歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その6 クセルクセス1世

前回からの続き。

クセルクセス1世

ダレイオス1世の後を継ぐのはクセルクセス1世。ダレイオスと正妃アトッサの息子。

アトッサはキュロス2世の娘。ダレイオスは簒奪者だが、先王朝は女系で継続したことになる。

「クセルクセス」は古代ギリシア語の読みで、古代ペルシア語では「クシャヤールシャン」となる *1

バビロンの反乱と破壊

バビロンはペルシア帝国が支配するようになっても経済の中枢の年だった。ダレイオス1世はバビロンに1年のうち7ヶ月滞在し、かつての新バビロニアの王ネブカドネザル2世の宮殿を使っていた(首都および主要都市については前回の記事参照)。

しかしバビロンが前484-476年の間に3度の反乱を起こすとクセルクセスは大都市の破壊を決意した。都市神であるマルドゥクを祀るエサギル神殿を破壊し、住民は強制移住に処した。青木健氏によれば、《バビロンの地位は、メソポタミア文明の中心都市から「帝国」の5つの主都の一つへと、確実に下落した》と書いている。 *2

メソポタミア文明の終焉の時期は諸説あるのだが(新バビロニアの滅亡やアケメネス朝の滅亡など)、このクセルクセスの都市破壊も候補の一つになるかもしれない。

ただし、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』では、以上のようなバビロンの徹底的な破壊についての歴史は「拡大解釈」とし、《ギリシアに攻め入ったクセルクセスを悪く見せる目的、あるいはアレクサンドロスの寛大な姿勢を際立たせるためのプロパガンダだった》という説と、北バビロニアの文献から鎮圧に伴った何らかの断絶・変化があったことを紹介している。*3

ギリシア遠征

クセルクセスが世界史で語られる事項はほとんどペルシア戦争に限られる。

当時の古代ギリシア人にとっては生存を賭けた戦いであり、ヘロドトス『歴史』の主題であり、詳細に語られる歴史だった。一方、ペルシア由来の史料では語られていない(阿部氏/p132)。

クセルクセスにしてみれば、ペルシア戦争(とギリシア側が言っている戦争)は領土拡大戦争の一つで、さらに失敗してしまったのだから書き遺す案件ではなかったかもしれない。

ともかく、詳細に描かれるペルシア戦争の歴史はギリシア文献だけで構成されていることをいちおう留意しておくべきだろう。

ペルシア戦争における古代ギリシア側の変化については、古代ギリシアの歴史を書く時に書く。

出典:ペルシア戦争 - Wikipedia

テルモピュライの戦いサラミスの海戦

前480年、クセルクセスはギリシア遠征を行なう。先王ダレイオス1世と違い、クセルクセスは自らも遠征に参加した。

エーゲ海の北岸であるトラキアマケドニアは、ダレイオスの治世のあいだにペルシア帝国の影響下に入っていた(トラキアは支配、マケドニアは臣従)。ペルシアの陸軍は2つの地域を通ってギリシア本土に向かった。

スパルタ軍はテルモピュライの地峡に陣取ってペルシアの大軍を迎え撃ったが、結局全滅させられる。(テルモピュライの戦い

余談になるが、この戦いは『300(スリーハンドレッド)』という映画になっている。スパルタ軍正規兵300人が100万のペルシア軍を迎え撃ったというシナリオらしい(未視聴だが、史実とはかけはなれているらしい)。実際はギリシア軍は数千人の兵で戦ったがそれでも圧倒的劣勢のなかで全滅した。

敗れたギリシア軍は今度は海上での決戦に持ち込んだ。サラミス島(アテナイの西方)と半島に挟まれた狭い海域にペルシア海軍を誘い込むなどして、ギリシア軍が作戦勝ちをした。(サラミスの海戦

海戦で敗れたクセルクセスは軍を残して帰国した。

また、これと同じ時期にカルタゴはペルシア軍側としてシラクサシチリア島の植民市)に攻め込んだが、失敗に終わった。

プラタイアの戦い/ミュカレの戦い

残されたペルシア軍はマルドニオス(大貴族の一人)に任された。

前479年、ギリシアで冬を越した大軍はギリシアへ攻め込む。ギリシア本土中部のプラタイアで待ち構えていたアテナイ・スパルタ連合軍はこれを撃破、総大将のマルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。

いっぽう同じ頃、エーゲ海ではギリシア海軍がペルシア帝国の支配領域に攻め込む。ギリシア軍はアナトリアの西南に位置するサモス島に船を進めたが、これが到着する前にペルシア軍はアナトリアに兵を引いた。ギリシア軍はこれを追いかけてアナトリアに上陸して完勝。イオニア地方はペルシア帝国支配から独立した(ミュカレの戦い)。

ギリシアの反転攻勢

ペルシア側の大軍勢は撤退を余儀なくされた一方、ギリシア軍は反転攻勢をやめなかった。

前478年、ギリシア軍はビュザンティオン(現在のイスタンブル)を攻めて戦勝し、ペルシア帝国はマケドニアトラキアの支配権を失った。(ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年) - Wikipedia

前466年には、ギリシア海軍がアナトリア西南のエウリュメドン川河口を攻めて一日にして大勝した。ただしこの戦いの目的はアテナイの将軍キモンの功名心を満たすというものだった(結果的には、エーゲ海ギリシア側の覇権を確固たるものにしたとは思う)。 (エウリュメドン川の戦い (紀元前466年) - Wikipedia

ギリシア軍の断続的な攻勢はクセルクセスの死後も続く。

暗殺

バビロニア出土の文献によれば、クセルクセスは息子で王太子だったダレイオスに暗殺されたが、別の息子のアルタクセルクセスがダレイオスを捕らえて処刑した。

いっぽう、ギリシア語文献によれば、クセルクセスと王太子の両者が近衛隊長アルタパノスに暗殺されて、大貴族の一人が近衛隊長を捕らえて処刑した。

どちらの伝承が正しいのかは不明。動機その他も分からない。いずれにしろ、あとを継ぐことになったのは上述のアルタクセルクセス(1世)だ。(以上、青木氏/p77)



*1:青木氏/p70

*2:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p74-75

*3:p119-120