歴史の世界

秦代③:政策(3)郡県制(租税の話も含む)

前回に続いて今回も政策の話。

今回は郡県制について。

以下は郡県制の簡潔な説明。

統一後最初におこなったのは、封建制を廃して全国を郡に分け、直接統治する方法(郡県制)の採用である。始皇帝は王綰(おうわん)の献策をしりぞけ、李斯の説をとって全国を36の郡に分け、太守(守とも略称、長官)、丞(副長官)、尉(軍の指揮官)、監(御史、監察官)を中央から派遣した。郡は戦国時代末期からおもに征服地におかれてきたが、支配地全域にそれを拡大し、征服戦争の功臣にも封邑地を与えなかった。郡の下には、商鞅変法以来の行政単位である県がおかれ、ここにも中央から令、丞が派遣された。

出典:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/2003/p340(太田幸男氏の筆)

ポイントをいくつか説明する。

封建制と郡県制

西周代は封建制を採用していた。封建制とは基本的には王族に領地を与えて統治させる制度。江戸時代の幕藩体制に近い(同じではないが)。 周王室の本拠地(畿内)以外の直接統治は能力的に無理だったので封建制にせざるを得なかった。秦では直轄統治の郡県制を採った。

「征服戦争の功臣にも封邑地を与えなかった」

「征服戦争の功臣にも封邑地を与えなかった」理由について。封邑地を与えられた功臣は諸侯となる。諸侯になるとその地を地盤として中央政府に反抗する可能性がある。これは世襲の代が下るにつれて可能性は高まる。郡県制はこの可能性を最初から排除できる。

秦代になると、西周代に比べてあらゆる技術が発達していたことも郡県制を可能にした要因となる。例えば強大な軍や整備された道路網、攻城戦の戦術などは西周代には無かった。

秦帝国の寿命は短かったわけだが、秦代で作り上げられた郡県制は前漢武帝の代になってよみがえことになる。

郡や県には中央から官僚が派遣される

郡や県には中央から官僚が派遣される。江戸時代の「お代官様」と同じ。世襲制ではない。彼らの下で働くのは現地人。

県の下部単位の郷には父老、里には里典、伍には伍老などの宗族の代表者があって、官吏と共同して統治しているという実状にあった。秦朝の中央集権体制もこのような意味では小宗族の群に支えられている[以下略][好並隆司]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/郡県制(ぐんけんせい)とは - コトバンク

「県」の中身(租税の話)

「県」は本来は軍事拠点としての機能を持っていたが(後述)、郡県制の下での県は商業都市であった。軍事拠点は交通の要衝なのだから平時は商業都市になってもおかしくないだろう。

以下は岡田英弘『この厄介な国、中国』 *1 の説明による。

県の中では定期市が開かれるわけだが、この定期市に参加して商売したい人間は、まず市場の組合員になる必要がある。城壁都市の四つの壁面にはそれぞれ頑丈な扉がついた門があり、その内部全体が市場になっているのだが、そこには管理事務所とでも言うべき県庁がある。この県庁をまず訪れて、この城壁の中で商売をするための登録をする。

もちろん、組合員であるためには一定の義務を果たさなければならない。まず第一には、組合費としての税金を納めなければならない。これを「租」という。租は原則として現物納付である。つまり、農産物を売るのであれば、その農産物の一部を管理費として納める。そして市場の設備維持や修理のために労働力を提供すること。また、非組合員であるその土地の原住民に対して組合員の特権を守るため、自警団に出る、つまり兵役に服することなどである。

ところで、この組合員の支払う「租」は実は皇帝の収入にはならない。マーケットの管理をする役人や、都市を防護するための軍隊の維持に充てられ、皇帝の私的な収入とは別払になる。皇帝の個人的な収入になるのは、都市の城門、あるいは交通の要衝を商人が通過する際に納める「税」によって賄われていた。(p53-54)

都市に食料を供給するために、そのまわりに農地が広がっていく。そうした農地からも年貢を徴収するのであるが、この年貢も皇帝や王にとっては、それほど重要なものではなかった。

日本の封建時代の場合、農地からの年貢は武士にとって、唯一の収入源と言ってもよかったわけだが、中国の場合、もっと大きな収入が都市から上がってくるのだから、重要度は低くなって当然である。現に中国の場合、年貢の徴収額は一定で、どんなに豊作になろうとも年貢を上げたりしなかった。

といっても、農民の生活は楽ではなかった。というのも、各都市に派遣された管理者(知事[=(県)令--引用者])が自分の俸給として、年貢の他にも農民から巻き上げるからである。知事は基本的に無給であって、その報酬は自分の力で農民から取るということになっていた。そこで、都市に派遣された知事はとにかく農民から絞り上げたわけだが、これは知事の私的な税金のようなもので、商売の利潤で食っている皇帝には関係のない話である。(p55-56)

「郡」は「軍」なり

郡県制の「郡」は何か。日本では「県」の下に「郡」がありますが、秦では「郡」の下に「県」があります。そして、「郡」には中央が軍隊を送ります。つまり「郡」と「軍」は同じ意味で、軍隊が入ったところが「郡」なのです。その郡が県を監督し、治安の維持にあたります。

出典:【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝|歴史チャンネル

郡県制を説明する時、「郡の下に県がある」というわけだが、実は郡と県は別系統で、郡が軍事、県が政事を行ってる。郡の経費は管轄下の県から上がった租の一部で賄われているようだ。兵隊も同様に管轄内から徴兵されたのだろう。

統帥権は中央にあるのだから、郡の太守の権限は限られていたと思われる。さらには県令のように甘い汁を吸う場面も無かったか ごく限られていたのではないか。

全土を36郡に分割する

36というのは水徳の6の自乗数。つまり地域の事情で分割したのではなく、数字の事情で分割したということだ。

この後、秦は外征によって新しい領土を獲得したため48郡まで増えた。まあ48も6の倍数なのだが。

  *   *   *

さて、ここからは郡県制に関連する話をしていく。

郡県制の採用への流れ

史記』始皇本紀 *2 によれば、郡県制の採用の決定は、「皇帝」の称号の採用を決定した御前会議と同じの場で為された。

会議の冒頭で始皇帝は臣下に向かって以下のように発言した。

六国の王を捕虜にしたのは、それぞれの正当な理由があった。韓王、趙王、魏王、楚王は盟約にそむき、燕王は暗殺を謀り、斉王は外国と断交した。だから罪ある六王にたいして兵を興したのだ[以下略]

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p45-46

以上は『史記』始皇本紀の始皇26年の《秦王初并天下,令丞相、御史曰》以下の意訳。

臣下はこれに同意し、「皇帝」の称号の採用など幾つかの事項を決めた後に地方の統治制度の話に移る。

丞相王綰が発言するには「燕、斉、荊(楚)は遠方であるため王を置かずに統治するのは無理です。皇子を封建することを提案します *3」。

始皇帝が臣下にこの提案に対して意見を問うたところ、皆が賛同した。しかし、ひとり廷尉(司法長官)李斯が反論する。

周の武王が子供兄弟同姓を地方に封建しましたが、時代が下るに従い疎遠となり、諸侯は相争うようになり、周王室はこれを止めることができませんでした。
現在、陛下の神霊の力によって海内(中華)は統一され郡県の地となりました。あえて諸侯を置いて逆賊の種を育てる必要などありましょうか。 *4

始皇帝は李斯の意見を採用、すなわち郡県制を採用した。

李斯は元々呂不韋の家来だったが、のちに始皇帝のブレーン(懐刀)になった人物。この御前会議の前に始皇帝と李斯が申し合わせていた、なんて想像すると歴史が楽しくなる。もちろん本当のところは私には分からない。

「郡」「県」の変遷

秦はすでに戦国時代から占領地に郡を置き、その下に県を置いて支配していた。[郡県制は]それを全国化したものといえる。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p248

つまり、始皇帝たちは、戦国秦の従来の制度をそのまま使用した、ということ。

吉本道雅氏によれば *5 秦漢的郡県制の形成が見られるのは早くても戦国後期ということだ。

「県」の上限は、前350年に《多様な名称をもち、国家との関係も様々であった邑を統合して[県」》としたこと、「郡」の上限は上郡(魏の旧領?)の太守が恵文王五年(前320年)に製造した戈が知られている、とのこと。

さて、それでは秦漢的郡県制より前の「県」と「郡」はどういうものだったのか。以下はひらせたかお氏の説明に依る。 *6

「県」について

「県」は春秋時代にまで遡る。大国が小国を滅ぼす過程で軍事拠点として県が設置され、中央から長官を派遣した。このような事情から県は辺境(国境沿い)に見られる。

この長官の一般的な役職名は「令」または県令。当初 県令は世襲性が強かった。ひらせ氏は「国内諸侯」という言葉で表現している。ただし春秋時代のうちに次第に世襲の権利が脆弱になっていった。つまり王の都合で交代させられる例が増加していった。戦国時代では代々の王の近親者が県令になる例が多かった。

戦国時代の県令は「君」と称された。一般的に「封君(ほうくん)」と呼ばれた。趙の平原君、魏の信陵君が有名。

戦国時代の県令(封君)は軍権は無く、軍権は中央の将軍に統帥できるものとした(ひらせ氏は「建前上」と書いているので実際は軍権を持っている例があったのかもしれない)。

「郡」について

「郡」という語は春秋時代にあったが、秦代の「郡」と同じではない。それは晋国において国境沿いに設置された軍区を指した。

県を統括する意味での「郡」が登場するのは戦国時代に入ってかららしい。上述の吉本氏の「秦漢的郡県制の形成が見られるのは早くても戦国後期」ということを考えれば、県を統括する意味での「郡」の登場は、すなわち郡県制の登場を意味するのかもしれない。

上述のひらせ氏の本には郡の長官「守」の権限については言及されていない。

(秦代の「郡」については上で書いた。)



*1:WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(1997/クレスト社)を改訂したもの)/p52-56

*2:史記/卷006 - Wikisource 参照

*3:《燕、齊、荊地遠,不為置王,毋以填之。請立諸子,唯上幸許。》私の意訳

*4:「周文武所封子弟同姓甚眾,然後屬疏遠,相攻擊如仇讎,諸侯更相誅伐,周天子弗能禁止。今海內賴陛下神靈一統,皆為郡縣,諸子功臣以公賦稅重賞賜之,甚足易制。天下無異意,則安寧之術也。置諸侯不便。」私の意訳。 《[十八史略 天下を分って三十六郡と為す - 寡黙堂ひとりごと](https://blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/e/5b83e521da9bfcec9a7273871383bbce)》参照。 ただし、このブログ記事は『十八史略』の現代語訳。

*5:国史 上/昭和堂/2016/p57(吉本道雅氏の筆)

*6:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p293-295