歴史の世界

中アッシリア

アッシリア王国は長い歴史を持つ。今回は「中アッシリア」の歴史を書く(それより前の古アッシリアについては《古アッシリア時代① アッシリア(地域)/アッシリア(王国)の興亡》)。

アッシリア王国は前2000年紀前半に勃興していたが、前1760年頃にバビロン第1王朝のハンムラビに征服されてからほとんど記録が残っていない。

地域としてのアッシリア(=メソポタミア北部)はハンムラビが支配することになったが、彼の死後バビロン第1王朝は衰退する。この頃の記録は無いのだがおそらくはアッシリア王国を含む諸国は独立していたのだろう。その後、前16世紀のうちにミタンニがシリアで勃興、大国に伸(の)し上がりアッシリア諸国を属国化した。

アッシリアの記録が復活するのは中アッシリア時代(北メソポタミアにおける前2000年紀後半)の大国ミタンニの属国としてだ。ミタンニが新興大ヒッタイトに大敗する機に乗じてアッシリアは独立した。その時の王がアッシュール・ウバリト1世だ。前1340年頃にミタンニの首都ワシュカンニを攻め落とし、オリエント世界の大国にまでなった。

アッシリア時代
エリバ・アダド1世(前1392年 - 前1366年)
アッシュール・ウバリト1世(前1365年 - 前1330年)
エンリル・ニラリ(前1330年 - 前1319年)
アリク・デン・イリ(前1319年 - 前1308年)
アダド・ニラリ1世(前1307年 - 前1275年)
シャルマネセル1世(前1274年 - 前1245年)
トゥクルティ・ニヌルタ1世(前1244年 - 前1208年)
アッシュール・ナディン・アプリ
アッシュール・ニラリ3世
エンリル・クドゥリ・ウツル
ニヌルタ・アピル・エクル(前1192年 - 前1180年)
アッシュール・ダン1世(前1179年 - 前1134年)
ニヌルタ・トゥクルティ・アッシュール(前1133年)
ムタッキル・ヌスク(前1133年)
アッシュール・レシュ・イシ1世(前1133年 - 前1116年)
ティグラト・ピレセル1世(前1115年 - 前1076年)
アシャレド・アピル・エクル(前1076年 - 前1074年)
アッシュール・ベル・カラ(前1074年 - 前1056年)
エリバ・アダド2世(前1056年 - 前1054年
シャムシ・アダド4世(前1054年 - 前1050年)
アッシュールナツィルパル1世(前1050年 - 前1031年)
シャルマネセル2世(前1031年 - 前1019年)
アッシュール・ニラリ4世(前1019年 - 前1013年)
アッシュール・ラビ2世(前1013年 - 前972年)
アッシュール・レシュ・イシ2世(前972年 - 前967年)
ティグラト・ピレセル2世(前967年 - 前935年)
アッシュール・ダン2世(前934年 - 前912年)

出典:アッシリアの君主一覧 - Wikipedia

  • 上の君主一覧は参考程度。

アッシュール・ウバリト1世

アッシュール・ウバリト1世は独立後に勢力圏を拡大した。そしてオリエント世界の覇権国エジプトにアッシリアを大国として扱うように要求している(エジプトの当時の記録「アマルナ文書」に記録が遺っている)。

バビロニアはこれに対応してエジプトに書簡を出し、「アッシリアは自国の臣下であるから、アッシリアの使者を追い返すように」と要求している *1。このへんは国際政治の歴史を通じて繰り返されるところだ。興味深い。

バビロニアについては別の機会にまとめて書くことにするが、この時代には大国を自称するくらいに栄えていたようだ。軍事・国際政治においてはアッシリアに押されていたが、文化では優位に立ちアッシリアバビロニア化が進む *2

トゥクルティ・ニヌルタ1世/最盛期からの衰退

アッシリアの交易活動の詳細は不明だが、広範な軍事遠征の成功が大量の戦利品をアッシリアにもたらした。ことに北方山岳地帯からは各種の貴重な金属や木材が供給された。アッシリアがまるで生業であるかのように、軍事遠征を繰り返した要因の一つは、こうした資源獲得が目的であった。

出典:小林氏/p170

そしてトゥクルティ・ニヌルタ1世の時に最盛期を迎える。前1225年バビロニアに戦勝して王カシュティリアシュ4世を捕らえ、バビロニアを征服した。さらにこの頃すでに弱体化していたヒッタイトにも戦勝して西に勢力を拡大した。

ただし、彼の最期は悲惨なものであった。

治世末期にはそもそも内部対立が激化していたらしく、紀元前1208年頃、息子達にカール・トゥクルティ・ニヌルタを包囲され、そのさなか暗殺されて死去した。さらに彼が殺された後、息子達のうちの一人アッシュール・ナディン・アプリが王位を得たがアッシリアは深刻な政治混乱に陥り、短命王が続き、アダド・シュマ・ウツル(英語版)がバビロニアを独立させてその支配権も失われるなどアッシリアの領土は大きく失われることとなる。

出典:トゥクルティ・ニヌルタ1世 - Wikipedia

このアッシリアの混乱は内部対立だけではなかった。

すでに前13世紀末には、アッシリアはかなりの領土を失っていた。大きな原因は自然環境の悪化で、何年にもわたる降雨量の減少という気候の変化が食糧生産に悪影響をもたらし、国力が著しく低下した。このできごとはアッシリア一国だけでなく、西アジア全域を襲った深刻な事態であった。

出典:小林氏/p172

この自然環境の悪化は、「海の民」を中心とする地中海東部の大変動にも影響を与えたのだろうが、詳細はわかっていないらしい。

ティグラト・ピレセル1世

トゥクルティ・ニヌルタ1世以降で、アッシリアが勢力を回復したのは、前12世紀末のティグラト・ピレセル1世であった。王はアラム人を駆逐するために遠征を繰り返し、地中海まで到達した。[中略]

前12世紀以降には、西方シリア砂漠からアラム系部族が侵入してきた。都市の周囲には、西方セム語の一つ、アラム語を話す牧畜民が流入し、定住しはじめた。……アラム人の流入は続き、メソポタミアとシリアの大部分に定着し、その後独立国をつくる。[中略]

前10世紀中頃までには、アッシリアの領土はメソポタミア北部のティグリス河流域周辺までに縮小してしまったものの、アッシリア王国が滅ぶことはなかった。

出典:ティグラト・ピレセル1世 - Wikipedia

前13世紀末の自然環境の悪化(≒乾燥化)はその後も続いたようで、西アジアは農耕よりも遊牧に適した地域が広がったようだ。だから農耕と交易で成り立っているアッシリア王国がいくらアラム人を攻めても、アッシリア人の生活領域は縮小してくしかなかった。加えて遊牧民が交易商と遭遇する機会が多くなると、アッシリアその他諸国に害を与えた ((Arameans - Wikipedia ))。

ティグラト・ピレセル1世の後の中アッシリアは回復することはなかった。前1000年を過ぎてアッシリアは盛り返すことができたが、この時代は新アッシリア時代という。



*1:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p166

*2:小林氏/p170