歴史の世界

古代イスラエルの王国② 分裂時代 その1 聖書外の最初の記録

前回からの続き。

(統一)イスラエル王国が実在したかどうかは分からないが、前9世紀に(北)イスラエル王国と南のユダ王国が存在していたことは確定しているようだ(以下「(北)イスラエル王国」は単に「イスラエル王国」と書く)。

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紀元前830年代のレバント地方の勢力図

出典:古代イスラエル - Wikipedia

  • 上の図がどのくらいの精度なのかは分からない。

オムリ

長谷川氏によれば、(ダビデの件を除いて)一番最初に聖書以外で確認できるイスラエルの王はイスラエル王国のオムリ(前9世紀序盤)だ。

オムリは(聖書「列王記」に基づくと)7代目の王だが、もともとは軍のトップの人だった。だから新しい王朝の創始ということになる。

オムリ 前885-前874
アハブ 前874-前853
アハズヤ 前853-前852
ヨラム 前852-前841
イエフ 前841-前814
(在位の年代は碑文史料と聖書の年代データに基づく推定)

出典:長谷川 修一/聖書考古学/中公新書/2013/p161(抜粋)

オムリの名前は2つの史料で確認されるが同時代の記録ではない。

一つはメシャ碑文と言われるもの。メシャはモアブ王国(上図参照)の王。

この碑文は前9世紀後半に書かれたもので、同国の主神ケモシュのために建てた聖所を記念して書かれた。イスラエルからの「独立」などをケモシュに「報告」している。

碑文の中には「オムリは長い年月モアブを圧迫した」「イスラエルの滅亡を見た」と書いてある。

聖書とつきあわせてみると、前者は「オムリの時代にモアブがイスラエル王国朝貢していた」とあるが、碑文では一部の領土を奪われたことに言及している。後者は「オムリ朝がクーデタで断絶した」と解釈される。 *1

聖書によれば、メシャはイスラエル王国のアハブ王が死ぬと反乱を起こした。この反乱の詳細は書かれていないが、最終的にモアブが勝利した。

もう一つの史料は、アッシリア王シャルマネセル3世(前859-前824年)が遺した碑文。「私〔シャルマネセル3世〕はオムリの家のイエフから貢納を受けた」と記録している *2。ちなみにイエフはオムリ朝に対してクーデタを起こして王になった人物だ(イエフについては後述)。

アハブ

アハブは聖書ではオムリの息子で次代の王。アハブの名はアッシリアの碑文で言及されている。その碑文は前述のシャルマネセル3世とシリア諸国連合が戦ったカルカルの戦いについて書かれているものだが、シリア諸国連合の中でアハブ率いる軍勢がある (カルカルの戦い - Wikipedia )。 連合軍の中で3番目の勢力で主力の一角だったようだ。シリア・パレスチナでひしめく小国の中ではそれなりの勢力を持っていたのかもしれない。小国モアブを「圧迫」していたこととも辻褄が合う。

アハズヤ、ヨラム、イエフ

メシャ碑文に「オムリの息子」の時代にモアブ王国がイスラエル王国に占領されていた領土を回復したことが記されているが、長谷川氏は「オムリの息子」は単に息子に限らず子孫を含むと言っている *3

長谷川氏はメシャ王が勝利した相手を特定していない。そして聖書にあるアハズヤ、ヨラムの2人の王について聖書外に記録があるかどうかについても触れていない。

そしてクーデタを起こしたとされるイエフについては前述したようにアッシリアの記録にある。

この碑文(黒色オベリスク *4 に書かれた碑文)にはイエフ(または朝貢に訪問した外交官)がシャルマネセル3世前でひれ伏している図像が見られる。

カルカルの戦いでは連合軍がアッシリアの侵攻を押し留めた。



*1:長谷川氏/p159-163

*2:長谷川氏/p163

*3:p160, 163

*4:黒色オベリスク - Wikipedia