農耕の起源について続けて書いてきたが、この記事では農業(農耕と家畜)の起源について書く。もしかしたらアフリカ史的には農耕起源より家畜の起源のほうが重要かもしれない。
他の多くの地域もそうだが、アフリカの農業の起源についてある程度の通説を形成するには まだ蓄積が足りないらしい。
アフリカ大陸の気候について
アフリカ大陸の地図と気候
まずはアフリカ大陸の地図
植生の季節変動、2月と8月
緯度と気候の関係
大気の大循環のモデル
海陸分布や地形の影響を受けるので、実際の風の吹き方はこの図の通りにはならない。地表面を吹く風は、北半球では進行方向右へ、南半球では進行方向左へ曲がる。
(1)熱帯収束帯(赤道低圧帯) 赤道付近ではあたためられた大気が上昇気流を生じ、低圧帯となり降雨がもたらされる。
(2)亜熱帯高圧帯(中緯度高圧帯) 赤道付近で上昇した大気が冷やされ、緯度20~30度付近で下降気流が生じて高圧帯となり、晴天がもたらされる。[以下略]出典:中村和郎 監修/よくわかる地理/学研教育出版/2013/p49
熱帯収束帯は熱帯で常に低気圧なために常に雨が降り熱帯雨林が、亜熱帯高圧帯は亜熱帯で常に高気圧なため常に晴天で砂漠が、形成される。そしてアフリカ大陸では上の地図のようになる。
熱帯雨林気候と砂漠気候のあいだにはサバナ気候とステップ気候がある。サバナ気候は熱帯に属し、夏季と雨季を持つ。ステップ気候は乾燥帯に属し、夏季と雨季を持つが雨季でも少量の雨しか降らない。サハラ砂漠の南縁のステップ地帯をサヘル(地帯)と呼ぶ。ちなみに、サヘルから大地溝帯以東の東アフリカを除いた中央・西サヘルのことを(歴史的)スーダンと呼ぶ(これは歴史で使われる地域名称であり、現在の国名とは別物だ――スーダン(地理概念)<wikipedia参照)。
完新世前期のサハラ砂漠
『農耕起源の人類史』*2によれば、完新世前期のサハラ地域は現在よりも湿潤で、前8000年頃の砂漠は現在の北半分ほどまで縮小していた。年代は学者によってマチマチだが、サハラの中央部にあるタッシリ・ナジェールの先史時代の岩壁画遺跡には8000年以上前の絵画には水牛、象、サイなどの動物が描かれ、前4000年ごろのものも象やキリンが描かれていた。これが前3500ごろの絵画になるとウシの放牧が描かれ、水牛など絶滅した動物は姿を消した*3。
乾燥化したサハラは砂漠が南下した。これに伴いサハラの南部で暮らしていた人びとは南下を余儀なくされたが、一部は東のナイル川流域に移住し、エジプト文明の文化形成に寄与した。
エジプトの農業経済の出現
かつては多くの学者はエジプトに農耕起源があると思っていたようだが、そこに祖先野生種が存在せず、西アジアから農耕技術のパッケージが到来するまで農耕の形跡はなかった。農耕技術到来の時期は前5500年だが、この時期はギリシアやイタリアよりも遅かった。その理由はレヴァント(地中海東岸)とナイルデルタのあいだに人を近づけないシナイ砂漠があったからだ。
結局、エジプト文明の農業の由来はほとんどが西アジアで、唯一と言っていい「起源」が家畜化された在来のウシだけだった。*4
ウシの家畜化
多くの考古学者はアフリカでのウシの家畜化は前6000~5000年以降であるとの見解を示している。その他のヒツジやヤギの家畜化は西アジア由来だ。
フィオナ・マーシャル(Fiona Marshall)とエリザベス・ヒルデブランド(Elisabeth Hildebrand)は東アフリカにおける初期のウシ家畜化について、その主な原動力は「予想可能な資源へのアクセス」への願望であったとしている。別の言葉でいえば、ウシを放牧するのには十分な環境ではあるが、つねにウシが生存できるほど湿潤ではない環境下に住むグループは牧畜をし、環境に左右されるたびに資源条件のよい地域に移動するような方式に転換した。このシナリオは西南アジアで起った順序をくつがえすものであり、もっとも興味をそそられるものである。サハラ以南のアフリカでは、放牧と土器制作は植物の栽培化以前におこったと考えられ、家畜化の初期段階は定住性ではなく移動性とともに発展した。
出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p162-163
西アジアでは「定住化→農耕→家畜」の順で出現したが、アフリカでは移動性狩猟採集民がウシの家畜化をするようになった。エジプト南部にあるナブタ・プラヤ遺跡やビル・キセイバ遺跡は完新世前期の湿潤期においてウシの牧畜をしていた。
ウシの牧畜は完全な定住の条件下で行われたわけではないようだ。上述のナブタ・プラヤやビル・キセイバは夏場の放牧地だったようだ*5*6。また環境の変化で放牧地が利用できなくなった時は、速やかに別の場所を探すしかなかった。このような移動性は広範なネットワークをつくった。ウシの牧畜はサヘルと湿潤化されていたサハラで行われていた。このネットワークの中で文化が伝播していった*7(余談だが、中央ユーラシアの遊牧民も同様なネットワークがあり文化を共有した。東西ユーラシアの伝播の担い手にもなったと思われる)。
農耕の起源について
[アフリカにおける]作物のなかでもっとも重要なものは、穀物のモロコシ、トウジンビエであり、両方とも乾燥したサヘル地帯とサバンナ地帯で栽培化された。アフリカイネとギニアヤムは西アフリカの森林―サバンナ境界の作物となった。さらに西アフリカのアブラヤシ、ササゲ、ピーナッツ、またエチオピアの作物としてシコクビエ、粉にして平たいパンをつくる穀物のテフ(Eragrostis tef)、葉の根本の一部を食用にするバナナの仲間であるエンセーテ(Musa ensete)などがくわわった。
前述したすべての穀物は西南アジアと中国の穀物同様一年生である。しかし、アフリカの穀物は他家受粉の傾向が強く、意識するしないにかかわらず、人間による選別は、野生植物が分布する範囲外に植えられた場合のみ機能したであろう。このことは非常に重要であり、アフリカの穀物は西南アジアのものほど容易には栽培化されなかった可能性がある。高度に合目的になった人間の行為が栽培化の過程を完結させるのに必要だったのかもしれない。
もしそうであるなら、アフリカ在来植物の栽培化が近年になってからおこった証拠が発見されてもそれほどおどろくにはあたらない。トウジンビエは紀元前訳2000~1500年にモーリタニアのダール・ティシット(Dhar Tichitt)と北ガーナのビリミ(Birimi)で栽培化が開始された。モロコシとアフリカイネは紀元前一千年紀にようやく栽培化された。モロコシとアフリカイネがアジア北西部とおそらくアラビア半島に、後期ハラッパー文化(紀元前1900~1400年頃、詳細は第4章参照)にもちこまれたという証拠から支持される。紀元前2000年以前、雑穀は実際に栽培されていたかどうかはともかくとして、野生植物としては採集されていた。
出典:農耕起源の人類史/p161-162
年代についてはまだ論争中で、栽培が前5000年にまで遡るという説もあるようだ。上の著者ベルウッド氏はアフリカ在来の野生の穀物が他家受粉であることを重要視して、年代を遡らせることに慎重だ。書籍には書いていなかったが、西アジアの栽培に関する知識がアフリカ在来穀物の栽培化に寄与したと考えているのだろう。
アフリカ中・南部における農耕の出現
紀元前1500年、熱帯雨林とおそらく赤道以南のすべての地域をふくんだアフリカ大陸の南半分は、狩猟民と採集民の土地としてのこされていた。つまり、有史以前の世界における、もっとも衝撃的で広範囲におこった農耕拡散がはじまるまでは、ここは未開拓のままのこされたのである。
出典:農耕起源の人類史/p166
アフリカ大陸の赤道付近の熱帯雨林地帯には「ツェツェバエ地帯」である。ツェツェバエはヒトや家畜を重病または死に追いやる感染症を引き起こすので人びとの移動を制限した。