歴史の世界

エジプト第28、29、30、31王朝

エジプト第27王朝とは、実際には、ペルシア帝国支配下の属州の状態だった。

第28王朝の王はペルシア勢力をエジプトから追い出して、全エジプトを支配したが、その後はエジプト国内での争いが続発した。

第28王朝

第28王朝の始まりは前回書いた第27王朝の終わりから始まる。

反乱の首謀者であったアミルタイオスはペルシア勢力を追い出すことに成功し、全エジプトを支配して第28王朝を築いた。

しかし、第28王朝は一代で終わった(前404-398年)。アミルタイオスの事績は遺っておらず、彼自身の記念碑も発見されていない。

第29王朝

ネフェリテス1世(ネファルド1世)(前398年 - 前393年)
プサムティス (前393年 治世は一年間のみ)
ハコル(アコリス)(前393年 - 前380年)
ネフェリテス2世(ネファルド2世)(前380年)

出典:エジプト第29王朝 - Wikipedia(改変有り)

第29王朝を創始したネフェリテス1世についても詳細は分かっていない。ピーター・クレイトン氏は《第28王朝より強力な王族がメンデスから出て、第28王朝を覆したのであろう》と書いている *1

第29王朝の首都はメンデス(ナイルデルタの都市)。「メンデス」はギリシア語名で、エジプト名はDjedet *2

ネフェリテス1世の死後に継承争いが起こる。息子ムティスと"簒奪者"プサムティスが争い1年間の闘争の末にプサムティスが勝利する。プサムティスは王位に就いたが、1年も経たないうちに、アコリス(ギリシア名。エジプト名はハコル)にアコリスはネフェリテス1世の血縁では無かったようで、歴史を改竄した記念碑の記述がいくつか遺っている。

アコリスは多くの建造物建築、修復事業や近東への政治干渉も行なうなど、一定のエジプト王としての力量は見せた。ただし、オリエント世界への影響力は乏しかった。

当時、ペルシアにとって真の敵はギリシア(初めはスパルタ人、ついでアテネ人)であり、一方エジプトの抵抗はペルシアにとってはノミにかまれる程度のことであった。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p260

アコリス治世におけるオリエント世界の大事件「大王の和約」(前386年、「アンタルキダスの和約」とも呼ばれる)がある。ペルシア王アルタクセルクセス2世がギリシア圏内におけるアテナイとスパルタの戦争に干渉して和平を実現した。

このような事態にアコリスはギリシア傭兵を主力として軍を強化した。ペルシア軍からの侵略は無く、逆にエジプトから攻撃を試みている *3

前380年、アコリスが亡くなると息子のネフェリテス2世が継ぐが1年もしないうちにネクタネボ1世に倒され、王朝は断絶する。

第30王朝

ネクタネボ1世  紀元前380年 - 紀元前362年
テオス 紀元前362年 - 紀元前360年
ネクタネボ2世 紀元前360年 - 紀元前343年

出典:エジプト第30王朝 - Wikipedia

第29王朝を倒したネクタネボ1世が第30王朝を創始する。首都はセベニトス(ナイルデルタ圏内)。

ネクタネボ1世の治世の前374年に、ペルシア王アルタクセルクセス2世の命のもとにペルシア将軍ファルナバゾスとアテナイ将軍イフィクラテスがエジプトに派遣された。ネクタネボ1世は初戦で敗れてペルシア・アテナイ連合軍の侵入を許したが、攻撃軍の仲間割れと地の利が功を奏して撃退することに成功した。

その後、ペルシアの侵攻は無く、ネクタネボ1世の治世は安定していた。

ネクタネボ1世を継いだテオス(ジェドー )はシリア・パレスチナへの侵攻を行なったが、戦費調達の為の重税がクーデタを招いて王座を追われた。

このクーデタを起こしたのはテオスの息子チャヘプイム。そして新しく王位に継いたのは彼の息子のナクトホルエブ(ネクタネボ2世)。

ネクタネボ2世の治世の数年間は安定していたが、ペルシア王アルタクセルクセス3世(同2世の次代)が前351年に侵攻してくる。この戦いはエジプト側がよく防戦してペルシア王は撤退した。

しかし343年の再侵攻は防ぐことが出来ず、エジプト全土は再びペルシア帝国の属州となった。

これ以降、エジプト人がエジプト王になることは無かった。

第31王朝

ペルシア帝国による二回目の属州の時代は「第2次ペルシア支配時代」と呼ばれているとともに、エジプト第31王朝とも呼ばれる。

「第○○王朝」という呼び方は、マネトーの『エジプト史』によるものであるが、この書では王朝は第30王朝で終わっている。これに追加されるのは第31王朝だけだ。

第31王朝がマケドニアアレクサンドロス大王に滅ぼされた後にプトレマイオス朝が興るが「第32王朝」とは呼ばれない。

第31王朝は約10年の期間だが、ほとんど記録は残っていない。アルタクセルクセス3世は前338年に毒殺され、次代のアルセス(アルタクセルクセス4世)も2年後に毒殺される。その次代ダレイオス3世はアレクサンドロス大王との戦い(イッソスの戦い、前333年)に大敗してからペルシア帝国は総崩れとなり、エジプト総督(サトラップ)のマザケスは前323年に戦わずしてエジプトを大王に明け渡した。

ここに第31王朝は終わり、エジプト末期王朝という時代も終わる。



*1:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p259

*2:Mendes - Wikipedia

*3:クレイトン氏/p260