ドイツ連邦のことは前回も書いたが、この時期はプロイセンがオーストリアの威勢を上回っていく過程の時期のようなのだが、高校教科書ではここらへんを飛ばしている。
ウィーン体制下のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世
以前書いた記事↓
フランス革命。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、第一次対仏大同盟に参加してフランスに侵攻したが、多くの犠牲者を出した末に講和条約を締結した(1795年バーゼルの和約)。そしてこの2年後に王は亡くなる。
次代は息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が継ぐ。典型的な優柔不断の無能の王で、ナポレオンによって国を滅ぼされかけた。1806年のナポレオンのベルリン勅令の時の王がこいつだ。
フリードリヒはナポレオンの強さを見誤って亡国の君主になりかけたが、これに懲りてシュタインらの自由主義的政策(プロイセン改革と言われる)を採用してナポレオン戦争を乗り切った。
プロイセンの歴史⑤ プロイセン改革 その1 - 歴史の世界を綴る
プロイセンの歴史⑥ プロイセン改革 その2 ハルデンベルクとシャルンホルストと軍制改革 - 歴史の世界を綴る
しかし、戦争が終わると自由主義を弾圧した。前回紹介したブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)がプロイセンにも波及したがこれを弾圧した。
また、1815年に発した勅令の中で憲法を制定することを言明したが、最後まで憲法は制定されなかった。
プロイセン改革の継承者で宰相だったハルデンベルクは亡くなる直前(1822)までその座に就いていたが自由主義的改革が進んだようには見えない。 *1。
ハルデンベルクの後は宰相を置かずに政治を差配した。フリードリヒは1840年に亡くなるが、それまで差配できたのだから無能と言ったのは言い過ぎだったようだ。
プロイセンの産業革命(産業化、工業化)
……[ドイツ]連邦の中でオーストリアと主導権を争っていたプロイセン王国は、1834年1月にドイツ関税同盟を結成して、同盟国間の関税の廃止、域内の自由通商に踏み切り、ようやく工業化の端緒をつかんだ。その発足は、イギリス古典経済学の自由貿易主義を否定し、保護貿易によって遅れたドイツ産業を育成すべきであるという経済学者リストの主張に沿うものであった。 そのそれによって、1840年代にラインラントを中心に工業化が進み、産業革命の段階となった。ドイツの鉄道も関税同盟結成の翌年の1835年に始まり、40年代に急速に普及した。その結果、機関車やレールの材としての鉄鋼と、蒸気機関の燃料としての石炭の需要が急増し、同時に工業の中心地が東部のシュレジェンから西部のラインラント、ルールやザールに移った。
出典:産業革命<世界史の窓
この流れで、19世紀後半にはイギリスと争うレベルの強国となっていくのだが、その話は別の機会に。
ドイツ関税同盟の説明。
ウィーン体制下のドイツ連邦は35の主権国家(領邦)、4つの自由都市からなる連合国家であり、それぞれが政治・経済で独立した主権を持っていたため、経済制度・政策はバラバラで、各国毎に税関を設け通過する商品に税金をかけていた。これは19世紀前半に、ドイツの商工業がイギリスに比べて著しく立ち後れている主要な要因であった。ドイツ全体での関税線も作られていなかったので、すでに産業革命を達成したイギリス工業製品がどんどんドイツに入ってきて、ドイツ工業製品を圧倒しており、ドイツの輸出品は依然として小麦などの農産物が占めていた。このようなドイツにおいて産業を維持し、発展させるためには、イギリスのアダム=スミス流の自由貿易主義では不可能であるとしたドイツの経済学者フリードリヒ=リストは、保護貿易主義を唱えた。リストの経済思想はプロイセンの政策に取り入れられていった。
ドイツ関税同盟の結成
1834年1月1日をもって、プロイセン王国を中心として、ドイツ連邦内の18ヵ国が加盟してドイツ関税同盟が発足した。関税同盟加盟国は、加盟国相互の関税を廃止し、自由に通商を行い、また同盟国以外の諸国との通商には共通の関税を賦課することとした。また翌年の1835年にはリストが奔走した鉄道建設が実現し、ドイツの鉄道が開通した。
この同盟は、次第に加盟国を増加させ、1854年にはオーストリアを除くほとんどの邦国が加盟した。この経済政策での統一は、プロイセンを中心とするドイツの政治的統一の前提として、大きな意義を持っていた。また、これによってドイツの産業革命の基盤が作られた。この関税同盟は1866年の普墺戦争後にオーストリアを排除して成立した北ドイツ連邦、さらに1871年に成立したドイツ帝国にも継承された。
ということでこの関税同盟はドイツ帝国の発端となる重要なもの。
産業をこれから発展させようという場合、最初のうちは保護貿易主義的政策を採用するのは仕方がないことだと思う。イギリスも工業化が軌道に乗るまではインドからの綿製品に高関税をかけていた。
次にラインラントの話。
ラインラントとはライン川中流両岸地帯のことで、中世・近世は南北のライン川と東西へ伸びる支流(マイン川、ルール川など)で東西南北を行き来できる水運と商業で栄えていた。ウィーン会議でプロイセンがここを領有した後、ルール地方で石炭の採掘が発達し(ルール炭田)、1940年以降ラインラントはドイツ産業化の中心地となった。(カール・マルクスがこの頃から活動していた話はまた別の機会に。)
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とベルリン三月革命
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は「3世」の息子で、「3世」が亡くなった1840年に後を継いで国王になった。彼もまた宰相を置かずに政治を主導した。
王となった当初は(先代とは違う)自由主義者たちに恩赦を与えるなど自由主義に理解が有る王として振る舞っていたが、検閲を止めることはなく、先代が約束した憲法制定もしないままだった。彼は「啓蒙専制君主」のカテゴリーに入る君主だったが、自由主義の声が強くなってその立ち位置を守ることができない状況になっていった。
1847年に開かれた議会は、父王が約束していた憲法の制定を要求したがフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこれを拒絶した。しかしこれを機に翌1848年には三月革命が勃発し、ベルリンでは市民と軍隊が市街戦を展開することになる。
ベルリンで起こる三月革命は、オーストリアを含むドイツ地方で同時期に起こったもので、フランスの二月革命から波及した事件だが、プロイセンには上のような事情も重なっていた。
この事件を含む1848年革命と総称されるヨーロッパ各地を襲った事件によってウィーン体制が事実上終わったということは以前にも書いた。
この後の展開は別の記事で。