歴史の世界

エジプト文明:第1中間期① 第7王朝、第8王朝

第1中間期は、古王国時代と中王国時代の間の混乱期を指す。文字資料も考古学的資料も かなり少ないので分かることだけ集めて、書いておこう。

もう一つ。古王国時代の崩壊の原因である気候変動について書く。この問題は第1中間期を覆う問題だ。

気候変動(寒冷化)

古王国時代の崩壊と気候変動(寒冷化)については前回紹介した。この寒冷化は崩壊後も続いたことも前回に書いた。

ここで、気候変動について少し詳しく書いておこう。

古王国時代の崩壊の原因の一つが気候変動であるという説は、近年に主張されたものだ。

この説のキーパーソンはフェクリ・ハッサン(Fekri Hassan)。彼の説を中心としたTV番組が少なくとも2つ制作されている。

一つは、前回書いた西村洋子氏のウェブページ*1で紹介されているディスカバリーチャンネルの番組「エジプト王朝滅亡の謎」。

もう一つは、BS朝日で放送されたBBCの番組「古代の黙示録:エジプト古王国の滅亡」。この番組の原題は「Ancient Apocalypse - Death on the Nile」で2001年に放送されたものだ。元の番組の方の紹介は「Mysterious Questions In The World」というブログの記事「エジプト第一中間期の不思議」でされている。

BS朝日のウェブページから一部引用しておこう。

今から4200年ほど前、古代エジプトの古王国が謎の崩壊を遂げる。崩壊の謎に挑み、驚くべき事実を発見したのがエジプト人考古学者フェクリ・ハッサン教授である。教授は、古王国が王ファラオの後継者争いで滅亡したとする通説に疑問を抱いた。そのきっかけとなったのが、1971年に発見された、古王国滅亡直後の州侯アンクティフィの碑文である。そこには、エジプト南部が壊滅的な飢饉に見舞われ、飢えた人々が我が子を食べるに至ったとの、ショッキングな記述があった。果たしてそれは真実なのか。ハッサン教授の30年に渡る検証が始まる。

1996年、エジプト北部のナイル・デルタで、古王国時代末期の9000体に及ぶ骸骨が発掘された。古王国崩壊には、自然環境が関係していると直感していたハッサン教授は、エジプトの恵みの源であるナイル川に注目する。毎年定期的に氾濫し、肥沃な土をもたらすと信じられていたナイル。教授は、実は数年に一度は氾濫時の水位が低く、不作を招いていたことを突き止めるが、それだけでは、150年は続いた古王国崩壊後の暗黒時代は説明できない。

出典:古代の黙示録:エジプト古王国の滅亡 - BS朝日/ BBC地球伝説

最終的にハッサン教授が辿り着いたのが気候変動だったというのがこの番組のキモだ。

この気候変動は、「4.2kイベント」と呼ばれるもので、「4.2 kiloyear event - Wikipedia英語版」によれば、寒冷化は前2200年から約100年間続いたとされている。これは地球規模の現象で、例えば隣の地域のメソポタミアではアッカド王国が滅亡したのもこの気候変動が原因だという説もある。

この気候変動でエジプトはどのように環境が変わったのか?箇条書きにしてみよう。

  • 寒冷化により、ナイル川上流の降水量が激減した。
  • ナイル川の水位が下がり、ナイル河谷やデルタの農地に水が行き渡らなくなる。
  • 旱魃が起こる。餓死者が大量発生(古代エジプトは農産物のほとんどをナイル川に頼っていた*2 )。
  • 古王国時代の崩壊。その後もエジプト全土を飢餓の危機が覆う時期が続いた。

この説の証拠を箇条書しよう(BS朝日の番組紹介文と西村氏のディスカバリーチャンネルの番組の記録より抜粋)。

  • 第9王朝(紀元前2160年頃 - 紀元前2130年頃)の第3ノモスの君主アンクティフィー(アンクティフィ)の墓の碑文に当時「壊滅的な飢饉に見舞われ、飢えた人々が我が子を食べるに至った」ことが記されている*3。(ハッサン氏はこの碑文を見て古王国時代の崩壊の原因は天災だったのではないかと思うようになった。また、この碑文は崩壊後も最悪の事態は続いていたことを物語っている)。

  • 「1996年、エジプト北部のナイル・デルタで、古王国時代末期の9000体に及ぶ骸骨が発掘された。」*4

  • 「エル・マンスーラはデルタに存在した古王国の大都市でしたが、古王国以降の土器が発見されていません。デルタの他の集落跡でも同様で、デルタには古王国には27も集落跡があったのに、古王国崩壊直後にはたったの4つに激減していました。古王国はデルタの農業、牧畜、漁業で支えられていました。もしナイル川の氾濫が無いと、それらの産業もピラミッド建設も出来ません。」*5

  • ハッサン氏がファイユーム地方のカルーン湖で数箇所ボーリング調査をしたところ、この湖が古王国時代崩壊の時期の数十年のあいだ干上がっていたことが分かった。「積もっていた古王国時代の堆積物は乾燥して、風で持ち去られてしまったのだ!」*6

第1中間期の様相は「古王国時代は天災により崩壊した。人々は飢餓に苦しみ、人口は激減した。しかし、残った人々によりエジプト文明は なんとか受け継がれて次の時代に受け渡された。」といったところだろう。

第7王朝、第8王朝(前2181年-前2160年)

第7王朝の資料は ほとんど無い、というか第7王朝の存在自体がフィクションではないかと言われている。

第8王朝に関しては、資料は極少ではあるものの遺っており、この王朝は第6王朝の後継者であるらしい。少なくとも王朝は そのように主張している。

第8王朝の有名な遺物はカカラー王のピラミッドとコプトスの勅令の石碑。

カカラー王のピラミッドは第1中間期の唯一のピラミッドだが、底辺の長さが31.5mとかなり小さい*7クフ王:230m、第6王朝歴代王:78m)。

これより重要な史料がコプトスの勅令の石碑だ。

コプトスの勅令の石碑についてwikipediaでは以下のように書いてある。

第6王朝のペピ1世の治世から第8王朝にかけてコプトスで公布された勅令を記した石碑。全部で18の石碑の断片から成り、そのうち12個が第8王朝の時代に公布された。同王朝の歴史を知る数少ない史料で、勅令の中身が王権が衰退していく様子を反映している。

出典:エジプト第8王朝 - Wikipedia

この石碑(石碑群?)によって、第8王朝が第6王朝の後継政権であることが分かる。

Coptos Decrees - Wikipedia英語版」によれば、その内容は、第6王朝の文がコプトスのミン神殿(の神官たち?)への税免除などで、第8王朝のものはシェマイというコプトス出身の高官(おそらくコプトスの州侯)とその家族に関する記述がある。

wikipediaのページから再び引用。

王朝後期に在位した4人の王については僅かながら情報があり、上エジプトのコプトス侯シェマイによる勅令が刻まれた石碑で言及されている。 [中略] シェマイという人物はカカラーの次の王ネフェルカウラーの治世中に上エジプトの長官を務めており、次のネフェルカウホル王の代には王の娘ネビエトと結婚して宰相の地位に就いたという。彼の代に出されたコプトスの勅令の内、八つはネフェルカウホルの治世中に公布されたことが石碑の記述から判明している。 上エジプト長官の地位は古王国時代から上エジプト諸州を統括する者として設けられており、第8王朝が第6王朝と同じように上エジプトの有力諸侯と姻戚関係を結ぶ政策を採っていた事が分かる。

出典:エジプト第8王朝 - Wikipedia

さて。第8王朝は上で書いた程度のことしか分からないのだが、エジプト全体としてはどのような状況だったのか?以下に引用。

中王国時代のパピルス文書は、王国として政治的にも全くの無秩序におちいった第1中間期の騒乱を記録している。

[中略]おそらくペピ2世の末裔である第8王朝の王(アビドス王名表にある約17人の王)がメンフィスに住んで、全土の覇権を主張していた。だが実際には、デルタ地方ではすでに東方からのいわゆる「アジア人」に侵略されており、またテーベはもはや上エジプトの第4ノモス(州)の首都ではなくなっていた。また、ヘラクレオポリス(現代のベニ・スエフ近辺)が中部エジプトの中心となり、第8王朝の国王は、メンフィス周辺の限られた地域しか掌握していなかった。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p90

第8王朝の王が約17人とあるが、確実に実在したとされるのは4~5人だそうだ。

第8王朝の最後はヘラクレオポリス勢力(のちの第9王朝)によって打倒された。



*1:My Notebook-5_西村洋子の雑記帳 (5)」の2008年9月22日(月)の記事

*2:ナイル川と農産物の関係については「ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台」の節「ナイル川は生命線」で書いた。

*3:BS朝日の番組紹介文

*4:同上

*5:西村氏のページより引用

*6:上述のブログ「Mysterious Questions In The World」のBBCの番組の記録より

*7:Qakare Ibi - Wikipedia