歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その10 アルタクセルクセス3世

前回からの続き。

即位と国内平定

今回の代替わりでも後継者戦争が起こった。後継者争いが毎回のように起こるのは、アケメネス朝に後継者を決める取り決めが無かったからだという。

長命のアルタクセルクセス2世は多くの王子を授かったのはいいが、彼らが後継者争いを始めたら最期、収拾できなくなった。

けっきょく、熾烈な後継者争いを勝ち残ったオコスが即位し、名をアルタクセルクセス(3世)と改めた。

即位後、王位の候補となった兄妹のみならず、継承権のない姉妹までも大量虐殺した。

このような武断的なやり方は、宮廷の外まで続く。

[アルタクセルクセスは]即位すると、西部諸州で独立王朝化しているクシャサパヴァン[=サトラップ]たちを軍事力によって打倒すべく、メディアから小アジアへ遠征を試みている。この作戦はおおむね成功し、西部諸州の独立に一時的に歯止めをかけた。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p95-96

反乱が多発する西部を抑えた後、いよいよエジプト遠征に乗り出す。

エジプト遠征

当時のエジプトの王朝は第30王朝。ペルシア帝国から独立した王朝が第28王朝。

さてペルシア帝国のエジプト遠征は2回行われた。

前351年(または前350年)、第1回は大王みずから軍を率いたが失敗した。撃退した主力はギリシア人傭兵部隊だった(青木氏/p96)。その挙げ句にはキプロスフェニキアパレスチナ)、キリキア(小アジア南東)で反乱が起こった。

大王は第2回遠征に取り掛かる前に、まず反乱地域を鎮圧しなければならなかった。

フェニキア地方の反乱の首謀者はシドン王テンネスだった。テンネスはエジプトと同盟を組んで支援を要請し、エジプトはギリシア人傭兵部隊を派遣した。

しかしテンネスはペルシア軍が大挙して向かってくる報を聞くとペルシア帝国に寝返った。アルタクルセクセスは彼の寝返りを受け入れてシドンを占拠するとテンネスを殺し、ギリシア人傭兵部隊を自陣に組み込んだ(前347-345 *1 )。

前343年、第2回遠征が行われた。大軍のうち、3つに別れた分隊のひとつが防衛ラインを崩すと、エジプト王ネクタポ2世はナイルデルタからメンフィスへ逃げ、その後防衛ラインが総崩れになるとさらにヌビアまで逃亡してしまった。エジプト王の逃亡で、ペルシア軍はあっけなくエジプトを再占領した。

占領後、アルタクセルクセスが第31王朝の創始のファラオとなった。ただし、ペルシア帝国としてはエジプトは行政区のひとつであり、ペルシア人のサトラップを置いた。

その政治行政は以前のペルシア帝国の寛容さとは違い、神殿から金品を奪い、反乱をさせないように恐怖政治が敷かれた。

死去

この大王の治世の記録はかなり少ないらしく、分かることは少ないらしい。

それでも少ない史料から見ることができる彼の21年の治世は彼の目的が成功裏に適ったものだった。



*1:阿部氏/p216

アケメネス朝ペルシア帝国 その9 アルタクセルクセス2世

前回からの続き。

骨肉の後継者戦争

ダレイオス2世が亡くなるとアルタクセルクセス2世が大王に即位する。骨肉の争いはアルタクセルクセスが即位したあとだった。

アルタクセルクセスはダレイオスの息子で、同腹の弟にキュロスがいた。ただし、両者の母親パリュサティスは弟の方を大王にしたかったようだ。

アルタクセルクセスが即位の儀礼を旧都パサルガダエ *1で行なっている最中にキュロスが暗殺を試みたが失敗した。キュロスは捕まって処刑されるはずだったが、パリュサティスが助命嘆願して赦された。

赦されたキュロスはもとの任務に戻った。キュロスはアナトリア西部のリュディア *2 のサトラップであったが、主要都市サルディアに戻ると傭兵を集めた。

前401年、キュロスはついに挙兵し、サルディスを発って、王都バビロンを向かった。大王軍も都から出て両者はバビロンの北70キロに位置するユーフラテス河畔のクナクサで対峙した (クナクサの戦い - Wikipedia )。

この戦いは、ギリシア語史料 *3 によると、キュロス軍が優勢であったがキュロス自身が先走りしすぎて、敵の投槍を受けて戦死してしまい決着がついた。いっぽう、ペルシア帝国の公式見解によれば、大王アルタクセルクセスとキュロスが戦場で決闘して大王自らの手でキュロスを誅殺した。 *4

いずれにしろ、これにより権力抗争は決着した。

コリントス戦争と大王の和約

コリントス(コリント)戦争はギリシア勢力どうしの戦争だが、ペルシア帝国も深く関わっている。

ペロポネソス戦争の最中にスパルタはペルシア帝国に対して資金援助を申し出た。対価としてアナトリア西岸のギリシア諸都市がペルシア帝国支配下であることを認めることで合意した。この協定によってスパルタはアテナイに勝利できた。(前回参照)

これから数十年が経ち両国の王も代替わりする。前399年、スパルタ王の一人 *5 アゲシラオス2世が、上記の協定を破って、ギリシア都市をペルシアの支配から解放すると称してアナトリアに攻め込んだ (アゲシラオス2世 - Wikipedia )。

この時、スパルタは当てないに代わってギリシアの覇権を握っていたが、ペロポネソス戦争を共に戦った有力都市のコリントスやテーバイはこの戦いには参加しなかった。それどころか彼らはスパルタの勢力拡大志向に警戒していた。

そこでペルシア側が、スパルタに反感を抱く(彼らを含む)ギリシア諸都市にカネを配りながら戦争を煽った。その甲斐あって始まった対スパルタ戦争がコリントス戦争だ(前395年)。ペルシア帝国は各都市に支援金をばらまくだけでなく、自らも戦争に参加した。

しかし、特徴的なのはカネのバラマキ方だ。

コリントス戦争では、ペルシア帝国の支援先は一貫していない。アテナイとスパルタを交互に支援したあげく、最終的にはペロポネソス戦争時と同様、ペルシアの支援によってスパルタを勝たせた(前387年)。

出典:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p189

ギリシア人どうしの戦いの本当の勝者はペルシア帝国だった。この戦争の終結を意味する講和条約の名は(ペルシアの将軍の名にちなんで)「アンタルギダスの和約」と呼ばれることもあるが、もうひとつの呼び名「大王の和約」のほうがふさわしいだろう。

大王の和約
 前386年、アケメネス朝ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世が、ギリシアのスパルタと、アテネ・テーベ・コリントの同盟の間のコリント戦争の仲介して締結した和約。和約と言うが事実上はギリシアの諸ポリスがペルシア帝国と締結した誓約である。小アジアキプロス島はペルシア帝国領と定められ、ペルシア戦争の発端となったイオニア諸市は完全にペルシア領に復した。他のギリシア本土のポリスは独立が認められたが、侵略者に対してはペルシアと共に戦うことが規定され、スパルタがこの条約実効の監視役という立場となった。

出典:コリント戦争/大王の和約/世界史の窓

このやり方は古代ローマや近代のイギリスが行なった手法、すなわち分割統治そのものだ。当時のペルシア帝国には昔のような強力な軍事力はなくギリシアを併呑できなかったが、戦争によって弱体化したギリシア諸都市を影響下に置くことには成功した。

エジプト奪還ならず

エジプトの反乱は先王の最末期に始まり死の直前に王国が宣言された。

上記のキュロスとの後継者戦争を終わらせた後、すぐにエジプト鎮圧に取り掛かったと思ったらどうもそうではないらしい。

記録があまり無いらしいのだが、エジプト遠征は2~3度行われたらしい。このうち遠征の内容が分かるものが一つある。

前373年に遠征が行われるのだが、その司令官はファルナバゾスとイフィクラテスだった。

ファルナバゾスはペルシア帝国の大貴族の家系でヘレスポントス(アナトリアの北西部)のサトラップだが、イフィクラテスはアテナイの将軍だった。アテナイとしてはペルシア帝国の遠征の参加要請(または命令)に逆らうことができなかった。

しかし、メンフィス攻略戦の前に2人が仲違いして作戦が失敗した後、イフィクラテスがアテナイに帰国してしまった。これで遠征そのものが失敗になってしまう。

これ以降も遠征は企画されたが、アルタクセルクセスが高齢で求心力が無くなってしまったため、企画倒れになってしまった。(阿部氏/p211-213)

大王の求心力低下と後継者戦争と総督の反乱

上述の阿部氏によれば、当時のギリシア人は「ペルシアは恐れるに足りない!すでに衰退の一途を辿っている!」と息巻いていたが(p194-)、ペルシア帝国はなかなか倒れなかった。それどころか当のギリシアペルシア人の影響下に置かれていた。

21世紀、日本の言論人が「中国はもうすぐ潰れるだろう」といいつづけてはや数十年が経っている。歴史は繰り返される。

さて、そんなペルシア帝国だが、衰退の影はたしかにちらつかせていた。

〔前361年に〕アジア沿岸部の人々がペルシアから離反し、幾人かの総督や将軍が暴動を起こし、アルタクセルクセスに戦争を仕掛けた。同時にエジプト王タコスもペルシアと戦うことに決め、歩兵を徴募した。(ディオドロス『歴史叢書』150・90・1~2)

出典:安倍氏/p197

これについての解釈は複数あるのだが、安倍氏の見立てによれば、大王の老齢による求心力の低下によるものではないか、という。

大王は在位46年だったが、前361年当時の年齢は不確かではあるが80歳半ば~90歳前後だった。総督の反乱については前366-361。(p198-199)

これにより後継者争いが宮廷で起こり始め、それから各地に広がった。応仁の乱のようなものを想定しているようだ。

ただし、安倍氏はここから右肩下がりに衰退していくとは解釈していない。すなわちこの現象は後継者争いが終わるまでの一時的な動乱で、次期の大王が定まった時に自然消滅したと考えている。(p201)

いっぽう、青木健『ペルシア帝国』 *6 ではダレイオス2世の晩年にエジプトの独立を止められなかったところから既に衰退していた、とする。(p87)



*1:キュロス2世(大王)によって建設された、当時の首都

*2:昔のリュディア王国の一部。サルディアの周辺?

*3:ギリシア傭兵としてキュロス軍にいたクセノポンと、ペルシア宮廷の医師をしていたクテシアス

*4:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p184-185

*5:スパルタは2人の王で統治する体制だった

*6:講談社現代新書/2020

アケメネス朝ペルシア帝国 その8 ダレイオス2世

前回からの続き。

骨肉の動乱とダレイオス2世の即位

前424年、アルタクセルクセス1世が亡くなり、王太子だったクセルクセス(2世)が即位した。

しかし即位してわずか2ヶ月で異母弟ソグディアノスに暗殺される。そしてソグディアノスが王位に就いた。

さらに別の異母弟であるオコスが反旗を翻す。オコスは当時ヒルカニア(カスピ海南東沿岸)の総督だった。軍やエジプト総督がオコス陣営につき、ソグディアノスは敗れて処刑された。彼の治世は半年ばかりだった。

オコスは反旗を翻した時に、オコスという名をダレイオスに改めて大王と名乗った。

バビロニアの繁栄

アルタクセルクセス1世は多くの女性を娶ったが、そのうち少なくとも3人がバビロニア出身だった。

アルタクセルクセス1世の先王クセルクセス1世の治世には、バビロニアの中心都市バビロンが反乱を起こして鎮圧された。一説には王がバビロンを破壊して帝都の役割をはたせなくなったという(前回参照)。

しかしアルタクセルクセス1世の治世ではバビロニアの経済は繁栄していた。これを証明するのが、ニップルで出土した粘土板文書「ムラシュ文書」だ。

新たな支配者たち[アケメネス(ハカーマニシュ)朝王家]は自分の領地を管理する現地人の協力者を必要としていた。この現地の協力者たちの姿をニップルの商人ムラシュ家に見ることができる。少なくとも3世代続いたムラシュ家は、領主たちが保有していた土地を借り受け、これをさらに別の借主(小作農)へ又貸しするという事業を営んでいた。ムラシュ家はさらに国家から得た灌漑用水の利用権、種子、農具、家畜を小作農たちに販売していた。土地の所有者たちは、仲介者としての報酬として小作料と税金の一部をムラシュ家が確保することを認めていた。さらにムラシュ家は土地を担保にして銀を貸し出していた。多くの農民がこの貸付を必要していたと見られ[た]。[中略]

ハカーマニシュ朝時代には灌漑が改良され、移住者が増大し、リュディア人、カリア人、キッシア人、エジプト人ユダヤ人(その多くはバビロニア強制移住させられた人々である)、ペルシア人、メディア人、サカ人などがこの地域に引き寄せられた。

出典:ニップル - Wikipedia

そして前述のバビロニア出身の3人の女性とはソグディアノスの母アロギュネ、ダレイオス(オコス)の母コスマルテュデネ、ダレイオスの異母妹(そして妻)のパリュサティスの母アンディアである(アンディアはバビロン出身)。

ダレイオスは政権獲得時だけではなく、最期のときもバビロンで迎え[た]。

出典:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p176

クセルクセス1世がバビロンを破壊したかどうかは議論があるが、すくなくともアルタクセルクセス1世の治世にはバビロニアは重要な地域であり、ダレイオス2世の治世ではバビロンは王家として重要な都市であった。

サトラップの土着化

ダーラヤワシュ[ダレイオス]2世の頃から、「帝国」の統治体制に構造的な弛緩が見られるようになる。すなわち、各地のクシャサパーヴァン[サトラップ]が次第に世襲化して、中央政府の意向を代表するより、地元の利害を代弁するのである。そして、その両者の間には、この頃から埋め難い亀裂が生じていた。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p85

国内を分裂させた後継者戦争の後遺症だろう。中央政府の権力が弱ければ自分の身を守る力になるためには地元の力を自分の力にするしかない。このことは古今東西おなじだ。日本史の室町末期から戦国時代への変遷を思い浮かべればいい。

そして反乱が頻発するようになった。青木氏は、反乱が頻発する原因についての仮説を紹介している。要約は以下の通り。

ペルシア帝国の土着化(世襲化、独立王朝化)はもっぱら西部で起こった。西部は金貨・銀貨が古くから流通していたが、中央政府が金納・銀納でこれを吸い上げ、多くは王家の宝物庫に退蔵されてしまった。これにより、経済の循環が阻害され、それに不満を持った地元がサトラップとともに反乱を起こした。(青木氏/p86)

個人的には、有力者が西部のサトラップに集中していただけじゃないのかと思ったりするが、証拠は無い。

この後すぐに帝国が瓦解することはなかったので、とりあえず上述のように「弛緩が見られるようになる」という書き方になる。

ギリシア勢力との関係の変化

古代ギリシア中心の歴史は別の機会に書く。)

ペルシア帝国とギリシア勢力の戦争、つまりペルシア戦争は「カリアスの和約(前449年)」によって終結する(諸説あり、前回参照)。

ギリシア勢力内では、アテナイを盟主としたデロス同盟とスパルタを盟主としたペロポネソス同盟が対立した。

彼らは前431-404年に戦争するのだが(ペロポネソス戦争)、資金面で劣勢であったスパルタは開戦の翌年に、なんとペルシア帝国に資金援助を要請した。この時はまだ先王アルタクセルクセス1世の治世で交渉は不成立に終わった。

しかし前413年に転機が訪れる。

前415-413年のシチリア島遠征においてアテナイ軍は大敗北を喫した。これによりアテナイの軍事力が激しく落ちた。

これを好機としてスパルタは再びペルシアと交渉し、アナトリア西岸のイオニア諸国のペルシア帝国の宗主権を認めることで、資金援助を得ることに成功した。

結局、前404年、スパルタの勝利で戦争は終わり、ペルシア帝国は労せずして勢力を拡大することができた。ただし、ダレイオス2世も前404年に病気で亡くなる。

ダレイオスの死とエジプトの反乱

前411年にエジプトで反乱が起こり、大王が亡くなる前404年に反乱の首謀者アミルタイオスがエジプト王と宣言する。

オリエント世界では、反乱は代替わりの直後に良く発生するものだが、今回はダレイオスの死の直前に起こった。亡くなる前に重篤の情報がエジプトに届いていたのかもしれない。



アケメネス朝ペルシア帝国 その7 アルタクセルクセス1世

前回からの続き。

アルタクセルクセス1世

アルタクセルクセスは父クセルクセス1世が暗殺されたことにより、前465年、王位に就いた(暗殺の詳細は伝えられていない)。

「アルタクセルクセス」は古代ギリシア語の読みで、古代ペルシア語では「アルタクシャサ」と言う *1

エジプトの反乱

代替わりの時期に反乱が起きるのは古代オリエント世界の歴史においてよく見られることだ。

前460年、リビア人の首長イナロス2世によって反乱が開始された。サイス朝(エジプト第26王朝)に関係する人物かも知れないが確定はしていない。

当時のエジプト総督(サトラップ)はアケメネス(王家の一員)だったが、反乱開始の時は不在だったらしい。この反乱にアテナイは味方して参戦した。

アケメネスは鎮圧軍を率いてエジプトに戻ったが、イナロス軍に破れて戦死した。

アルタクセルクセスは、次の鎮圧軍を妹の婿であるメガバゾス将軍に任せて派遣した。今度はペルシア軍が勝利し、イナロスは捕縛・処刑された(前454年)。そして反乱全体も鎮圧された。

ギリシア勢力との戦いと「カリアスの和約」

ギリシア側の詳細は別の機会に書く。)

ギリシアとの戦闘(ペルシア戦争)は、先王クセルクセス1世の治世から断続的に続いていた。

アルタクセルクセス自身にギリシア遠征の意思があったかどうかは分からないが、結果的に生涯遠征はしなかった。

いっぽう、ギリシア側ではアテナイとスパルタのギリシア内での覇権争いがあった。それでもアテナイを中心とするデロス同盟の軍はペルシア帝国の支配下にある地域に断続的に攻勢をかけた。エジプト反乱の時もキプロス島を舞台にデロス同盟とペルシア軍が戦っていた。前450年にも同島で両者の戦闘が行われ、デロス同盟軍の勝利に終わった(当時のキプロス島の史実は断片的にしか語られず、さらに食い違いが有るのでよく分からない)。

前449年、少し唐突に思えるのだが、ギリシアデロス同盟)側とペルシア側の間に「カリアスの和約」が結ばれる。教科書的には「ペルシア戦争終結を目的として批准された条約」とされるもので、前1世紀の古代ギリシアの歴史家ディオドロスが条約の条文を記しているが、現代の研究者の中にはこの条文を否定する人が少なからずいる。

反論の論拠の一つとして、同時代の史料からはこの条文は言及されていない、というものがある。

ただし、肯定派側の状況証拠として、これ以降、ギリシアとペルシアの直接の武力衝突がなくなっていること、同時代人のヘロドトスは(和約自身については言及していないものの)アテナイ使節カリアス(「カリアスの和約」は彼の名にちなむ)がペルシアの帝都スサに派遣されたことを書いていることが挙げられる。これ以上のことは史料が無いため史実は分からないままだ。(阿部氏/p157)

勝手な想像をすれば、ペルシア王はハナからペルシア戦争を続行する気が無く、ギリシア側はギリシア勢力内での戦い(とその準備)にエネルギーをシフトせざるを得なかった、というところだろうか。

アルタクセルクセス1世の治世の評価

アルタクセルクセスの治世は41年という長いものだった。彼自身はハーレムに引きこもりがちであったが、ダレイオス1世が作り上げた帝国の行政システムが良く機能し、国内は安定していた (現代日本の感覚とは違い、反乱があったとしてもすぐに対応できるシステムが機能すれば、「安定している」といえる、ようだ)。

先代までの王たちのように遠征(侵略)に積極的でないことは「寛容」と言われ、旧約聖書には寛容な王というイメージで描かれているらしい。



アケメネス朝ペルシア帝国 その6 クセルクセス1世

前回からの続き。

クセルクセス1世

ダレイオス1世の後を継ぐのはクセルクセス1世。ダレイオスと正妃アトッサの息子。

アトッサはキュロス2世の娘。ダレイオスは簒奪者だが、先王朝は女系で継続したことになる。

「クセルクセス」は古代ギリシア語の読みで、古代ペルシア語では「クシャヤールシャン」となる *1

バビロンの反乱と破壊

バビロンはペルシア帝国が支配するようになっても経済の中枢の年だった。ダレイオス1世はバビロンに1年のうち7ヶ月滞在し、かつての新バビロニアの王ネブカドネザル2世の宮殿を使っていた(首都および主要都市については前回の記事参照)。

しかしバビロンが前484-476年の間に3度の反乱を起こすとクセルクセスは大都市の破壊を決意した。都市神であるマルドゥクを祀るエサギル神殿を破壊し、住民は強制移住に処した。青木健氏によれば、《バビロンの地位は、メソポタミア文明の中心都市から「帝国」の5つの主都の一つへと、確実に下落した》と書いている。 *2

メソポタミア文明の終焉の時期は諸説あるのだが(新バビロニアの滅亡やアケメネス朝の滅亡など)、このクセルクセスの都市破壊も候補の一つになるかもしれない。

ただし、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』では、以上のようなバビロンの徹底的な破壊についての歴史は「拡大解釈」とし、《ギリシアに攻め入ったクセルクセスを悪く見せる目的、あるいはアレクサンドロスの寛大な姿勢を際立たせるためのプロパガンダだった》という説と、北バビロニアの文献から鎮圧に伴った何らかの断絶・変化があったことを紹介している。*3

ギリシア遠征

クセルクセスが世界史で語られる事項はほとんどペルシア戦争に限られる。

当時の古代ギリシア人にとっては生存を賭けた戦いであり、ヘロドトス『歴史』の主題であり、詳細に語られる歴史だった。一方、ペルシア由来の史料では語られていない(阿部氏/p132)。

クセルクセスにしてみれば、ペルシア戦争(とギリシア側が言っている戦争)は領土拡大戦争の一つで、さらに失敗してしまったのだから書き遺す案件ではなかったかもしれない。

ともかく、詳細に描かれるペルシア戦争の歴史はギリシア文献だけで構成されていることをいちおう留意しておくべきだろう。

ペルシア戦争における古代ギリシア側の変化については、古代ギリシアの歴史を書く時に書く。

出典:ペルシア戦争 - Wikipedia

テルモピュライの戦いサラミスの海戦

前480年、クセルクセスはギリシア遠征を行なう。先王ダレイオス1世と違い、クセルクセスは自らも遠征に参加した。

エーゲ海の北岸であるトラキアマケドニアは、ダレイオスの治世のあいだにペルシア帝国の影響下に入っていた(トラキアは支配、マケドニアは臣従)。ペルシアの陸軍は2つの地域を通ってギリシア本土に向かった。

スパルタ軍はテルモピュライの地峡に陣取ってペルシアの大軍を迎え撃ったが、結局全滅させられる。(テルモピュライの戦い

余談になるが、この戦いは『300(スリーハンドレッド)』という映画になっている。スパルタ軍正規兵300人が100万のペルシア軍を迎え撃ったというシナリオらしい(未視聴だが、史実とはかけはなれているらしい)。実際はギリシア軍は数千人の兵で戦ったがそれでも圧倒的劣勢のなかで全滅した。

敗れたギリシア軍は今度は海上での決戦に持ち込んだ。サラミス島(アテナイの西方)と半島に挟まれた狭い海域にペルシア海軍を誘い込むなどして、ギリシア軍が作戦勝ちをした。(サラミスの海戦

海戦で敗れたクセルクセスは軍を残して帰国した。

また、これと同じ時期にカルタゴはペルシア軍側としてシラクサシチリア島の植民市)に攻め込んだが、失敗に終わった。

プラタイアの戦い/ミュカレの戦い

残されたペルシア軍はマルドニオス(大貴族の一人)に任された。

前479年、ギリシアで冬を越した大軍はギリシアへ攻め込む。ギリシア本土中部のプラタイアで待ち構えていたアテナイ・スパルタ連合軍はこれを撃破、総大将のマルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。

いっぽう同じ頃、エーゲ海ではギリシア海軍がペルシア帝国の支配領域に攻め込む。ギリシア軍はアナトリアの西南に位置するサモス島に船を進めたが、これが到着する前にペルシア軍はアナトリアに兵を引いた。ギリシア軍はこれを追いかけてアナトリアに上陸して完勝。イオニア地方はペルシア帝国支配から独立した(ミュカレの戦い)。

ギリシアの反転攻勢

ペルシア側の大軍勢は撤退を余儀なくされた一方、ギリシア軍は反転攻勢をやめなかった。

前478年、ギリシア軍はビュザンティオン(現在のイスタンブル)を攻めて戦勝し、ペルシア帝国はマケドニアトラキアの支配権を失った。(ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年) - Wikipedia

前466年には、ギリシア海軍がアナトリア西南のエウリュメドン川河口を攻めて一日にして大勝した。ただしこの戦いの目的はアテナイの将軍キモンの功名心を満たすというものだった(結果的には、エーゲ海ギリシア側の覇権を確固たるものにしたとは思う)。 (エウリュメドン川の戦い (紀元前466年) - Wikipedia

ギリシア軍の断続的な攻勢はクセルクセスの死後も続く。

暗殺

バビロニア出土の文献によれば、クセルクセスは息子で王太子だったダレイオスに暗殺されたが、別の息子のアルタクセルクセスがダレイオスを捕らえて処刑した。

いっぽう、ギリシア語文献によれば、クセルクセスと王太子の両者が近衛隊長アルタパノスに暗殺されて、大貴族の一人が近衛隊長を捕らえて処刑した。

どちらの伝承が正しいのかは不明。動機その他も分からない。いずれにしろ、あとを継ぐことになったのは上述のアルタクセルクセス(1世)だ。(以上、青木氏/p77)



*1:青木氏/p70

*2:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p74-75

*3:p119-120

アケメネス朝ペルシア帝国 その5 ダレイオス1世(帝都ペルセポリスその他/遠征)

前回からの続き。

ペルセポリスの建設とその他の首都

ヘロドトスは、スーシャー(ギリシア語名スーサ)が「ペルシア帝国」の首都だと記述しているものの、この「帝国」に固定的な首都があったとは考えられない。大王は、冬の7ヶ月はメソポタミア平原のバビロンに、春の3ヶ月は旧エラム王国(現在のフーゼスターン州)のスーシャーに、夏の2ヶ月はメディア州のハグマターナに居住した。行政関係の文書の大半はスーシャーかペルセポリスに収められ、税収として貢納された貴金属はペルセポリスの宝物庫(ガンザ)に収蔵された。また、新大王の就任式はパサルガダエで執行された。大王は、最低でもこの5ヶ所の都市を渡り歩くワンダーフォーゲル状態であり、移動中はテントに居住しながら、「臣下」と贈与物の交換を繰り返して相互の紐帯を確認した。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p61-62

上記のことからうかがえることは、ペルセポリスは「帝国」のためというよりも、「王家」のため、つまり私的な性格が強い都市だったようだ(宝物庫がその証拠)。帝国の運営としては重要な都市ではなかった。

引用の7・3・2ヶ月というのはギリシア人クセノフォン(前5-4世紀)の記述だが *1ペルセポリスの名は言及されていなかった。ヘロドトスも書いておらず、アレクサンドロス大王はこの都市のことを知らなかったと言われる。

ただし、春分の日の儀式「ノウルーズ」はペルセポリスで儀式が行われていた(青木氏/p63)。ちなみにノウルーズはペルシアの暦の元日であり、現在でもイランとその周辺でその文化は受け継がれている。

さて、上記の引用からペルセポリス以外の都市についてうかがわれることは以下の通り(間違っているかもしれないが書いておく)。

  • スーシャー(スーサ、スサ)は、エラム人が住んでおり、おそらく彼らが全般的な行政にあたっていたのだろう(ペルシア人は武力で彼らを支配していた)。
  • バビロンはダレイオスの時代になっても経済の中枢だった *2
  • ハグマターナ(ペルシア語。ギリシア語はエクバタナ)はメソポタミア中央アジアの交易路にある都市。冬は雪に覆われるが、夏の避暑地としていたのだろう。
  • パサルガダエはキュロス2世が建設した都市で、ダレイオス1世の前の王朝の首都と言われているが、おそらくはここも前の「王家」の私的な都市だったのだろう。即位の儀礼をここで行なうのは、先王朝から帝国を継承していることを示すためだ。

各都市の位置は以下の地図にある。


(クリックで拡大)

出典:Achaemenid Empire - Wikipedia

遠征

オリエント統一は先王カンビュセス2世がしてしまったので、ダレイオスの領土拡大はペルシア帝国にとってはそれほど大きな出来事ではなかった、と思う。

ただし、ペルシア戦争を始めたのがダレイオスなので、古代ギリシア史からみれば彼の遠征は大事件だ、となるだろう。

ちなみに、アレクサンドロス大王が征服した地はペルシア帝国の版図とだいたい同じのようだ。

北方遊牧民への遠征(サカ人=スキタイ人

北方への遠征の対象はサカ人とスキタイ人。サカ人についてはダレイオスの碑文に書いてある。

サカについてダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)の『ベヒストゥン碑文』では、サカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)、サカ・ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、サカ・(ティヤイー・)パラドラヤ(海のかなたのサカ)の三種に分けていた。サカ・ティグラハウダーは中央アジアの西側、サカ・ハウマヴァルガーは中央アジアの東側に住んでおり、サカ・パラドラヤは「海のかなた」すなわちカスピ海もしくは黒海の北となり、ギリシア文献に出てくるスキタイを指すものと思われる。

出典:サカ - Wikipedia

サカ人とスキタイ人は呼び方が違うだけで同じ民族、すなわち同じ文化(生活形態)を持った人々だ。

形質人類学 *3 によれば、彼らはコーカソイドモンゴロイドが混じり合っている「雑多な」民族。少なくとも前5~6世紀にはそうなっていた *4。広大なユーラシア・ステップで暮らす遊牧民は、(農耕定住民が重要視する)血統よりも武力を重んじ、交流・戦闘・征服・服従・政略結婚を繰り返した。だから肌の色などなどは関係無い。

「サカ」というのは、ペルシア語で鹿(サカー)を意味する(日本語では短母音化した)。これは彼らが鹿をトーテム(民族結束のための象徴。崇拝対象)として多用していたことに起因する *5スキタイ人の起源であるスキタイ文化の象徴的遺物が鹿石(石柱に鹿などの彫刻が成されているもの)なので、考古学からみてもスキタイ人=サカ人と言える。
(《最初期の騎馬民族 その2 (スキタイ人の起源≒騎馬民族の起源)》も参照)

さて、遠征の話に戻る。

最初の遠征対象は「尖がり帽子のサカ」だが、彼らはマッサゲタイ人に比定されている。マッサゲタイ人と言えば、キュロス2世を戦士させた勢力だ。遠征の結果、マッサゲタイ人はペルシア帝国に服属することになり、ダレイオスはキュロスの仇を取ったことになる。

次に、ダレイオスはスキタイ人を討つために黒海北岸(スキティア)に遠征したが、スキタイ人は逃げ続けたために、全く戦果を得られないまま撤退した。
(これについては 《最初期の騎馬民族 その5 (スキタイ人、黒海北岸支配)》 で書いた)

ただし、この遠征でトラキアバルカン半島南東部)を征服し、マケドニアギリシア北部)を服属させた。

もう一つのサカ人については分からない。

インド遠征

ここでいう「インド」は大陸部ではなく、インダス川流域つまり現在のパキスタンあたりだ。詳細は分からない。

ギリシア遠征

ダレイオスのギリシア遠征は「ペルシア戦争」と呼ばれるものの初期のものだ。詳細は古代ギリシアの歴史の記事で書くつもり。

ペルシア戦争開戦の原因となる事件が前499年に勃発したイオニアの反乱だ。アナトリア西端のイオニア地方にはいくつものギリシア植民都市があったのだが、この地方はペルシア帝国の支配下にあった。この反乱自体は前494年にようやく鎮圧したのだが、ダレイオスは彼らに軍事支援をしたアテナイやエレトリアに対して懲罰的遠征を計画した。

第1回は前492年に行われたが暴風雨にあって失敗した。

第2回(前490年)は艦隊を組んで大遠征隊を組織してエーゲ海を渡った。エレトリアは7日間で攻め落とし、ペルシア軍はアテナイの領地のマラトン平原に上陸した。アテナイ軍はこれを重装歩兵による密集戦術により応戦し勝利した。ペルシア軍はこれ以上の戦闘をせずに撤退した。

ちなみに、陸上競技「マラソン」マラトンに由来する。マラトンにおける勝利をアテナイ市に無休で走り続けた伝令使が勝利を告げた後に力尽きて亡くなったというエピソードがあり(真偽不明)、第1回オリンピックで長距離走の種目として採用された。マラトンアテナイ市の距離が約40キロということだ。

ダレイオス治世の版図


ダレイオス1世時代のアケメネス朝の領域とサトラペイア(ダフユ)。赤字はダレイオス1世即位時に反乱が発生した、または反乱勢力の支配下に入った地区。[クリックで拡大]

出典:ダレイオス1世 - Wikipedia



*1:ペルセポリス - Wikipedia

*2:青木氏/p65

*3:自然人類学の一分野。皮膚や眼の色、毛髪の色や形状、血液型、身長や頭型など、人類の身体の形と質を比較研究して、人種分類や系統関係、遺伝、環境による変化などを分析する。精選版 日本国語大辞典/形質人類学とは - コトバンク 

*4:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p35

*5:アーリア人』/p35

アケメネス朝ペルシア帝国 その4 ダレイオス1世(出自とキーワード)

前回からの続き。

ダレイオス1世の出自

ダレイオス1世が簒奪者だと考えられていることは前回、前々回で書いた。

ダレイオスが即位するまではどのような人物だったのだろうか?

彼の父親ウィーシュタースパは、クールシュ[=キュロス]2世が任命したヒルカニア総督であり、ダーラヤワウシュ[=ダレイオス]自身は、カンブージヤ[=カンビュセス]2世の「槍持ち(=近衛兵)」に過ぎなかった。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p52

ダレイオスの記述を疑ってこちらをまるまる信じるのはどうかとも思うが、疑いだしたらキリがない。クーデタするにしても支配者層に属していなければ無理だったわけで、ダレイオスがその一員であったというのは妥当なところだろう。

宮廷内の権力

婚姻関係

ダレイオスは即位以前に結婚していた。相手はクーデタ決行時の同志の一人の娘で、彼女とのあいだに3人の男子をもうけていた(青木氏/p71)。

しかし即位後、王位を固めるために、キュロス2世の2人娘であるアトッサ(ギリシア語名。ペルシア語ではウタウサ)とアルテュストネ(ペルシア語ではリタストゥーナ)と結婚する。この2人は兄であるカンビュセス2世と結婚していた。

さらにカンビュセス2世によって暗殺された(とダレイオスの碑文では語られている)スメルディス(バルディア)の娘パルミュス(パルミーダ)とも結婚した。

ヘロドトス『歴史』によれば、アトッサがダレイオスにベッドの上でギリシア人の侍女が欲しいとねだり、ギリシア遠征のきっかけを作ったという物語を書いている。これらの話はアトッサの宮廷での権勢を示すものとして解釈されている。ただし、ペルシア由来の文献にはアトッサの活躍は書かれていない。 *1

上の物語の真偽はともかく、ダレイオスの死後、アトッサが産んだクセルクセス1世が即位しているので、彼女が重んじられていたことは間違いないだろう。

ダレイオスとクーデタを起こした貴族たち

ダレイオスが遺したベヒストゥン碑文にはクーデタを起こしたときの6人の同志の名前が書かれている。彼らはダレイオス即位後に大貴族となって、王家の外戚となり重要な官職を占めた *2

クーデタ成功後に(反乱は続発したものの)短期間で内乱を鎮圧できたのは、彼らの功績のおかげだと碑文に書かれている。

それが成功できたということは、上述の「同志」たちは元々軍を保持するほどの貴族だったと考えられ、ダレイオスは彼らを従えることができるほどの大貴族だったという傍証になるだろう。

ダレイオス1世のキーワード

アケメネス朝の中で、私たち日本人が一番知っている王さまはダレイオス1世だろう。彼の名と王朝名と「ペルセポリス」「王の道」「王の耳」「サトラップ」など、高校世界史でセットで覚えさせられる。長きに亘るペルシア戦争を始めたのもこの王だ。

ヘロドトス『歴史』にはダレイオスが20の行政区を制定しサトラペイア(サトラップ=総督≒知事)を置いたことなど記されている。高く評価していたようだ。

高校世界史では要点しか書いていないので、あたかもダレイオスがサトラップなどの諸制度を創始したような印象を受けるが、サトラップ制も「王の道」もアッシリア帝国の時代にすでにあった。帝国運営システムの創始者は、私はアッシリア帝国創始者ティグラト・ピレセル3世だと考えている *3

そして、この運営システムとよく似たものが、西はローマ帝国、東は秦帝国で始められている。

サトラップ

サトラップは総督と訳される。現代日本で言えば知事に近いが、知事との違いは軍権と外交権を持っていることだ *4。知事というよりも王の代理と言ったほうがいいかもしれない。王とサトラップの違いは基本的に世襲ができないことだ。つまりはサトラップに移譲された地域はサトラップ自身の領地ではなく、単に管理権を移乗されただけということだ。期間限定の王と言えるかもしれない(期間は中央政府が決める)。

王の道

「王の道」のネタ元もヘロドトス『歴史』で、これによれば旧リュディア国王都サルディア(小アジア西部)から旧エラム王都スサまでの幹線道路を指す。

出典:Royal Road - Wikipedia

またヘロドトスは馬によるリレー方式のいわゆる駅伝制と呼ばれる通信システムを採用した。ちなみに、これについてもアッシリアに先例がある (新アッシリア帝国における国家通信#駅伝制 - Wikipedia )。

ただし、この道路は幹線道路の一部でしかない。ヘロドトスがこの道を紹介したのは帝都(の一つ)のスサからギリシア(の近くのサルディア)までの道のりと必要時間(3ヶ月)を示すためだと思われる。

クテシアス(前5世紀のギリシア人)によれば、東方のバクトリアやインドへにも幹線道路が伸びていることに言及されている。さらにペルセポリス出土の粘土板に旅行証明書などの記録があり、この帝都にも幹線道路が伸びていたことを証明した。 *5

王の目、王の耳

王の目・王の耳
アケメネス朝(古代ペルシア帝国)の王直属の行政監察官。各州を巡ってサトラップ(知事)を監視するのがおもな役目で,王の目が本官,王の耳が補佐官である。これによって国内の中央集権化がはかられた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版/王の目・王の耳とは - コトバンク

ちなみに秦帝国では、サトラップに当たる役職を刺史と呼び、王の目・王の耳は監察御史と呼んだ。



*1:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国/中公新書/p117-118

*2:青木氏/p54

*3:新アッシリア① 先帝期/帝国期の幕開け - 歴史の世界を綴る

*4:阿部氏/p96-97

*5:阿部氏/p98