歴史の世界

管子(1)(『管子』について/牧民篇)

今回は以下の本をテキストとした。

『管子』について

『管子』は春秋時代の有名な大宰相・管仲が書いた書であると紹介されることがある。実際は後世の学者たちが彼の名にかこつけて書いたものの総集だ。その時代は春秋末期から漢代にかけて、その人たちはおそらくは斉に集まったいわゆる稷下の学士と呼ばれた学者たち。ただし、戦国末期には『管子』は世に知られる書だったということなので、「世に知られる書」になってからも誰かが書き加えたものが現在も遺っているということになる。管仲が「書いたであろう」部分が一部あるとされている(経言9篇)

前漢末期には『管子』は五百を超える篇があったのだが、当代の学者である劉向が86篇に仕立て直し、これが定着した。しかしそこから10篇が失われ、現在に遺るのは76篇となる。

内容はさまざまで、政治・法・経済・軍略などなど。管仲の伝記も含まれている。

牧民篇

牧民篇は『管子』の最初に置かれる篇で、管仲が書いたと言われる経言9篇のうちの一つだ。

「牧民」の「牧」は家畜飼育するという意味で、「牧民」は「民を飼育する」という意味になる。後世の学者で「民を飼育するとは何事か!」と批判したとのことだが、そんなことには腹を立てずに「牧民≒統治または民心掌握」と考えればいいと思う。

「倉廩実つれば礼節を知り、衣食足りれば栄辱を知る」

この篇では『管子』でいちばん有名な文句「衣食足りて礼節を知る」がある。

正しくは「倉廩実つれば礼節を知り、衣食足りれば栄辱を知る」 *1

倉廩とは食料を蓄える倉のこと。簡単に意味を解釈すれば、「生活水準を上げなければ、民度は上がらない」ということだ。言い換えれば、「民に道徳を教化するためには、まず民の生活を安定させることだ」。

これは現在でも通じる政治の基本だ。

四維

「維」とは綱のこと「四維(しい)」とは礼・義・廉・恥のこと。

  • 礼は節度を守ること
  • 義は自己宣伝をしないこと
  • 廉は自己の過ちを隠さないこと
  • 恥は他人の悪事に引きずられないこと

四本のうち、 1つ切れれば、国は安定を欠き、 2つ切れれば、危機に瀕する。 3つ切れれば、転覆し、 4つ切れれば、滅亡する。

前近代ならいざしらず、現代ではどうだろうか?

現代中国なんて4つのうち1つも最初から持っていない。

民主主義国では自己宣伝しないと政治家になれないし、過ちを怖れ過ぎれば発展できない(後者については日本が良い例)。まあ自己宣伝するにもリスクを取るにも節度を守れということだろうか。

四順

「政(まつりごと)の興(おこ)るところは、民心に順(したが)うに在り、政の廃(すた)るところは、民心に逆らうに在り。」

上の言葉の後に以下の引用が続く。

人民はだれしも苦労をいとう。だから君主は人民の苦労を除く方法を講じなければならない。
人民はだれしも貧乏を嫌う。だから君主は人民の生活を豊かにさせなければならない。
人民は誰しも災難を逃れたい。だから君主は人民の安全をはからなかえればならない。
人民はだれしも一族滅亡の憂き目を見たくない。だから君主は人民の繁栄をはからなければならない。(p71)

これが四順と言われるもの。

これができれば、人民は進んで君主のために財も労力も惜しまずに尽くしてくれる、と『管子』は主張する。また刑罰を厳しくして、威圧して服従させることは不可能である、とする。北風と太陽のような主張だ。

そんなに人民は甘くはないと思うし、厳罰の威圧も有力な方策の1つだ。それでも政治の基本としての「四順」は人民にとって君主に望む(要求する)ものだ。

春秋戦国時代において、各国の君主が国を強くしようと考えて、諸子(先生・学者たち)に意見を聞いた。いろいろな主張が出る中で、管仲は「民に尽くせ」と説いた。その結果、斉国は栄え、王都・臨淄は当時の有数の大都市となった。

理念を明確にせよ

「六親五法」の項を訳者松本一男氏は「臣下をどう掌握するか」というタイトルをつけた。そしてこの項の解説は以下のように書いている。

理念を明確にせよ 冷厳な"人間支配術"を説いた韓非は、「二柄」篇で、「君主は自分の好みを臣下に見せるな」と説いている。管仲は、これとは逆に、指導者は本心を明らかにせよというのである。いずれをとるかはそれぞれの見方によるが、管仲の見解は、単に「肚(はら)をわって」式のものではなく、指導理念を臣下の前に明確にすることを強調しているのである。(p78)

管仲がいた時代は、まだ行政が組織化されていなかったし、法も成文化されていなかった。法の成文化は諸子百家における法家から出てくるのだが、管仲はその先駆的な発想を持っていたことになる。

ただし、法家を代表する一人・韓非とは対象的な考え方であるのは松本氏が言ってる通りだ。これは秦国と斉国のお国柄の違いに基づく政治観なのだろう。後世の中国の歴代の為政者たちは両者を場合に応じて使い分けた。



*1:倉廩實則知禮節,衣食足則知榮辱(管子/第01篇牧民 - 维基文库,自由的图书馆