新アッシリア滅亡後のオリエント世界について書く。
「4王国分立時代」
「4王国分立時代(または4国分立時代)」という用語がどれくらい普及しているか分からないがここではこの用語を使用する。
オリエント世界を統一した新アッシリア帝国を新バビロニアとメディアが倒した後の時代、4つの大国が台頭した。
- 新バビロニア
- メディア
- エジプト
- リディア(リュディア)
この時代の期間は、アッシリアが滅亡した前7世紀末からアケメネス朝ペルシアがメディアを始め4大国を滅ぼし始める前6世紀半ばまで。
エジプトについては、以下の2つの記事で書いた。
その他の3つについてはこれから書く。
新バビロニア建国
《新バビロニア(帝国)は「カルデア(帝国)」と呼ばれる》と高校で習った人もいるかも知れない。これは建国者のナボポラッサルがカルデア人だったということからそう言われていたのだが、最近では「彼がカルデア人である証拠がない(何人か不明)」ということで「カルデア(帝国)」という言い方は使わないほうがいい。
ただし、当時のメソポタミアでは中心都市バビロンの住人に加えて、カルデア人とアラム人が多く住んでいた *1 のでカルデア人がこの国の中枢を占めていた可能性はあるだろう。
ナボポラッサル(Nabopolassar) 紀元前625年 - 紀元前605年
ネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar II) 紀元前604年 - 紀元前562年
アメル・マルドゥク(Amel-Marduk) 紀元前562年 - 紀元前560年
ネルガル・シャレゼル(Nergal-sharezer) 紀元前560年 - 紀元前556年
ラバシ・マルドゥク(Labashi-Marduk) 紀元前556年 わずか9ヶ月で暗殺された。
ナボニドゥス(Nabonidus) 紀元前555年 - 紀元前539年 息子のベルシャザル(摂政)と共同統治。
アッシリアの滅亡と新バビロニアの建国については 以前 に書いたがおさらい。
前627年、アッシュルバニパルが亡くなる。これ以降アッシリアは衰退して滅亡の一途をたどる。前609年がアッシリア帝国の最後の記録になるのだが、この間の歴代の王たちは政争にエネルギーを費やし、内乱と侵略を防ぐことができなかった。(この時期の史料は乏しく、詳細は分からない。)
アッシュルバニパルが亡くなった同年にバビロニアの傀儡王カンダラヌも亡くなり、次の王が決まらないまま1年が過ぎた。このあいだにバビロニアで反乱が起こり、その首領であるナボポラッサルがバビロンを陥落し、バビロニア王となった。ナボポラッサルから続く新しい王朝が新バビロニアと呼ばれる王朝となる。
そして、前612年、ナボポラッサルは新興国メディアと同盟を組んでアッシリアの王都ニネヴェを陥落させる。(前回のおさらいはここまで)
ナボポラッサルはアッシリア地方を併呑する、すなわちメソポタミア全土が新バビロニア王国の領土となった。
ナボポラッサルはさらにアッシリアの残党を追ってシリアで戦闘を繰り広げる。アッシリアの味方になったエジプトとも対戦している。前605年のカルケミシュの戦いでは、新バビロニアがエジプトに勝ち、シリアはバビロニアの影響下に入った。
同年、ナボポラッサルが亡くなり、ネブカドネザル2世が引き継ぐ。
2代目ネブカドネザル2世
ネブカドネザル2世率いるバビロニア軍はパレスチナに攻め込んで次々と勢力下に入れる。すなわち属国または属州にした。その中で、ユダ王国の滅亡(属州化、前586年)はバビロン捕囚で有名だ(バビロン捕囚については別の機会に書く)。
これにより、パレスチナを勢力下に置き、エジプトの影響力を全て取り除いた。
他方、東方のメディア王国とは政略結婚によって友好関係を結ぶことを選択し、戦いを避けた。 *2
ネブカドネザル2世について語られることの一つにバビロンの繁栄がある。王都バビロンは大改修され、人口は10万人に達したとされる *3。 この時代の世界最大の都市だという学者もいるらしい *4。
バビロンはユネスコ世界遺産に登録されているが、その代表的な遺物はこの時代のものだ。豪華な装飾が成されているイシュタル門、バベルの塔のモデルとなったと言われるマルドゥク神殿のエ・テメン・アン・キのジッグラト(聖塔)がある。もうひとつ、「バビロンの空中庭園」というものがあるが、これについては史料も考古学的証拠もない(バビロンの空中庭園 - Wikipedia 参照)。
ネブカドネザル2世の死後/滅亡
ネブカドネザル2世の死後、バビロニアは再び政治的に不安定な状態に陥った。ネブカドネザルの息子のアメル・マルドゥクが即位するが、治世2年にして暗殺される。アメル・マルドゥクを暗殺して即位したのは、ネブカドネザルの娘婿といわれる高官ネリグリッサル(ネルガル・シャラ・ウツル)だった。しかし彼は、即位した時点で既に高齢だったと思われ、その在位は長く続かなかった。その後、ネリグリッサルの息子ラバシ・マルドゥクが即位するが、ナボニドゥス(ナブー・ナーイド)とその息子ベルシャザル(ベール・シャラ・ウツル)によるクーデターで倒された。
王族ではないナボニドゥスが王位に就いた。
彼の政治は、国内においては神殿の経済と行政を王権の管理下に置く改革に取り掛かり、国外では西方へ遠征して交易ルートの確保を行なった。ナボニドゥス自身がアラビア半島北西部のオアシス都市テマ(タイマー、Tayma、上の地図参照) *5 に滞在し、国政は息子のベルシャザルに委ねていた。
テマは、西方からペルシア湾に抜ける隊商路と、ダマスカスからメディナに抜ける隊商路が交差する交通の要衝であった。
出典:小林氏/p253
アラビア半島西部についての史料は新アッシリアで初めて確認されるが、前1000年ころから活発化したようだ。
『乳香』や『没薬』を売って富を得たのです。樹液から作る香料です。没薬は防腐剤としても使われます。香料の産地は半島南の山地です。今でも乳香をたいています。紀元前1000年ごろから再び活発化しましたが、それを支えたのはラクダです。
小林氏によれば *6 砂漠を横断するラクダ(ひとこぶらくだ)は前700年頃に導入された。
ナボニドゥスはシリアを通らないペルシア-エジプトの砂漠ルート交易を独占・拡充しようとしていたらしい。
ナボニドゥスの指向がこのまま継承されていけば、バビロニアは繁栄が続いたかもしれないが、新興国アケメネス朝ペルシアのキュロス2世(キュロス大王)がバビロニアに攻め込み、前539年、王都バビロンは無血開城する。王都に戻ったナボニドゥスは捕らえられ、新バビロニアは滅亡する。