第9王朝(前2160年頃 - 前2130年頃)
ヘラクレオポリスは上エジプト第20県(ナルト・ケンテト)の首都であり、ここに拠点を置く州侯は統一王朝の弱体化につれて自立勢力となった。ヘラクレオポリス侯だったケティ1世(メリイブラー・ケティ)は上下エジプト全域の支配権を手にして王を名乗った。上エジプトから僅かに発見されるケティ1世の遺物から、彼の権威が他の州侯達に認められていたことが窺われる。
マネトは第9王朝には19人の王がいたと伝えるが、彼が名前を記録している王はアクトエス1人だけである。これは第9王朝時代の王名ケティ、もしくはアクトイに対応すると考えられる。マネトによればアクトエスは以前の王達より残酷に振る舞い、全てのエジプト人に災難を齎した。そして最後は発狂し、ワニに殺されたという。このような伝承は、第9王朝の王が何人かの州侯を倒したことに対する反発から生まれたとする見解もあるが、史実性は不明である。一方でトリノ王名表では第9王朝に13人の王を当てている。また、いくつかの史料からネフェルカラー7世(またはカネフェルラー7世)という王の存在が知られている。
Copper container with Meryibre Khety's royal titulary. Paris, Louvre.
- ケティ1世の名のある銅製容器。
第9王朝が「上下エジプト全域の支配権」を手にしたと書いているが、おそらくこれは、本当に全域を支配できたわけではなく、第8王朝から王権を簒奪したことを意味しているのだろう。
エジプト学者の中には、この(古来からの王統を継承していた)第8王朝の滅亡を持って古王国時代の終わりとする向きもあるが、たぶん、少数派だ。
マネト(マネトー、マネトン)については「王朝時代の王名表/誰がエジプトを統一したのか?」で書いた。
アンクティフィの記録
第9王朝の記録を遺す遺物がほとんど無い中で、アンクティフィの墓の記録は重要だ。この墓の石碑に書いてある当時の社会的な惨状については「古王国時代⑪ 政治・行政の歴史 後編」で書いたが、彼が石碑に遺した「自伝」は貴重な記録となっている。
彼はヒエラコンポリスの州侯で、第9王朝第3代と考えられているネフェルカラー7世治世の人。
アンクティフィの頃にはすでにテーベ政権(第11王朝)が建てられていて、彼はこの勢力(メンチュヘテプ1世ら)と終始対峙していた。
第10王朝(前2130年頃 - 前2040年頃)
第10王朝は第9王朝の後継でヘラクレオポリスを拠点とする政権だが、両者の関係については不明。またどうして別れているのかも不明。
前22世紀末-前21世紀初頭頃のエジプト
上述のアンクティフィ亡き後、テーベ政権のアンテフ2世がヒエラコンポリス勢力を倒し、テーベ以南の上エジプトを呑み込んだ。さらにアンテフ2世は北上し勢力を広げた。
この時の第10王朝はケティ3世の治世だ。
第10王朝が比較的安定した時代を迎えるのはケティ3世の治世である。彼の時代に、第11王朝の王アンテフ2世による攻撃があり、一時は上エジプト第10県までが第11王朝の支配下に落ちた。しかしケティ3世はアシュート(古代エジプト語:サウティ[注釈 3])侯テフィーブの協力の下でこの攻撃を退け、逆に南下してアビュドスを占領することに成功した。この成功を背景に、第11王朝との間に元のアビュドス北の国境線で停戦するという合意を結ぶことに成功し、その後は友好関係の構築に尽力した。こうして南方国境を安定させると、下エジプト地方の統制回復に力を注ぐべく軍を北に向けた。
ノモスの位置。特に下エジプトについては未確定の要素が大きいことに注意。メンフィス(Memphis)の南が上エジプト、北が下エジプト。
ケティ3世が王太子メリカラーに対して与えた教訓であると伝えられる文書がある。これは現在『メリカラー王への教訓』と呼ばれており、かなりの部分が現存している。この文書は当時の王の責務など、王権観に関する記述や、倫理、政治的な問題に関する記述が多くある他、第10王朝が置かれた状況下で取るべき政策について論ずる記述も含まれており、当時の歴史を知るための第一級の史料である。文書の形式としては『カゲムニへの教訓』などの文書と同じ形式に従っている。
この文書で、ケティ3世は下エジプトにおいて海岸に至るまでアジア人を撃退し、彼らによって破壊された土地は行政区に分け、都市を築いてアジア人を撃退するための兵士で満たしたと宣言する。その上でメリカラーに対し、「自分のやったこと以上のことをやれる者を見たいものだ。」と語り、アジア人に対する対策法をかなり具体的に教えている。また、それとは別に南方(通常第11王朝と解される)との間の友好を保つように述べ、それによって南部の建材は「妨害されることなく」メリカラーの下に届けられるだろうと述べている。
ケティ3世の没後にメリカラーが王位についた。彼は下エジプトに侵入していたアジア人に対抗するためにメンフィスに一万人の兵士と役人を駐留させた。さらにメリカラー自らが下エジプトの防備を強化するために建築事業を強力に推進した。また第10王朝の王達は、ヘラクレオポリスから統治していたとしても、古王国からの伝統ある聖域であるサッカラをはじめとしたメンフィスの近郊に自らの墓を構築したようである。
以上の歴史の流れを見ると、エジプトはアンクティフィの頃のような絶望的な状況からは脱することができたのかもしれない。
メリカラーは先王の教訓を守って南方と争うことはしなかったが、南方から戦争をしかけられた。
戦争の原因としてティニス(=ティス、アビュドス)の反乱が上がっているが、よく分かっていないらしい。しかしこれをきっかけにテーベ勢力(第11王朝)のメンチュヘテプ2世が猛攻してきた。
複数の州侯の寝返りなどがあり、第10王朝の勢力圏は大幅に縮小した。そしてメリカラー王の死後数年後に滅亡した。