、苦境にあったキリスト教会側は、キリスト教の教義と科学とを調和させることの必要性を痛感した。自然神学はそうした目的にかない、教会にも知性のある人々にも受け入れやすく、17、18世紀を経て19世紀半ばに到るまで自然神学全盛の時代となる。

出典:門井昭夫/ジョン・レイの『天地創造の御業に明示された神の英知』/健康科学大学紀要 第11号/2015(pdf)/p2

そもそも本来の自然神学とは聖書の文言や神の啓示に頼らずに、自然環境などの客観的事実の考察・判断からキリスト教の真理性を証明しようとする神学である。

中世西欧ではイスラム圏から輸入されてきたアリストテレスなどの古代ギリシアの知識が聖書と相反することが多く書かれていたためこれに対応するために自然神学が持ち出された。中世西欧の自然神学ではトマス・アクィナスが有名。

そして17世紀以降は上述のとおり、科学革命に対応するために自然神学が持ち出された。

ジョン・レイの『神の英知』

17世紀末と18世紀初めに代表されるのが上述したジョン・レイの『天地創造の御業に明示された神の英知』(通常『神の英知』で通用する)である。レイは「イングランド博物学の父」とも呼ばれるように科学者としても有名だが、この書の目的は科学的研究の発表ではなかった。

当時かなりの科学者たちが無神論者であり、それらの人々に神の御業の偉大さと英知とをつぶさに証明し、侵攻へと導くことがこの講話の目的であった。

出典:門井氏/p5

そして博物学者としての知識を披露し、とりわけ人間が如何に完全で申し分ない出来であるかを長々と説明し、その後に「神に感謝を捧げよう」と説く*1。また神を少しでも疑うことは「人を惨めにする」とした(門井氏/p19)。

[『神の英知』]は18世紀には、科学と神学の権威ある書物として広く読まれ、版を重ねて非常に大きな影響を及ぼした。その内容の多くがペイリー(William Paley)の『自然神学』(Natural Theology)に取入れられて、『神の英知』はさらに寿命が延び、その影響は後の時代にも及んだ。

出典:門井氏/p2

ペイリーの『自然神学』では『神の英知』からの無断借用が後半に見られ、剽窃と言われている。*2

ウィリアム・ペイリーのデザイン論

イギリスの聖職者、ウィリアム・ペイリー (William Paley 1743-1805)が『自然神学』(1802)*3という本を書いた。

この本の中に有名な時計職人の例え話がある。

この例え話の内容を手短に書くと、「時を測ろうと、という目的をもった時計職人が、上手く時が測れるようにデザインした」ように、「生き物がうまく生きられるようにと神様が目的をもってデザインした」*4というもの。

ペイリーは、『自然神学』という本を書き、その中で目の作りの精巧なことなど、たくさんの例をあげて、デザイン論を展開しています。これは、それ以後、主流の考えとなりました。しかし、本書でも少し指摘しましたが、生き物はたいへんうまくできてはいるものの、必ずしも完璧ではありません。でも、ペイリーは、そのような生き物の不備なところには目をつぶっていたようです。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p194



*1:門井氏/p13

*2:門井氏/p4

*3:Natural Theology or Evidences of the Existence and Attributes of the Deity 自然神学、あるいは自然の外観から収集された神性の存在および属性の証拠

*4:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p194