歴史の世界

エジプト文明:古王国時代⑪ 政治・行政の歴史 後編

第5王朝

この時代になると、官僚組織から王族が撤退するようになる。このことについては「太陽信仰とオシリス信仰」で書いた。

高宮氏は「第4王朝半ば頃のメンカウラーの治世から王族以外が宰相に任命されるようになり、官僚職の王族離れが始まった」(p172)としている。

王族でなければ誰が官僚になったのだろうか? ヘリオポリスの神官たちとしか考えられない。

エジプト第5王朝 - wikipedia」によれば、「[第5]王朝の祭儀や行政的な面ではラーを祭るヘリオポリス古代エジプト語名イウヌ)が重要性が増していた(クレイトン 1999, p.251*1 )」とある。

世界史的に前近代において、行政レベルの文書を扱えるのは役人か宗教徒の上層だけだ。

第5王朝からの祭祀儀礼や行政の複雑化・肥大化によって、ヘリオポリス出身の神官・官僚たちの数は膨れ上がった。それだけでなく、彼らが裕福さを享受していたことが官僚墓の副葬品や内部の壁画などにより、分かっている。

祭祀儀礼や行政の複雑化・肥大化は古王国時代の衰退の一因とされているが、第4王朝まで王族に独占されていた美術方面の文化が王族以外の神官・官僚たちにより下層に拡散されていった、とも言えるかもしれない。

地方行政もこの時期に行政の複雑化・肥大化が始まっている。第4王朝までとは違い、「官僚たちが担当地域に居住するようになっていたと推測される」(高宮氏/p177)(ただし上エジプトのみ)。

中央官僚の地方行政に対する関与がどの程度だったかは分からなかった。

第8代ジェドカラー王の治世にオシリス信仰の衰退が起き、オシリス信仰が中央まで及ぶようになった。このことについても「太陽信仰とオシリス信仰」で書いた。

下は西村洋子氏のウェブページからの引用。

王は太陽礼拝を放棄し、太陽神殿を建造しませんでした。そのため、ラー神の礼拝は重要性が減少し、オシリス神の礼拝が表立つようになりました。一方、アブシールでの諸王の葬祭礼拝の再編成を行いました。その結果、諸王の葬祭礼拝に関わる官職とその特権は今や下級官吏たちに与えられました。

出典:西 村 洋 子/History of Ancient Egypt_第5王朝/2006年9月16日

ただし、太陽信仰の勢力は抑えられたものの、官僚の肥大化は止められなかったか一時的なもので終わってしまったようだ。官僚の肥大化は古王国時代の衰亡の原因の一つとして挙げられている。

第6王朝

エジプト第6王朝(紀元前2345年頃 - 紀元前2185年頃)は、エジプト古王国時代古代エジプト王朝。エジプト古王国時代最後の王朝であり、その初期には活発な対外遠征を繰り返して周辺諸国を征服した。やがて第6王朝の中央権力の弱体化とともにエジプトの各地で州の長官たちが自立勢力となり、第1中間期と呼ばれる分裂の時代が訪れた。この王朝の崩壊を以ってエジプト古王国の終焉とされる場合が多い。

出典:エジプト第6王朝 - Wikipedia

官僚の肥大化の様子は初代テティ王の治世から窺える。

王のピラミッドを挟むように2人の宰相、メレルカとカゲムニのマスタバ(墓)があるが、これらはピラミッドに匹敵するほど巨大で、内部は見事な壁画で飾られている。この2つの墓は現在は観光スポットになっている。

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出典:カゲムニのマスタバ墳 - JTB 海外観光ガイド

世襲化したノモスの太守(州侯)の勢力も盛大で、上のwikipediaのページには「当時エジプトでは州侯(各州の太守)や上級官吏の勢力が増大しており、テティは婚姻によって有力官吏家との関係を強化することを志向した」とある。

第6王朝は古王国時代の最後の王朝なので、最初から衰退してゆくイメージを描く資料が幾つか見られる。官僚や地方勢力の肥大化によって王の権威が以前よりも落ちたことは事実だろう。

しかし、引用の前半を読むだけでも分かるように、この時期も繁栄した時期があることが窺えるし、リンク先を読めば単純に衰亡しているだけではないことが分かるだろう。

遠征・海外交流

この時代の遠征・海外交流の記録が幾つか遺っている。これらによると、王たちは四方に遠征隊を派遣し、多数の物品を輸入し、交易路を整備し、外敵に勝利した。

これらの内容は上述のwikipediaのページの他に、西村洋子氏のページ「History of Ancient Egypt_第6王朝」に ほどよい長さの文章で説明されている。

エジプトから海外への輸出品は穀物や東部砂漠から採れた金や鉱物だったと思われる。

衰亡への道

不可逆的な衰退は第5代ペピ2世の後半に現れる。

ペピ2世の長期に渡る統治の後半になると、王権の統制が地方へと及ばなくなりはじめた。元々第5王朝以来、行政機構の整備に伴って激増した官吏達の報酬の確保が困難となっていた。このため、元来葬祭儀礼等に関わるピラミッド都市などの管理職や領地を給与・恩賞として与える政策を採っていた。この政策は有効であり、第6王朝の長い安定と対外遠征の勝利はこうした処置によって得られた強力な官吏に支えられたものであった。そしてこうした役職や給与を下賜することによって王自体も官吏らに対する権威を保っていた。しかし、これは長期的には官吏の勢力を王の手の付けられない規模まで拡大する効果も齎した。既に第6王朝の初期から州侯職を世襲する有力家系が発生していた。上述のクウイ家もそうした家の1つである。ペピ2世の治世後半にはこれら州侯に対する中央政府の統制は緩んでいった。取り分け上エジプトの長官(ヘリー・テプ・アー)が、上エジプトの地方神殿の管理権を手中に収めるなど、上エジプトにおける第6王朝の影響力は大幅に減退した。

ペピ2世が死去する頃には中央集権国家としてのエジプト第6王朝は既に有名無実のものになっていた。彼の死後相次いで王位についたメルエンラー2世(メルエンラー・ネムティエムサク2世)とネチェルカラーは共に極めて短期間のうちに地位を失っている。

出典:エジプト第6王朝 - Wikipedia

衰退のもう一つ大きな原因として、馬場匡浩氏は環境の悪化を挙げている。

古王国時代後半は地球規模での寒冷期(4.2kイベント)であり、ナイル川の水位が低下した。それにより不作が続き、争いが絶えずおき、疫病が蔓延した。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p110

「4.2kイベント」とは、およそ前2200年(4200BP。「BP」については「BP (年代測定) - Wikipedia」参照)に起こったとされる寒冷期。メソポタミアアッカド王国もこの寒冷化が滅亡の原因だという説もある。

古王国時代の次の時代は「第1中間期」と言うが、この時代の中の第9王朝(紀元前2160年頃 - 紀元前2130年頃)の第3ノモスの君主アンクティフィー(アンクティフィ)の岩窟墓の壁面に以下のように書かれている。

私は飢えた人にパンを与え、裸の人に服を与えた。私のオオムギは、南は下ヌビア、北はアビドスまで運ばれた。上エジプトの人々は飢餓で死にそうで、子供を食べる人までいる。しかし私のノモスでは飢えで死ぬようなことはさせなかった。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p114

引用したページでは社会的混乱としているが、その社会的混乱の原因は寒冷化なのだろう。

古王国時代の崩壊についても西村氏のウェブサイトで紹介している(「My Notebook-5_西村洋子の雑記帳 (5)」の2008年9月22日(月)の記事)。




これで古王国時代はおわり。


*1:古代エジプトファラオ歴代誌』 吉村作治監修、藤沢邦子訳、創元社