歴史の世界

ルネサンス① 近世の始まりは「ルネサンス」から (宗教と個人の関係の変化)

近世の始まりはルネサンスから。

ルネサンス」という用語の起源

ルネサンスという語は、もとはギリシア語からきた宗教用語で「死者の再生」という意味の「パランジェネジー」と言う言葉を、フランス語式に言い直したもので、フランスでは「新しいものとして生まれ変わる」という意味で使われていた。それを歴史的な概念として用いたのは19世紀中頃の歴史家ジュール=ミシュレに始まる。

出典:ルネサンス<世界史の窓

ただし、リンク先のページにあるように、ミシュレ歴史観が現代の歴史観における「ルネサンス」とは違っている。

ルネサンス」という用語の意味合いの変化

上の引用元に「ルネサンス観の変化」という項目がある。これに頼って「ルネサンス」という言葉の意味が変わっていったことを理解しよう。

ルネサンス」という用語・概念を最初に使ったのは先述したミシュレ。彼はフランス革命の影響を強く受けているフランス人の学者だというところが留意点。ルネサンスについて《政治的ならびに宗教的専制を拒絶して自由の精神と「人間」の尊厳》を強調したが、これはフランス革命ルネサンスを重ね合わせて、旧態依然としたローマ教会を敵視していることが読み取れる。

これに対して、19世紀中期の歴史化ブルクハルトは「個人の解放」を強調するが、ローマ教会への敵視は唱えなかった。

ミシュレとブルクハルトにより、「ルネサンス」の概念が定着した。ミシュレはローマ教会を敵視しすぎだが、2人が共通するところは、ローマ教会や聖職者の"ものの考え方" に従うだけだったことから脱却して、自分であれこれ考えて答えを出そうとする考え方に変わったということ。

2人はルネサンスによって「暗黒の中世」から画期的に変化したと思っていたが、その後の歴史研究の成果により、中世に十二世紀ルネサンスのような文芸興隆期が発見された一方で、ルネサンス期の後の魔女狩り宗教戦争、天動説・地動説騒動などの暗黒面があることを指摘され、《中世=暗黒時代、ルネサンス=明るい近代への序曲、といった単純な見方は影を潜め》るようになった。

ルネサンス」の中核「人文主義ヒューマニズム)」

ルネサンス」は、中世から近世・近代への変革への起点だ。政治・宗教・社会・芸術・学問・科学技術などが大きく変化していく起点となる。ヨーロッパ近代文明の起点と言ってもいいだろう。ヨーロッパ近代文明が世界征服して現代に至るのだから、ただ単に「近代文明」の起点と言ってもいいだろう。

ただし、無から有になったわけではなく、ヨーロッパ域内の文化の積み重ねがあることにも注意しなくてはならない。

さて、「人文主義ヒューマニズム)」の話。

日本で一般に「ヒューマニズム」といえば「人道主義」と呼ばれることのほうが多いが、ルネサンスにおいては「人文主義」と訳されるもので、別物であることに注意。

ヒューマニズムの語源はラテン語のフマニタス(humanitas)だ。

「フマニタス(羅: humanitas)」という概念は、既に古代ローマ時代にあり、ローマ市民が学ぶべき教養として理解されていた。これが中世においては、大学で教授される自由七科(教養学科)へと受け継がれた。こうした古典の研究は、特に14世紀後半以降フマニタス研究 (Studia humanitatis) と呼ばれ、その研究者は人文主義者(ユマニスト、ヒューマニスト)と呼ばれ始めた。

14世紀イタリアのペトラルカ以降、古典古代(ギリシア・ローマ)への関心が高まるルネサンス期になると、スコラ学的なアリストテレス哲学に基づく論理体系に対して、キリスト教以前の古代のギリシア・ローマの詩歌、歴史、修辞学の中に倫理の源泉を見いだそうとする動きが生じた。この点で、カトリックに対する人間中心主義とも言われるが、論理体系・視座において新たな姿勢を打ち出しただけで、キリスト教そのものを否定したわけではないし、必ずしもカトリックとの対立を伴ったわけでもなかった。古典研究に根ざした、教養ある人士の生き方、生活様式人文主義者(ユマニスト)の身上とされた。

出典:ヒューマニズム - Wikipedia

つまりは、人文主義者と呼ばれる人たちは古典古代の先生・学者・研究者で、この知見によって人生の指針を学ぼうとする人たちということができるだろう。

ルネサンス人文主義とローマ教会・キリスト教の関係

ただし、ローマ教会やキリスト教と全く無関係ではない。

14世紀末を生きたペトラルカは人文主義の先駆者とみなされているが、彼はペストの大流行を目の当たりにした。

当時はペストによって肉体的にも精神的にも人びとは危機に陥っていて、中世の来世肯定の世界観から現世肯定の世界観に変わりつつあった。キリスト教ではもはや救われず、新たな道が模索された。神のコスモロジー[引用者注:「ローマ教会の世界観」くらいの意味]から離れて、自分なりの世界観を確立しようという動きが起こり、ペトラルカはこうした状況のなかで、異教時代[古代ギリシア・ローマ時代]のなかの叡智に人間としての新たな生きる道を見出そうとした。

出典:澤井繁男/ルネサンス文化と科学/世界史リブレット・山川出版社/1996/p32

上記の「世界観」は人びとの文化・慣習・常識・規範などすべてのことだ。これらすべてをローマ教会に頼っていた。現代の目線からすれば「中世の人びとは文盲のままローマ教会にコントロールされていた」ということもできようが、当時の人達は神を信じて来世での救済を信じて慣習(世界観)に従って粛々と生きていた。

しかし、ペトラルカと同時代人はペスト大流行を目の当たりにして、頭の中の世界観が壊れてしまった。そして、上の引用のようにキリスト教でない別のもので世界観を再構築しようとした。初期の人文主義者はこのような考え方をしていた。

時を経て16世紀初めの人文主義エラスムスネーデルラント)はローマ教会を激しく批判するようになるが、このことは後述する。

「個人」の発見

ブルクハルトによれば「ルネサンスとは人間が精神的にも個人になった瞬間」であった。[中略]有力者との縁故や恩顧関係ではなく、個人の実力によって学者も画家も彫刻家も名をなして生ける時代になったのだ。

さらに16世紀に入ると、親方=助手(徒弟)という階層も徐々に弱まり、それまでは職人(アーティザン)として扱われた画家や彫刻家、建築家たちも、「芸術家(アーティスト)」として「個性(個人)」を表に出していけるように変わっていった。彼らは祖俺が自分の作品であるということで、絵画や彫刻に「署名(サイン)」を入れるようになった。

出典:君塚直隆/ヨーロッパ近代史/ちくま新書/2019/p44-45

ここで言うところの「個人」の発見も、既述したようなローマ教会の世界観からの離れることを意味する。もっと言えば、独立、独り立ちということもできるだろう。

ただし、それができるようになったのはパトロンとかスポンサーがいたからだ。これは次回に。

注意点としては、上の著者によれば、「個人」の発見がそのまま近代の個人主義になったわけではない、と。

具体的な代表例

出典:youtube動画【聖母子で見るルネサンス】時代ごとの画風の変化が聖母子で丸わかり!マサッチオにアンジェリコ、ラファエロまで【美術様式カンタン解説!知ると世界史がもっと見えてくる】

左がチマーブエ(1240-1302)、右がその弟子のジョット(1267-1337)。ジョットがルネサンスの先駆者の一人とされる。キリスト教への信仰が厚い中世では、聖母子を人間らしく書くことは神への冒涜とされ、聖像画(イコン。神の肖像画)はわざと平面的に描かれていた。だから聖母子を立体的に、人間らしく描いたのは画期的とされる。

文学では、ルネサンスの先駆者と言われるダンテ(1265-1321)の「神曲」が宗教的で神秘的な描写を描いているのに対し、ボッカッチョ(1313-1375)の「デカメロン」は人間社会を生々しく描写している。 *1


*1:澤井繁男/ルネサンス文化と科学/p11