歴史の世界

エーゲ文明③ 後期青銅器時代/ミケーネ文明の誕生

前回からの続き。

前回書いたミノア文明の後継がミケーネ文明。

ミケーネ文明とは?

「後期青銅器時代≒ミケーネ文明の時代」

「ミケーネ(あるいはミュケナイ)」はペロポネソス半島西部にある古代都市で、この文明(時代)の代表的な都市。これにちなんでミケーネ文明と呼ばれる。

ただし、ミケーネ文明はミケーネだけが文明の中心だったのではなく、小規模な勢力(王国)がいくつかあった。

そして「互いに合従連衡を重ねた結果、……似通った王国を築いたのだろう」 *1


Map of Mycenaean Greece 1400-1200 BC: Palaces, main cities and other settlements.

出典:Mycenaean Greece - Wikipedia *2

この地域の文化・文明はミノア文明圏の中で発展し、最終的にはその文明を凌駕することになる。

ミケーネ文明の始まりについては諸説あるが、このブログでは周藤芳幸氏に従って、前1650年頃とする。 *3

墓から分かること:その①副葬品の多さと交易ネットワークの広がり

ミケーネ文明の誕生より前までは、ギリシア本土 *4 は、初期青銅器時代の終わり頃に起こった戦乱・崩壊から立ち直れず、他地域に比して文化的に遅れを取っていた。

しかし、前1650年頃の古代都市ミケーネの墓 *5 は、「絢爛豪華たる遺物が副葬されていた」 *6

これらの副葬品はエーゲ海周辺だけでなく、南のアフリカのものから北のバルト海のものまで含まれる *7。 これにより、クレタ島の勢力と比べて北方のネットワークに強みを持っていたと考えられる。

この頃からミケーネ文明の発展が見られる。エーゲ海のネットワークの中心が、時間をかけて、クレタ島からギリシア本土へ移っていく。

墓から分かること:その②新しい文化の流入

副葬品からさらに別の重要なことがわかることができる。

ミケーネ文明はクレタ文明から大きな影響を受けていたが、別の大きな特徴も持っている。

それが武器類の副葬品だ。これに関連して二輪馬車(戦車、チャリオット)が描かれているレリーフもあった。これについて周藤氏によれば、山がちなギリシア本土では戦車は役立たなかったはずで、実用的なものというより支配者たちにとってステイタスシンボルのようなものだった *8

ちなみに、私個人としては、チャリオットが地中海で戦闘の主力になったのはミタンニが大国にのし上がった前1500年以降のことだと思っている。前1650年にエジプトを支配したヒクソスがチャリオットを以って侵略を成功させたという説は間違っていると思っている。

周藤氏は以下のように書いている。

戦車は前二千年紀の前半に環東地中海世界に普及するようになった当時の最新兵器であり、走行に適した平坦な土地が広がるアナトリア高原やエジプトのデルタ地域では、やがて戦争の主役になっていく。[中略]ミケーネの円形墓域の被葬者たち[=支配者たち]が戦車をきわめて重視してたらしいことは、彼らが環東地中海世界の諸文明の覇者たちと王権をめぐる価値観をともにしていたことを物語っている。

出典:ギリシア史/p36

ここから、戦車を使いこなせていなかったのはミケーネの支配者たちだけではなかったということが分かる。ただし、周藤氏が戦車とミタンニやヒクソスについて私と同じ考えかどうかは分からない。

すくなくとも、印欧語系のギリシア語を話す人々がチャリオットを駆ってギリシア本土に侵略したというシナリオは史実ではないということだ。

墓から分かること:その③権力集中の度合い

上でかいたように、発見された副葬品はミノア文明時代に比べて豪華になっている。これは支配者たちの権力がより強力になっていることを示す。

上では前1650年頃から始まる「円形墓域A(Grave Circle A)」という墓について書いたが、前1500年頃になると「トロス墓」と呼ばれる大規模な墓が造られるようになる。

出典:アトレウスの宝庫 - Wikipedia

トロス墓の代表例が上の「アトレウスの宝庫」。この墓は宝庫でもなければ、ギリシア神話に登場するアトレウスとも何の関連もないのだが、その贅沢な造りが当時の支配者の権力の度合いを物語る。

トロス墓はミケーネ文明圏全土に一様に流行したわけではないが、当時の権力の度合いを示すものとしては十分だ。ちなみに、この墓は個人のみのものではなく、家族墓。

通文化的には、社会の最上層に位置する特定の個人や集団のために大規模な墓を築く習慣は、しばしば首長制社会が発展して初期国家へと移行する段階に出現する。エジプト古王国のピラミッドや、わが国の古墳はその典型的な例である。また、この段階では、権力が首長(王)へ集中していくにつれて、位階的な社会構造を安定させるための統治組織や表象の体系が整備されていくのが一般的である。[中略]この時代の諸王国は、小規模ながらも同時代の西アジアと肩をならべる初期国家へと接近しつつあったのである。

出典:ギリシア史/p36

首長制社会については前回書いた。周藤氏はミノア文明が首長制社会、ミケーネ文明が初期国家としている。

当時の西アジア(特にレヴァント)には小規模な王国がたくさん存在していたが、このような諸王国とミケーネ文明の諸王国が肩を並べるほどになった、とのこと。



*1:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p38(周藤氏の筆)

*2:By User:Alexikoua, User:Panthera tigris tigris, TL User:Reedside - Ιστορία του Ελληνικού Έθνους, Εκδοτική Αθηνών, τ. Α' χάρτες σε σελ. 263-265, σελ. 290, 292-293 (επίσης [1], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61505445

*3:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p34(周藤氏の筆)

*4:ここでの「ギリシア本土」はペロポネソス半島も含まれる。文化の分類上、エウボイア島(エヴィア島)も含まれるらしい

*5:円形墓域A (Grave Circle A, Mycenae - Wikipedia 参照)

*6:ギリシア史/p34

*7:同/p34-35

*8:周藤芳幸/古代ギリシア 地中海への展開/京都大学学術出版社/2006/p57