前回からの続き。
グナイゼナウ
シャルンホルストの死亡によりグナイゼナウが彼の後任となった。グナイゼナウは各師団に配属された参謀将校が直接参謀総長に意見上申できると定めた。また、命令伝達に命令を成文化した訓令を用いた。これによって命令の迅速な伝達と確実な理解を期待することができた。訓令を解釈するのは参謀将校の役割であるため、プロイセン軍は参謀を介して、統一した指揮系統を獲得することができたのである。
これは軍制改革の一部。戦争という非常事態に改革をやってしまうというのは古今東西の常套手段。しかし平時に戻ると元に戻そうとする力が働くのも普通のこと。プロイセンでもあったことだが、それは後の話で。
8月、第六次対仏大同盟が結成され、各方面からフランスに対する攻撃が開始された。プロイセン軍総司令官ブリュッヘルはグナイゼナウを信頼し、彼に作戦の立案から実行まで全てを委ねた。ブリュッヘルとグナイゼナウは、軍指揮官と参謀総長の住み分けのできる非常に呼吸の合ったコンビであった。また、グナイゼナウは同盟軍に自分と同じ考えを持つ参謀を派遣した。スウェーデン軍にはボイエン、オーストリア軍にはグロルマン、これによって各軍は遠く離れていながらも意思を共有することができた。 (出典:同上)
ボイエンもグロルマンもシャルンホルストの弟子と言っていいだろう。ナポレオン大戦争以前には煙たがられていたシャルンホルストの知識が、亡くなった後に開花することになった。プロイセンの軍制改革は戦争の近代化の重要な要素の一つだ。
9月、対ナポレオン連合軍はかつてない規模での分進合撃によって三方からフランス軍へ迫った。10月半ば、連合軍はライプツィヒ付近で40万を超える兵力の集中に成功し、ライプツィヒの戦いでフランス軍を撃破した。この勝利は戦略レベルでの包囲を完成させたグナイゼナウの作戦によるところが大きい。同盟軍はフランス本土へ侵攻、戦術的な敗北を喫することはあったものの、戦略的にはフランス軍を着実に追い詰めていった。1814年3月13日、ブリュッヘル直率のプロイセン軍はパリへ入城した。ナポレオンはエルバ島へ追放され、ポスト・ナポレオンを議論するウィーン会議が開催された。グナイゼナウは、ナポレオンを生かしておくのは危険であり、射殺すべきだと主張したが、これは聞き入れられなかった。同年末、対フランス戦の功績によって、グナイゼナウは伯爵に叙せられた。 (出典:同上)
分進合撃とは、上述のように軍隊(参謀)が迅速に密に情報を共有して統一的な攻撃をする、みたいな意味。今回の対ナポレオン戦争(ドイツ史では祖国戦争)の作戦は、ナポレオンが指揮する主力とは決戦を避けて後退し、多方面はヒットアンドアウェイを繰り返して消耗戦を展開することを徹底した。この作戦はグナイゼナウの構想だ。シャルンホルストからのナポレオン研究の賜物だ。この作戦は8月から9月にかけて行なわれて、ナポレオン・フランス軍はその数を削られていく。ナポレオンは前代未聞の作戦に嵌まっていることを理解できないままライプツィヒに入る。ここで「決戦」が行われ、最後はザクセン王国軍が寝返って勝敗は決まった *1。
つい1年前あるいは数ヶ月前まで仏軍の散兵戦術にやられていた反仏大同盟軍が、グナイゼナウの号令の下に上のような新しい戦争を世に示した。軍事革命が一気に二段階進んだ。
1815年のナポレオンの百日天下とワーテルローの戦いは、軍事革命の観点からすれば消化試合のような感すらある。ナポレオンはグナイゼナウの戦い方について全く理解も反省もしておらず、以前と同じような仕方で敗北した。これよりヨーロッパの政治も軍事も次の段階に入っていく。
(この時期に行われていたウィーン会議とウィーン体制の話は別の機会に。)
その後のグナイゼナウ。
戦争終結後、グナイゼナウはコプレンツ軍司令官に任命され、旧知のカール・フォン・クラウゼヴィッツを参謀長に取り立てた。グナイゼナウは軍務をこなしつつ、意欲的な献策をベルリンへ送り続けた。しかし、献言は入れられず、むしろフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は反動的な政治を行うようになった。1816年7月、失望したグナイゼナウは退官、王はザクセンの荘園を下賜した。 (出典:同上)
ナポレオン大戦争後、国王は改革派を遠ざけるようになる。クラウゼヴィッツもその一人だ。お貴族様(ユンカー)たちは既得権益を取り戻そうと躍起になり、軍制改革は停滞していった。それでも戦争中に暫定的に設置された参謀本部が常設になるなどの進展はあった。
改革については次回に。