歴史の世界

管子(4)(重令篇/法法篇/五輔篇/七法篇)/止

前回からの続き。

重令篇

この篇は管仲が書いたものではないとされる。

訳者によれば、矛盾が少なくない『管子』の中で比較的に論旨が整然とされている(p209)。

「古代氏族社会」の名残りをとどめる春秋時代、血縁による政治がまだ幅をきかしていた。これにたいし、管仲は "近代化" を主張する。それは法令尊重であり、秩序整然とした基礎づくりであった。(p193)

春秋時代から戦国時代に遷り変わる時代に「古代氏族社会」から中央集権化・専制君主制化が起こった...

いや、「古代氏族社会」から中央集権化・専制君主制化した国が強国になり、それができない国は淘汰された結果、時代が変わったというべきだ。

そして中央集権化・専制君主制化の核となる部分の一つが、法令重視だ。これは結局のところ、王の命令に他の有力者(貴族)を従わせるということだ。明文化された法律を基礎として官僚システムを作り上げ、貴族たちの勝手気ままな行動を取り締まり、権力を王と王が選んだ官僚たちに一本化する。

そして、各貴族が持っていた兵力も国王の下にある官僚システムに吸収・一本化する。これで強国が出来上がるわけだ。

冒頭の一文に「およそ国に君たるの重器は、令より重きはなし。令重ければすなわち君尊(たっと)し」とある。意味は「一国の君主にとって、法令ほど重視すべきものはない。法令を重視すれば、君主の尊厳は保たれる」。

法律の作成を独占し、それを守らせることができれば、「君主の尊厳は保たれる」。

法法篇

法法篇は管仲が書いたものではないとされている。

法法は冒頭部の「不法法則事毋常。法不法、則令不行。」からつけられたもの。

この一文の読み下しは「法を法とせざれば、すなわち事 常なし。法、法ならざれば、すなわち令 行われず」

訳は「合理的な法律を制定しなければ、世の中は円滑にいかない。尊重されぬような不当な法律を制定すれば、上からの命令は守られない。」

上記の重令篇は法律作成の独占の話だったが、法法篇は「管仲の法律論」である、と訳者は書いている。

一、法は、道理にかなったものでなくてはならない。
二、しかし、法そのものは絶対的であり、一度きめた法をかるがるしく変えてはならない。
三、法は君主主権確立のための絶対的な手段であるから、批判を許すべきではない。
四、厳法重罰主義の国は栄え、然らざる国は乱れる。
五、法をきびしくすることと、法令を多くすることは区別されねばならぬ。法は簡単なほうがよい。(p222)

前近代の国は国家の安定と「君主主権確立」は同等のものと言っていいだろう。

これを前提として、君主の法律作成独占を維持するためには、自分勝手な法を作ることなど問題外で、「道理にかなったものでなくてはならない」。

訳者はこの法法篇の意義について以下のように書いている。

韓非ほどの鋭さもなく、洞察力もない。が、韓非に先行すること約四百年、君権確立が進歩的役割をになっていた時代背景を考慮において読むと、また別の興味がわこうというものである。(p219)

恣意的または独善的な法(または法ではなく命令)が横行する時代から明文法の時代までの過渡期にあって、法法篇の主張が価値を持つということなのだろう。

五輔篇

人心を掌握し、よい政治を行なうためには「徳」、「義」、「礼」、「法」、「権」の五つの段階をふまねばならぬ。(p226)

「徳」、「義」、「礼」は諸子百家でよく出てくるワードだが、流派によって大なり小なり違いがある。

良い政治をするための5段階も重要だが、上記の五つのキーワードが『管子』ではどのようなものかも興味深い。ただし、読む限りではこの篇に書いてあることがそれぞれのキーワードの定義ということではないらしい。

実務重視の『管子』では、以上のような抽象的なワードも具体的な行動によって示される。

人民が君主に対して「徳がある」と思うようにさせるためには「厚生、経済、水利、寛政(寛容な政治)、救急、救窮の六つを成功させなければならない。(p227)

結局のところ、ここでいう「徳」は「得」であり、君主が得を与えてくれるのならば、人民は従う。

一、親を大切にすること。
二、主君に忠節をつくすこと。
三、礼節を守ること。
四、行ないを慎み、法を犯さぬこと。
五、むだを省き、飢饉に備えること。
六、質実剛健を尚(たっと)び、災害や戦乱に備えること。
七、協力一致して敵の侵略に備えること。(p229)

具体的な行動が盛り込まれているところが『管子』らしい。

君主に徳があれば人民は従順になり、国家は君主の下で一致団結できる。

一、君主は公正にして無死であること。
二、臣下は忠義深く、私党をつくらぬこと。
三、父はいつくしみ深く、子を教え導くこと。
四、子はひたすらに親に孝養をつくすこと。
五、年長者は年少者をいたわり導くこと。
六、年少者は年長者にすなおに従うこと。
七、夫は誠実に妻を愛すること。
八、妻は家事にいそしみ、夫に貞節であること。(p232)

君臣、親子、長幼、夫婦の相対関係にある者同士がお互いの分を犯さずに以上のことを心がけて行動すれば、社会秩序が保たれ、各人の生活は安定する。

ここでいう「法」は身分秩序の安定のことを指す。君主、重臣、行政担当者、士、人民、それぞれの身分の者にはそれぞれの責務がある。

それぞれがこの責務を自覚して全うすれば、身分秩序は安定する。

徳→義→礼→法と各身分の人々が各々の身分秩序を自覚して全うできるレベルになって、その次が最後のステージの「権」となる。

ここで「権」とは何かを一言で表すのは難しいので、まずは「権」を体得するための尺度を引用する。

一、天の時を考えること。
二、地の利を考えること。
三、人の和を考えること。(p235)

「天の時」を考えるとは、具体的には、天災が起こらないようにする方策、または起こった場合の対応・対策のことで、これを十分にできること。

「地の利」は農作物の利益のことで、飢饉が起こらないようにする方策、または起こってしまった場合の対応などを考えること。

「人の和」は団結すること。

それぞれの身分の者がそれぞれの責務を自覚しながら、これらについて考えることができれば、どんな場合にでも臨機応変の対処ができ、大業を為すことができる。

七法篇

「七法篇」は管仲が書いたものとされている。

「七法篇」は軍事に関するものだが、それはだいたいが(軍人の立場からの主張というよりも)政治家の立場から書いたものだ。

兵法に関することというより、戦争をする前にどれだけ準備できるかが勝敗のカギを握るということを主張している。

豊富な物資、良質の武器、優れた人材、鍛錬された兵士、十分な情報、そして臨機応変の処置ができる状態。これが整えば必勝だ。

敵国を攻撃する前に、まず自国の内政の安定をはかるべきである。内政が安定しないのに国外に兵を出すのは、自ら壊滅を招くに等しい。(p244)

内政には物資の充実以外に、上記の五輔篇にあるような全国民のレベルの度合いも含まれるはずだ。

そして彼我の状況を比較検討して有利な形勢の時に仕掛ければ必ず勝つことができる。



管子(3)(立政篇/乗馬篇/軽重篇)

前回からの続き。

立政篇

立政篇も管仲が書いたと言われている。

立政篇は行政上の細則や心得のようなものを集めたものだ。

その中で、訳者が注目している一つが、管仲が「重農主義者」であったということだ。

『管子』は『孫子』や『老子』などの多くの諸子百家の書とは違い、(抽象的でなく)かなり現実に即した即物的な書だ。それは管仲が政治家であるからであり、管仲以外の執筆者もこれを意識していたと思われる。

そういう意味で、管仲は生産力に重きを置いた。その一方で、工芸を贅沢なもの、無駄なものとして過剰なものは禁止するとまで書いている。斉の首都臨淄にはきらびやかなイメージを持っていたが改めなければいけないかもしれない。

またこの篇では監察にも言及している。監察は中国政治の伝統であるが、春秋時代に既にあったようだ。ただし、訳者は「たいていの時代、それが形式だけに終わっていた」と書いている。監察に賄賂を贈る慣習の話は三国志の一つの見せ場だ。

乗馬篇

乗馬篇も管仲が書いたと言われている。

「乗馬」とは兵賦の意味である、と訳者は書く一方で、乗馬篇は「主として税賦の制度を述べた者である」と書いている。

立政篇に続き、ここでも生産性について書かれているが、ここでは「土地は政治の基本」と主張している。管仲は生産性の評価を土地の面積だけで割り出すことを否定し、肥沃度や気候、生産物の質などに注目して課税の算出を考えるべきことを説いている。

私が特に注目したい箇所は以下の訳文だ。

市況は受給状況を示すものである。物価を下げれば商業利潤は薄くなる。商業利潤が薄くなれば、人民は商業に手をださず、農業生産にいそしむようになる。人民の大多数が農業を本務と心得てそれにいそしめば、社会の気風は質実となり、国家の財政は安定する。(p134)

毛沢東の政策を想起させるようなこの文句が、現代では間違っていることは言うに及ばない。現代では人民の大多数が農業をしたら、生産過剰になってしまって農産物の価格が二束三文にしかならない。食うには困らないが、食って寝るだけの人生を生きる人民を「社会の気風は質実」として片付けるのは人民の生活を満足させるに至らない(少なくとも現代では)。

市況に注意すれば、その国の政治の消長を察することができる。市場にぜいたく品が出回っているときには人心は浮ついており、実用品が多いときには政治は落ち着いていると判断してよい。(p134)

これは現在の日本の国政が採用している経済政策に近い考え方だ。そして間違っている。100円ショップが流行っているのは「実用品が多いとき」と言っていいだろう。しかしこれはデフレを表しているわけで、つまりは不況の時である。

「市場にぜいたく品」が出回って、人心が浮ついて金を使うような状況になってはじめて経済成長が見込まれ、国としての発展が見込まれるわけだ。日本以外の国の多くがそのように発展している中で、これは日本が停滞している原因として大きな部分となっている。

ただ、このような考え方は「マクロ経済はある程度コントロールできる」という考えを元にしている。春秋戦国時代の人も現代日本の為政者も「マクロ経済はコントロールできない」と考えているのだろう。

軽重篇

「軽重」は物価を意味する。訳者は「けいじゅう」と読んでいる。「軽重」は管仲が書かれたものではないとされている。

軽重篇は乗馬篇に続き、経済政策に関する篇。甲から康の7つの章があり、多くの紙幅を割いている。

経済政策は現代のものと比べれば取るに足らないものが多いが、独占が国を危うくすることと泥棒を生み出さない社会への言及など注目すべき点もある。

塩の専売

特に塩の専売などは管仲が始めた(ことになっている)そうだ。塩は中国社会の歴史を通じて需要が供給を大きく上回る物資だったので、安定供給のためにも専売は独占禁止の例外にあたるものだった(専売する理由はその収入のほうが遥かにメリットが高いが)。

夷狄掌握の法

軽重篇でもう一つ、興味深い節がある。「夷狄掌握の法」(p167-168)。

管仲曰く「各地の特産物を買い入れて流通を促進し、当方にたいする依存度を深めてゆけば、かれらは自然に入朝してこようというものです」。

これは中国の朝貢の原理だ。管仲が考え出したのかどうか知らないが、これにより交流を深め、衝突を起こりにくくした。



管子(2)(形勢篇/権修篇)

前回からの続き。

形勢篇

形勢篇は、牧民篇と同じく、管仲が書いたと言われる経言9篇のうちの一つ。ただし形勢篇はもともとは山高篇と言われていた。

形勢篇の導入部で以下のように訳者は以下のように書いている。

物事には勢いというものがある。勢いに乗れば発展の度合いは速く、勢いがないのは衰亡をあらわす。勢いは必ず形によってきまる。為政者にはそれにふさわしい形--姿勢がいる。[以下略]

この引用部分は形勢篇の本文の訳ではない。『管子』中の「形勢解」篇(形勢篇を解説したもの)を参照しているというので(p95)おそらくはそちらからの訳出か要約なのだろう。

形勢=天の道

本文において「形」に相当する言葉は「道」または「天の道」。

「天の道」についての部分を抜粋する。

「天の道はただひとつの方向しか示さないが、実践のしかたによって現れ方は違ってくる。」
「君主たるべき道とはなにか。天の道がそれである。」
「現状を理解できないときには、昔のことから推察するがよい。未来を予測できないときには、過去を振りかえってみるがよい。すべてものごとは、現れ方は異なっているようでも、その法則性は、古今を通じて同一である。」
「天の道にのっとる者は成功するが、逆らう者はとりかえしのつかない失敗をするのだ。」(90-91)

訳者は「天の道」を説明するために法則性という言葉を使っている。これは言い換えれば「本質」と言ってもいいかもしれない。治める国の過去を振り返り、行政においての成功や失敗、文化や社会情勢などを調べれば、現在においてどのように行動すれば成功を収められるのかが分かってくる。

「君、君たらざれば、臣、臣たらず」

「君、君たらざれば、臣、臣たらず」という有名な言葉も形勢篇にあった(p88)。

意味は「君主が君主としての本分を全うしなければ、臣下もまたその職分を全うしない」という意味。

では、君主としての本分とはなにか。

「上下の気持ちを一致させる」というが、これは君主が政治・行政の方針を臣下に深く理解させるということになるだろう。そして君主はその方針に従って行動して臣下にこれをさせる。

これは、諸子百家の法家が法の成文化を強調した理由と言えるだろう。

もうひとつは、「恩沢を施して民心をつかみ、他方では威厳にもとづいて人民を支配する」とある。恩沢と威厳は形勢篇の冒頭で説明されている。恩沢とは国民の生活を豊かにするために尽くすことで、人民に威厳を感じさせるためにはどうすればいいかというと、やはり恩沢を施すことが重要だとする。

権修篇

修論管仲が書いたと言われている。

ここでの主張は、国力に合わせた国家経営、適切な論功行賞、能力に応じた人材配置、民力を低下させる重税・重労役の回避など。そして何より国の力の根本は民の力であることをここでも訴えている。

「天下を為(おさ)めんと欲する者は……」

天下を為(おさ)めんと欲する者は、かならずその国を用うるを重んず。
その国を為めんと欲する者は、必ずその民を重く用う。
その民を為めんと欲する者は、必ずその民力を尽くすを重んず。

天下を収めようとする者は、かるがるしく国を動かしはしない。
国を治めようとする者は、かるがるしく人民を使役しない。
人心をつかもうとする者は、かるがるしく民力を疲弊させない。(p100-101)

これは『管子』の思想の根本に通じる文句。

訳者は《労働力を根源を枯らしてはならないというこの主張は、君主の恣意的支配から組織的統治へ、やがては法家思想を生み出す源流となった》と補足している。

管仲は法家の始祖と言われることがある。法家については以下の記事で書いた。



管子(1)(『管子』について/牧民篇)

今回は以下の本をテキストとした。

『管子』について

『管子』は春秋時代の有名な大宰相・管仲が書いた書であると紹介されることがある。実際は後世の学者たちが彼の名にかこつけて書いたものの総集だ。その時代は春秋末期から漢代にかけて、その人たちはおそらくは斉に集まったいわゆる稷下の学士と呼ばれた学者たち。ただし、戦国末期には『管子』は世に知られる書だったということなので、「世に知られる書」になってからも誰かが書き加えたものが現在も遺っているということになる。管仲が「書いたであろう」部分が一部あるとされている(経言9篇)

前漢末期には『管子』は五百を超える篇があったのだが、当代の学者である劉向が86篇に仕立て直し、これが定着した。しかしそこから10篇が失われ、現在に遺るのは76篇となる。

内容はさまざまで、政治・法・経済・軍略などなど。管仲の伝記も含まれている。

牧民篇

牧民篇は『管子』の最初に置かれる篇で、管仲が書いたと言われる経言9篇のうちの一つだ。

「牧民」の「牧」は家畜飼育するという意味で、「牧民」は「民を飼育する」という意味になる。後世の学者で「民を飼育するとは何事か!」と批判したとのことだが、そんなことには腹を立てずに「牧民≒統治または民心掌握」と考えればいいと思う。

「倉廩実つれば礼節を知り、衣食足りれば栄辱を知る」

この篇では『管子』でいちばん有名な文句「衣食足りて礼節を知る」がある。

正しくは「倉廩実つれば礼節を知り、衣食足りれば栄辱を知る」 *1

倉廩とは食料を蓄える倉のこと。簡単に意味を解釈すれば、「生活水準を上げなければ、民度は上がらない」ということだ。言い換えれば、「民に道徳を教化するためには、まず民の生活を安定させることだ」。

これは現在でも通じる政治の基本だ。

四維

「維」とは綱のこと「四維(しい)」とは礼・義・廉・恥のこと。

  • 礼は節度を守ること
  • 義は自己宣伝をしないこと
  • 廉は自己の過ちを隠さないこと
  • 恥は他人の悪事に引きずられないこと

四本のうち、 1つ切れれば、国は安定を欠き、 2つ切れれば、危機に瀕する。 3つ切れれば、転覆し、 4つ切れれば、滅亡する。

前近代ならいざしらず、現代ではどうだろうか?

現代中国なんて4つのうち1つも最初から持っていない。

民主主義国では自己宣伝しないと政治家になれないし、過ちを怖れ過ぎれば発展できない(後者については日本が良い例)。まあ自己宣伝するにもリスクを取るにも節度を守れということだろうか。

四順

「政(まつりごと)の興(おこ)るところは、民心に順(したが)うに在り、政の廃(すた)るところは、民心に逆らうに在り。」

上の言葉の後に以下の引用が続く。

人民はだれしも苦労をいとう。だから君主は人民の苦労を除く方法を講じなければならない。
人民はだれしも貧乏を嫌う。だから君主は人民の生活を豊かにさせなければならない。
人民は誰しも災難を逃れたい。だから君主は人民の安全をはからなかえればならない。
人民はだれしも一族滅亡の憂き目を見たくない。だから君主は人民の繁栄をはからなければならない。(p71)

これが四順と言われるもの。

これができれば、人民は進んで君主のために財も労力も惜しまずに尽くしてくれる、と『管子』は主張する。また刑罰を厳しくして、威圧して服従させることは不可能である、とする。北風と太陽のような主張だ。

そんなに人民は甘くはないと思うし、厳罰の威圧も有力な方策の1つだ。それでも政治の基本としての「四順」は人民にとって君主に望む(要求する)ものだ。

春秋戦国時代において、各国の君主が国を強くしようと考えて、諸子(先生・学者たち)に意見を聞いた。いろいろな主張が出る中で、管仲は「民に尽くせ」と説いた。その結果、斉国は栄え、王都・臨淄は当時の有数の大都市となった。

理念を明確にせよ

「六親五法」の項を訳者松本一男氏は「臣下をどう掌握するか」というタイトルをつけた。そしてこの項の解説は以下のように書いている。

理念を明確にせよ 冷厳な"人間支配術"を説いた韓非は、「二柄」篇で、「君主は自分の好みを臣下に見せるな」と説いている。管仲は、これとは逆に、指導者は本心を明らかにせよというのである。いずれをとるかはそれぞれの見方によるが、管仲の見解は、単に「肚(はら)をわって」式のものではなく、指導理念を臣下の前に明確にすることを強調しているのである。(p78)

管仲がいた時代は、まだ行政が組織化されていなかったし、法も成文化されていなかった。法の成文化は諸子百家における法家から出てくるのだが、管仲はその先駆的な発想を持っていたことになる。

ただし、法家を代表する一人・韓非とは対象的な考え方であるのは松本氏が言ってる通りだ。これは秦国と斉国のお国柄の違いに基づく政治観なのだろう。後世の中国の歴代の為政者たちは両者を場合に応じて使い分けた。



*1:倉廩實則知禮節,衣食足則知榮辱(管子/第01篇牧民 - 维基文库,自由的图书馆

「 中東_メソポタミア文明②」カテゴリーの主要な参考図書

「 中東_メソポタミア文明②」シリーズ終了。

メソポタミア文明①」カテゴリーはシュメール人最後の王朝ウル第三王朝の滅亡まで書いた。このカテゴリーはその続きとなる。

メソポタミア文明の終わりの時期について。以下は『古代メソポタミア全史』(中公新書/2020)を書いた小林登志子の言葉。

「古代メソポタミア史」は紀元前3500年の都市文明のはじまりから、前539年の新バビロニア王国の滅亡までを、学問的には扱います。

出典:『古代メソポタミア全史』/小林登志子インタビュー|web中公新書

だがしかし、そうするとヘレニズムまでのあいだのアケメネス朝ペルシア帝国が浮いてしまうので、ペルシア帝国は便宜上、このカテゴリーに入れた。

範囲について。「メソポタミア文明」と書いておきながら、シリアパレスチナアナトリアその他メソポタミア(現在のイラク)の周辺の歴史も、便宜上、このカテゴリに入れた。カテゴリー増大を避けるため。

以下はこのカテゴリーで利用した主な参考図書。

参考図書以外にwikipediaも大いに参考にしている。歴代王の一覧は助かる。

小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020

長い歴史を新書サイズにまとめてくれている有り難い本。この本があったために中公の世界史を読む必要がなくなった。

新しい本だが、書いていることは目新しくないっぽい。

基本的にほぼメソポタミアアッシリアバビロニア)だけの歴史なので、シリア・パレスチナアナトリアヒッタイト)のことはほとんど書かれていない。(このブログのヒッタイト関連はだいたいがwikipedia情報だ)

長谷川 修一/聖書考古学 - 遺跡が語る史実/中公新書/2013

古代イスラエルの歴史を知るために読んだ。聖書の中の歴史と考古学の成果や出土文献を照らし合わせている。これで聖書の中の「歴史」が意外と(と言っては怒られそうだが)史実に即していることが分かる。ただし、聖書は「古代イスラエル人にとって有益か害悪か」という史観なので注意が必要。

古代イスラエル史を知るためには先にアッシリアの歴史を知っておくとわかりやすい。

山我哲雄/一神教の起源 - 旧約聖書の「神」はどこから来たのか/筑摩選書/2013

ユダヤ教成立の歴史についての本。

宗教上の変遷が書かれている。

ユダヤ教が形成される以前にはシリア・パレスチナにはウガリット神話というものがあった。エジプトやメソポタミアギリシアにあったような多神教の宗教体系だ。

ここからどのようにユダヤ教が形成されるのかを聖書の中から読み解いているのがこの本だ。読み応えあり。

青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009

アーリア人」と「インド=ヨーロッパ語族」の意味を理解するためにも読んだほうがいい本。

民族を分類別に紹介しているので助かる。

ただし個々の民族の歴史は紙幅のために不十分だ(ちょっとした紹介程度)。スキタイ、ペルシア人については全然足りなかった。他の民族についてもそうなのだろう(調べていないので分からないが)。

林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)

スキタイを知る上で欠かせない本。

騎馬遊牧民族の誕生も分かる。

ただし、考古学がメインなので分からないことが多かった(分からないことだらけだった)。

青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020

アケメネス朝だけでなくその後の「ペルシア帝国」まで書いてある。その分アケメネス朝の部分は少ない。

ペルシアの文献を多く使っているらしいが、文献の出典が書かれていない場合が多いところが残念な点。

下記のようなギリシア系文献で構築されるペルシア史に対してペルシア帝国内の史料を多用しているのがこの本の特徴かもしれない(ギリシア側の文献も少なからず使っている *1 )。

阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021

上の本と比べるとこちらはギリシア語文献からアケメネス朝を語っている。ペルシア帝国自身の文献が断片的なものしか遺っていない一方で、同時代もしくは数世紀後のギリシア人がペルシアの歴史を詳しく書いている。

文献の出典が書かれており、その文献を批判的に読んでいるので好感が持てる。上の本と並行して読むと理解が深まると思う(混乱することも少なからずあるとも思う)。

《PDF》中川洋一郎 (2019) 「前4千年紀、遊牧民としての原インド・ヨーロッパ語族民の生成―狩猟採集民による農牧文化の習得とステップへの進出という起業家的行動―」.pdf

遊牧の起源を理解できた(私の理解が正しければだが)。

これは読んどいた方がいい。



*1:下記の本と読み比べて分かった

アケメネス朝ペルシア帝国 その12 言語・文字/世界帝国

前回まででアケメネス朝の通史は終わったので、ここではこれまで書いていなかった事項を書いておく。

言語・文字

広大な地域を支配したペルシア帝国には、土着の言語と共通の言語があった。

共通の言語はアラム語だ。

オリエント世界を最初に統一した新アッシリア帝国では、アラム語と、メソポタミアで古くから使用されていたアッカド語が話されていたが (新アッシリア⑤ ニネヴェの図書館/言語/行政/アッシリアの強さ 参照)、ペルシア帝国のダレイオス1世の頃にはアラム語になった。

文字に関して言えば、この時代は書記媒体が粘土板からパピルスへの過渡期が終わろうとする頃で、アラム語の文字(アルファベット)が主体でアッカド語の文字(楔形文字)では書かれなくなった。(青木健/ペルシア帝国/2020/講談社現代新書/p64)

普及した文字はアラム文字だが、エラム語やアッカド語やペルシア語の文字も使用された(ただし、どの程度の使用度だったのかは私には分からない)。有名なベヒストゥン碑文(ベヒストゥン碑文 - Wikipedia 参照)はこの3つの文字で書かれている。

ペルシア文字はダレイオス1世が作らせた文字だったが、公的な碑文以外は使用されず普及する前に使われなくなった。(阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p99)

世界帝国

まず、「世界帝国」という言葉は定義が定まった用語ではない。とりあえず「帝国」の定義について。

通常は自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家をいう (大英帝国大日本帝国など) 。その原型は古代ローマ帝国にあるが,近代においては海外に植民地をもったヨーロッパの列強をさすことが多い。さらに軍事力で広大な領域を支配している国や侵略主義的な大国も帝国と呼ばれる。 (→帝国主義 , 植民地主義 )

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/帝国とは - コトバンク

帝国主義」という言葉があるように、近現代史で使用される「帝国」には抽象化または比喩化された意味合いが混じってくるので注意が必要だ。

基本的には前半部分の広大な規模を有する国家を表現する言葉だ。そしてさらに規模が大きいものを「世界帝国」と呼ぶ、と考えればいいだろう。

歴史用語全体に言えることだが、理科系の用語のような厳密な定義はないと思った方がいい。こんなこと言ったらプロに怒られるか。

さて、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国』という本がある。いままでの勉強で大変お世話になった本だ。

阿部氏はペルシア帝国こそが史上初の世界帝国だと言っている。別の候補としてペルシア帝国の前にオリエント世界を統一した新アッシリア帝国があるのだが、それと比べて何故ペルシア帝国が「史上初」なのか?阿部氏は「はじめに」で手短に説明している。

アケメネス朝ペルシアは、揺籃の地の位置するアジアを越え、アフリカ、ヨーロッパにまで、その支配領域を拡張したのである(新アッシリアはエジプトを征服したものの有効支配できず、ヨーロッパとアナトリアの大部分には当地が及ばなかった)。

阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p11

  • 揺籃の地とはおそらく文明の発祥地のメソポタミアのことだろう。

上記に加えて支配期間のこともあるだろう。オリエント統一を達成したのはアッシュルバニパルの治世だったが、彼が死ぬと帝国のシステムは崩壊した。

ただし、私がここで言っておきたいことは、ペルシア帝国の帝国統治システムはほとんどが新アッシリア帝国のそれの使い回しだということだ。統治システムを開発したのは新アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世だ、と私は思っている。

彼が行なった行政や軍制などは以前からあったものなのだが、それらを一つの統治システムとして統合したことがすごいのだ。

個人的には「史上初の世界帝国」は新アッシリア帝国だと思っている。ただ、ここらへんは厳密な成否はないと思うので個々人が別々の説を採用しても自由だと思う。



アケメネス朝ペルシア帝国 その11 ダレイオス3世とペルシア帝国滅亡

前回からの続き。

ダレイオス3世はアケメネス朝ペルシア帝国の最後の王で、アレクサンドロス大王によって滅ぼされる。

ダレイオス3世と前回のアルタクセルクセス3世の間に一人の王がいる。その名はアルタクセルクセス4世だが、ギリシア文献だと「アルセス」という呼び名のほうが通っているそうだ。

アルセスの治世については史料が無いので書かない。

ダレイオス3世即位までの経緯

この経緯も例によって(?)確定されていない(王による史実の改竄が度々疑われている)。

前1世紀の古代ギリシア人ディオドロス『歴史叢書』によれば、以下の通り。

  • アルタクセルクセス3世の治世の宦官で宮廷内の実力者であったバゴアスという人物が大王を毒殺して実権を握り、アルセスを王位に就けた。

  • バゴアスはアルセスを孤立化させるために兄弟も殺した。そしてアルセス自身が反抗的になったため、彼自身と彼の子どもたちも殺害した。

  • バゴアスは彼の友人であったダレイオス(3世)を王位に就けた(ディオドロスはダレイオスが王族か否かについて言及していない)。

  • しかし結局のところ、2人は仲違いし、バゴアスがダレイオスを暗殺しようとしたところ、その企みが事前に発覚したためにダレイオスがバゴアスに毒杯を飲ませた。これで一連の経緯は終わる。

基本的に上記のシナリオが史実の有力な候補と考えられているようだ。アルタクセルクセス3世は自然死であるという史料もあるにはある。ダレイオスが王族か否かについては両者に論拠があり、現在も確定していないようだ。(以上、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』 *1 参照)

阿部氏はディオドロスのシナリオに論拠がある(ただの作り話ではない)としながらも、もう一つの可能性に言及している。

それは、ダレイオス(3世)首謀説で、バゴアスに全ての罪をかぶせたというもの。その論拠は(私個人的には)弱いと思うが(ここには書かない)、アケメネス朝の公式見解は数度史実を捻じ曲げているので、可能性はゼロだとは言えない。

滅亡

ダレイオスが即位したのが前336年で、アレクサンドロス大王の東方遠征が前334年、ダレイオス自身が死ぬのが前330年。ダレイオスの事績はアレクサンドロスに負けた以外に分かることは私には無い。

アレクサンドロス大王の東方遠征の詳細や彼の強さについては別の機会に書くとして、ここでは当時のペルシア帝国の弱さ・脆さについてだけ。

青木健『ペルシア帝国』 *2 によれば、帝国中央の騒ぎの後、西部諸州の独立傾向が止まらぬ中、絶好のタイミングでアレクサンドロス大王が攻めてきた、となる。

この戦いの数十年前(あるいは百数十年前)にはペルシア帝国はギリシア人の将軍や傭兵に少なからず依存していたことからも、ペルシア帝国後期の国内の軍事力はそれほどではなかったと思われる。

前330年、連敗したダレイオスは東方のバクトリア(現在のアフガニスタン北部辺り)に逃げたが、バクトリア総督(サトラップ)のベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡した。

なお、 ベッソスは自らをペルシア王アルタクセルクセスと名乗ったが、アレクサンドロスの軍に捕らえられて処刑された。彼はペルシアの王としては数えられていない。 (ベッソス - Wikipedia

これでペルシア帝国の歴史は終わった。



*1:中公新書/2021/p220-225

*2:講談社新書/2020/p103