歴史の世界

近世イングランド史④ クロムウェルの独裁:共和制の時代の始まり

前回からの続き。

アイルランドスコットランド侵攻

国王チャールズ1世は1649年の1月に処刑され、クロムウェルは権力を掌握した。

49年8月にアイルランド、50年7月にスコットランドを侵略開始。アイルランドスコットランドイングランドと同君連合の関係だったがイングランドの共和体制を認めず、王党派を迎え入れていた。

アイルランドの実権を握っていたアイルランドカトリック同盟はイングランドの王党派と同盟を結んで対抗したが大敗した。

その際、一般市民も含む大量虐殺が行われた。この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。

出典:クロムウェル<世界史の窓

スコットランドはチャールズ1世の死刑の直後の2月に息子のチャールズをスコットランド王すると宣言して、51年に戴冠式を挙げた。クロムウェルアイルランド侵攻を部下に任せて50年7月にスコットランドに侵攻してスコットランド全土を掌握した。チャールズは大陸に逃げた。

航海法(航海条例)

航海法が成立したのは1651年

航海法の内容
 イギリスへのアジア・アフリカ・アメリカからの輸入はすべてイギリス船によること、ヨーロッパからの輸入はイギリス船かその生産国、あるいは最初の積出国の船によることを定めた。

航海法のねらい
 当時、独立を達成して海外貿易に進出し、イギリスの重大な競争相手となってきたオランダの中継貿易に打撃を与えようとしたものである。必ずしもクロムウェルの政府の政策ではなく、レヴァント、東インドイーストランドなどの貿易商人の要望によって議会で成立したもの。イギリスが自国の貿易、及び産業をオランダの脅威から守ろうとした、重商主義政策である。イギリスへの輸入を自国船か生産国の船に限定することで、中継貿易に依存しているオランダに打撃を与えることになる。

出典:航海法<世界史の窓

第一次英蘭戦争(1652-1654)

イギリスは航海法に基づいてオランダ船に対して臨検捜索を通告し、取り締まりを開始した。1652年5月29日、ドーヴァーでオランダ商船がイギリス艦艇の臨検を拒否、護衛していた艦隊同士が互いに砲撃し、開戦となった。イギリス海軍が準備万端であったのに対し、オランダ海軍は準備不足のため多くの船舶を失い、指揮官トロンプ提督も戦死し、敗れた。しかし、翌1653年に護国卿となったクロムウェルは戦争継続を望まず、1654年にウェストミンスター条約で講和した。このときクロムウェルオラニエ公を総督にしないことを約束せよとせまり、デ=ウィットもそれを受け入れた。クロムウェルは自らが処刑した国王チャールズ1世の娘婿であるウィレム(後のウィレム3世)の総督(実質的なオランダ国王)就任を恐れたのだった。<リートベルゲン/肥塚隆訳『オランダ小史』2018 かまくら春秋社 p.178>

出典:英蘭戦争<世界史の窓/イギリス=オランダ戦争

イギリスは自分たちが勝手に作った法律でオランダに難癖をつけて戦争を仕掛けた。アヘン戦争の時と似たものがある。

クロムウェル、護国卿就任(1653)

第一次英蘭戦争終結と話が前後するが、護国卿の話。

イギリスの議会は、前回の記事で触れた長期議会(ランプ議会)がまだ続いていた。この議会では上記の戦争の中で混乱していた。クロムウェルは国民に人気があったが、議会の多くは戦費が増えすぎていることに対して軍縮を訴えていた。

これに対してクロムウェル一派は銃兵隊を議会に乱入させて長期議会を解散させた。その後、短期間の混乱の後、12月にクロムウェルが護国卿に就任するという形で、彼による軍事的独裁が確立された。

クロムウェルの死(1658)

クロムウェルの独裁は長くは続かなかった。53年に体制を整えたが、58年にインフルエンザに罹って死んでしまった。

その間の出来事としては、上記の戦争と、議会に王位に就く要求を拒否したことくらいだ。

王になったほうが権力が増すと思うかもしれないが、イギリスの場合は(王と議会の権力闘争のすえ)王の権力がかなり制限されているので、クロムウェルは独裁ができる護国卿にとどまることを選択した。

クロムウェルの死後は息子のリチャード・クロムウェルが護国卿を継いだが、凡才であったため支持を保つことができず、わずか8ヶ月で辞任せざるを得なかった。