第12王朝は、8人の王を出しておよそ200年続く。最後の2人を除けば有能な王が続いた王朝のようだ(都合の悪い記録を遺していないか発掘できていないだけかもしれないが)。
6代目の王の治世で最盛期を迎えるが、7代目が若いうちに子をもうけずに亡くなり、8代目で王朝は終わる。
センウセレト1世
先王暗殺の事態をすばやく収拾した後、先王の軍事政策を継続させた。南方への遠征を繰り返し行い、ナイルの第2急湍まで進出して13もの要塞を設置し、領土化した。オアシス地帯にも遠征したことが分かっている。
これらの遠征の主要目的は鉱物の産出と安全なルートの確保であった。
領域内では、ワディ・ハンママートの硬質石材、コプトス付近の金などが産出されている。
王の建築したものの中で有名なのが、太陽神の聖地ヘリオポリスのラー・アトゥム神殿の再建だ。彼が建てたオベリスクは現在も遺っている。
晩年の少なくとも3年は、息子のアメンエムハト2世と共同統治した。
アメンエムハト2世
王は遠征を紅海まで推し進め、プント国まで進出した。
プント国のあった位置は正確には分かっていないが、ヌビアのさらに南にあり紅海に接していたらしい。候補としてはソマリア付近かその北付近が挙げられている。
古文献に示されたプントへの道筋と、プント国の比定地
目的は乳香・没薬(香料)やトラの毛皮など。没薬はミイラの遺体の防腐処理にも使われた。
外交ではクレタ島やレバノンのビブロスとの接触が分かっている。
テーベの少し南、トードにあるメンチュ神殿基部から貴重な宝物が発見されている。それは蓋にヒエログリフでアメンエムハト2世の名を刻んだ4個のブロンズ箱で、中にはレバント産やエーゲ海産の多数の銀製カップ、バビロニアの円筒印章、メソポタミアのラピスラズリのお護りなどが入っていた。これらの宝物はおそらく外交上の贈り物か貢ぎ物であった。当時エジプトでは銀が金よりも貴重であったから、銀のカップはそれだけでも非常に珍重された。
またこの頃にレバント人の名が目立って増加した、とも書いてある。
内政ではファイユーム地方の開発が挙げられる。
ファイユーム文化の発祥の地であるこの地方は、王の治世でこの地方が狩猟・漁業・耕地として大きな可能性があると注目されて、開発事業が行われることになる。
この支流は以前より運河として利用されていたが、これをさらに広く深く掘削して灌漑をより効果的に行った。
この王も晩年の少なくとも3年間は息子のセンウセレト2世と共同統治を行った。
センウセレト2世
平穏な時代で、王はファイユームの耕作地を広げながら、地方の州侯と友好関係を築いた。中部エジプトのベニ・ハッサンにある州侯たちの大きな墓にある碑文(特にクヌムヘテプ2世の墓)は、王との良好な関係や、王が彼らに与えた名誉について述べている。
出典:クレイトン氏/p105
王のことでもう一つ書くべき事項が「ピラミッド・タウン」だ。
中王国時代の王もピラミッドを建造していて、センウセレト2世もその一人だ。
王のピラミッドはファイユーム地方南東部にあるラフーン(El Lahunまたはカフーン)にある*1。この地の古代の名は「El Lahun - Wikipedia 英語版」によれば、「rꜣ-ḥn.t」らしい。どう読めばいいのかわからないが、「運河の入り口」という意味だという。いっぽう、クレイトン氏によれば(p106)「元の名はヘテプ・センウセレト(センウセレトは満足する)であった」。センウセレトの治世以外はwikipediaの呼び名だったのかもしれない。
さて、ピラミッド・タウンの話。
そのプランは、一辺300m以上の壁体で囲まれたなかに通りが幾筋も走り、それに沿って2000軒以上の家屋が整然と並ぶ。まさに、国家によって造営された計画的なタウンなのだ。ピラミッドでの祭祀活動に仕える人々の居住が主な目的だが、ここには神官以外にも、彼らを支える商人や工人も住んでいたようで、およそ1万人が生活していたと推測されている。大小異なる同一規格の家屋が規則正しく配置されているが、それは明確な身分差の表れであり、国家によって厳しく統制・管理されたいかにも中王国時代らしい特徴を示している。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p121
クレイトン氏によれば(p106)、「カフーンは多くの所有物をのこしたまま突然放棄された形跡があり、エジプトのポンペイといった趣である」と書いている。氾濫などの天災があったのかもしれない。