歴史の世界

「秦代/楚漢戦争」シリーズを書く

これから「秦代/楚漢戦争」シリーズを書く。「中国_秦代/楚漢戦争」カテゴリーに保存する。

秦代および楚漢戦争については下で少しだけ説明する。詳しいことは別途記事にしていく。

この二つの時代は短いので一つのカテゴリーにまとめた。

秦帝国について

「秦代」は始皇帝が中華統一を果たして作った統一国家の時代を指す。

歴史をさかのぼって、殷代と西周代は封建制であったと言われる。つまり、各地の勢力(諸侯)が殷王室・周王室に従属することによって成り立つシステムだった。これは諸侯がほぼ独立勢力であったことを意味する。日本史の江戸時代を思い出せばいいだろう。

これに対し始皇帝は郡県制を採用した。簡単に言えば、他の王国を廃して秦帝国の直轄とした。

始皇帝は「王」よりも上位の称号として「皇帝」という称号を採用した。また秦の統治体制(郡県制など)は次代の前漢が採用し、その後の中国王朝の模範となったことから、「皇帝・帝国」としての中国の歴史は秦帝国から始まったと言える。

楚漢戦争

前206年に秦帝国は滅亡する。

同年、楚王室の末裔の義帝をトップとする封建制の下、いちおう中華平定ということになったのだが、義帝は傀儡で全く権力を持たず、事実上のトップの項羽が全てを差配していた。

項羽が義帝を殺害することによって、再び動乱が始まる。項羽を打倒する勢力のトップになったのが劉邦(後の前漢初代皇帝・高祖)だ。

この項羽と劉邦の戦いを楚漢戦争と呼ぶ。



【書評】マイケル・ピルズベリー『China 2049 秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」』

今回は書評を書く。

China 2049

China 2049

この本はどういう本かと言うと だいたい以下の通り。

第二次大戦直後はぼろぼろの発展途上国だった中国が、現在の超大国になっている。この裏には知られざる秘密戦略「100年マラソン」があった。本書でその全貌を描く。

これだけ書くと陰謀論のにおいがプンプンするがそうではない。こんな戦略が成功したのは超大国アメリカが せっせと中国の発展の手助けをし続けたからだ。著者は数十年の間、その手助けに関わっていた人物だ。

著者曰く、自分たちは中国の口車に乗って騙され続けてきた、もう騙されてはならない、と。彼は親中派と袂を分かち、世界の覇権を目指す中国の長期的戦略に警鐘を鳴らす。

最近の米中関係に影響を与えそうな本だが、そのことに関しては著者の経歴のところで書こう。

著者について

わたしは、ニクソン政権以来、30年にわたって中国の専門家として政府機関で働いてきた。したがって他の誰よりも中国の軍部や諜報機関に通じていると断言できる。人民解放軍や国家安全部の代表は、極秘としている機関への扉を開き、西側の人は誰も読んだことのない書類を見せてくれた。(p25)

この本はCIA、FBIなどのアメリカの政府機関も関わっているので上の主張は嘘ではないのだろう。

ピルズベリー氏はパンダハガー親中派)と言われ続けてきた。パンダハガー親中派)は、ただ中国と親しいだけではなく、中国が利することを積極的にやる人々を指す言葉だ。

事実、彼はアメリカが中国への資金及び技術の供与をすることを主張し続け、中国の(現在みせているような)危険性など無いと言い続けてきた。このような言動は中国を信頼させ、上のように制限がかけられた文書も見ることができた。

1990年代後半のクリントン政権時代、著者のマイケル・ピルズベリーは国防総省とCIAから、中国のアメリカを欺く能力と、それに該当する行動を調査せよと命じられた。著者は諜報機関の資料、未発表の書類、中国の反体制派や学者へのインタビュー、中国語で書かれた文献をもとに、中国が隠していた秘密を調べはじめた。やがて見えてきたのは、中国のタカ派が、北京の指導者を通じてアメリカの政策決定者を操作し、情報や軍事的、技術的、経済的支援を得てきたというシナリオだった。

出典:Amazonの内容紹介から

おそらくこの時期が著者のパンダハガーからドラゴン・スレイヤー(対中強硬派)への転機になったのだろう。

現在著者は、米シンクタンク、ハドソン研究所の中国戦略センター長でトランプ大統領のアドバイザーでもある。トランプ大統領の対中姿勢を見れば、著者の主張が少なからず影響していると思う人は多いだろう。

出版について

出版時期は原著・邦訳本ともに2015年。原著は3月で邦訳が9月。

邦訳がこんなに早いのは国家の意思を感じるのだが、本当のことはわたしには分からない。解説は森本敏氏。彼は2018年10月まで防衛大臣政策参与だった。

このブログ記事を書いているは2020年4月だが、私は今になるまでこの本の存在を知らなかった。国際政治に興味がある人、日本の今後に興味がある人または危機感を感じている人は読んだほうがいいと思う。

本の内容

本の内容については冒頭で少し触れたが、もう少し詳しく書いていこう。ここでは三点だけ。

邦訳本の最後には森本敏氏の解説が8ページに亘って書いてあるのだが、ここからピックアップしてみよう。ちなみにこの本を最速で読みたい人は解説を先に読むといいかもしれない。ネタバレ満載だが。

アメリカの致命的な判断ミス

さて、森本氏の解説から。

本書は米国における中国専門家として著名であるばかりでなく、米国政府の対中政策に最も深く関わってきたマイケル・ピルズベリー博士の中国論である。[中略] その本人が本書の冒頭で、米国は中国の国家戦略の根底にある意図を見抜くことができず、騙されつづけてきたと告白する。この告白は衝撃的である。

我々はこれほど中国に精通し、中国要人と交流のあった同博士でさえ中国に欺かれ続け、それを知らずに歴代米国政権が対中政策をピルズベリー博士の助言や勧告に基づいて進めてきた事実を知って今更の如く愕然とする。(p366)

著者を含めたアメリカの政府関係者は何故こうも対中方針を間違えたのか?

それは、そもそも間違った前提で中国を認識していたからだ。著者は《序章 希望的観測》でその前提を幾つか述べているが、重要なものの一つは「中国は民主化への道を歩んでいる」だ。

アメリカ及び日本を含む先進国が中国に経済援助を続け、中国が経済的に発展していけば次第に中国は民主主義国になるだろうと思われていた。具体的には《中国の市や町で民主的な選挙が行われ、やがて地方選挙、さらには国政選挙が行われるようになる》(p16)と著者たちは思っていた。

戦後、発展途上国の多くは経済支援を受けて、その援助の条件として民主選挙を受け入れていた。その多くの国が先進国並みの民主国家になるのは程遠いが、それでも表面的には民主政体を基本としている。

著者たちは中国も他の発展途上国と同じ道を歩むと信じていたらしい。そして間違いだと気づくのに数十年もかかってしまった。というわけで中国が凶暴な超大国になった一つの要因はアメリカの重大な判断ミスだ。日本もODA円借款などで援助し続けた裏にはアメリカの判断も影響していただろう。

この致命的な判断ミスの背景は米ソ冷戦だ。ソ連包囲網の一環として中国を味方につけなければならなかった。敵の敵は味方というが、中国に過剰な肩入れをしてしまった。

しかし、中国が民主化するという妄想は、米ソ冷戦も終焉し21世紀になっても信じ続けられたそうだ。21世紀、経済発展を遂げる中国は低価格商品を作る大工場から多くの商品を買ってくれる大消費国へと変貌した。財界にとって金の卵のような存在で有り続けた中国の発展を抑え込むという選択肢はことごとく潰されてきた。

このような背景があったからこそ、本書に書かれている戦略(手口と言ったほうが正確)が生きたと言っていい。とにかく中国のやり口を学ぶためにもこの本は読んだほうがいい。

中国の国家戦略

↓も森本氏の解説から。

中国の国家戦略は中国人の歴史的知恵の産物であり、同博士[ピルズベリー氏]は現代中国の国家戦略は孫子の兵法や戦国策から導かれる「勢」という思想に基づくと指摘する。「勢」とは[敵が従わずにいられないような状況を形成して敵を動かし、これに打ち勝つための神秘的な力」であり、「他国と連合して敵を包囲すると同時に、敵の連合を弱めて包囲されないようにすることが含まれる」という。

中国共産党人民解放軍タカ派はこの論理を活用して、米国を操作し、共産党革命100周年にあたる2049年までに世界の経済・軍事・政治の地位を米国から奪取することを狙っているという。これが「100年マラソン(The Hundred Year Marathon)」という原著のタイトルにもなっている中国の覇権的国家戦略である。(p367-368)

現代中国の国家戦略が古代の諸子百家に求められていることに、著者は注意を喚起している。中国のものの考え方は欧米のそれと全く違う、それを理解するには中国の古典を知らなければならない、と。

次のポイントは「100年マラソン」。「100年」というのは特に緻密な数字ではなく「天下百年の計」のような遠い未来のことを指していると思ったほうがいいだろう。初代の指導者だった毛沢東が当初から考えていた計画と思い込ませるような内側に対するプロパガンダのような気がするがどうだろう。

兎にも角にも、「100年マラソン」の主唱者であるタカ派は、著者によれば、数十年に亘って《中国の地政学的戦略の主流》(p25-26)であったとのこと。

タカ派についてもう一つ。タカ派の見解は《中国が世界の頂点に立つことを夢見る数億人を代表する、政策立案者の本音なのだ》(p26)。これは中華思想そのものだ。

中華思想
漢民族が古くからもち続けた自民族中心の思想。異民族を卑しむ立場からは〈華夷(かい)思想〉とも。初めは周辺の遊牧文化に対し,自己の農耕文化の優越を示したが,春秋戦国時代以後は礼教文化による,天子を頂点とする国家体制を最上のものと考え,夷は道からはずれた禽獣(きんじゅう)に等しいものとして,異民族を東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ。基本的にこの思想は現代まで続いている。一般的用法としては自民族中心主義(エスノセントリズム)の代名詞。

出典:株式会社平凡社百科事典マイペディア/中華思想(ちゅうかしそう)とは - コトバンク

ただし、この本では「中華思想」という言葉が使われていなかったと思う。宮家邦彦氏によれば《中国語には「中華思想」という言葉すら存在しない。「中華思想」とは、おそらく日本人の造語である》 *1 という。

とにかく、数億人が中華思想を信じて行動している。これは宗教である。宗教の思い込みがどれだけ持続的な力を生み出すかは世界史を少しでも知っている人には理解できるだろう。日本を含む他の国は恐れて注意しなければならない。

非道を繰り返す中国

さらに解説から引用。

ピルズベリー博士によれば、100年マラソン戦略はその大半が戦国策に現れた戦国時代の戦略思想を中国共産党および人民解放軍タカ派が構築したものであるという。中国が現在でもこの戦略を最大限、活用していることはいうまでもない。スパイを活用し、偽情報を流して情報操作すること、優れた思想や技術を盗むこと、国内で反政府的動きをした者を徹底的に弾圧すること、敵の周辺を取り巻く同調者をいじめ、協調関係を分断すること、いずれも中国人が戦国時代から活用してきた伝統的手法である。(p369)

史記』の列伝を読んで英雄たちに憧れた中国史ファンもこれを読んだら興ざめしてしまうだろうか。いや、『孫子』も言っているように「兵(軍事)は詭道なり」ということは中国史ファンなら普通に知っていることだ。中国の軍事・外交は騙し合いで出来ている。

中国人にしてみれば「アメリカだって同じようなことをしているじゃないか」と反論するだろう。著者によれば、中共政府は幹部候補にアメリカが如何に世界最大の経済国になったかを教えている。もちろんこの教育は中共政府の都合がいいようにアレンジされているが、アメリカが利益を得るために悪どいことをしてきたことは誰もが認めることだ。(第8章 資本主義者の欺瞞)

ただ、それでも、露骨な中国の非道な我田引水を見逃すわけには行かない。中国の行動を止めることはアメリカだけではなく、現在の先進国および民主主義国家にとって しなければならないことだ。

私の注目点・感想

最後に、私の思うところを書く。

まず、「100年マラソン」という言葉。この言葉自体は、緻密な戦略でも計画でもなく、スローガンと考えたほうがいいだろう。「100年マラソン計画」というような計画書があるわけでもない。

この言葉がタカ派の中で語り継がれていたというだけの話だ。「共産党革命100周年にあたる2049年までに世界の覇権国になるぞー」というもの。本の副題は《秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」》だが、簡単に言えば「釣り」だ。読者を釣るためのパワーワードだった。

著者ピルズベリー氏が言うところの中国の覇権的国家戦略を一言でいうのなら「反客為主」になるだろう。この言葉は《第9章 2049年の中国の世界秩序》の冒頭に出てくるが、『兵法三十六計』の一つだ。意味は《敵にいったん従属あるいはその臣下となり、内から乗っ取りをかける計略。時間をかけて行うべきものとされる。 》(反客為主 - Wikipedia ))

こんなものが戦略と呼べるのかとは思うが、中国のタカ派は未来の覇権国を夢見て行動をしているらしい。こんな戦略が続くわけがないと誰もが思ったことだろうが、2020年現在、今目の前に超大国中国がある。

気づくのが遅いと言っても、兎にも角にも現状に対処しなくてはならない。今の世の中が生きにくいと入っても、中国が支配する世界よりはよっぽどマシだ。

2015年にこの本が出版され *2、 2016年の大統領選挙でトランプ氏がヒラリー・クリントン氏を破って勝利したことは、世界を救う意思だったのかもしれない。現在では、アメリカは反中一色になるほどの勢いだ。日本と違って左派勢力も反中だ。

もうひとつ、今後について。

今後については《第11章 戦国としてのアメリカ》で提案されている。要約すると、

まず現状を正確に把握し、他国を味方に引き入れ、中国の不正を大々的に公表して中国のイメージを貶め、中国国内の反体制派を応援して中共政府を追いつめる。

ピルズベリー氏はトランプ大統領のアドバイザーなので、現状 中国は追いつめられている。

問題は日本だが、どう考えても対中外交で強硬姿勢を採る準備はできていない。習近平国賓出迎えるとか言ってる始末だ。

さて、話が飛びまくってしまったが、かように色々な問題を想起喚起させるのもこの本の特徴かもしれない....。

とにかく米中冷戦が始まって日本も巻き込まれること必至なのが現状である。この本を読めばトランプ大統領が何を行うかがある程度は読めるだろう(著者は大統領のアドバイザー)。世界情勢の未来を知りたい人にはオススメ。

中国の古典が好きな人には読みやすいが、そうでない人には古典で例える文章が多々あるので、クドいと感じるかもしれない。



*1:「中華思想」を誤解する日本人 | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

*2:元になった文書はそれ以前に公表されていたらしい

「春秋戦国時代/東周」カテゴリーの主要な参考図書およびウェブサイト

春秋戦国時代/東周」シリーズ終了。

今回は あまり参考にできなかった本も書いていく。

司馬遷史記

基本資料。ただし基本的には学者先生方の紹介を通して接した。

私は漢文がほとんど読めないが、なんとなく分かるところもあったので、 『史記 - Wikisource』 で原文を参考にしたこともある。

司馬遷は前2世紀の人物で秦が中華統一を果たしてから4世紀も経っていることを忘れないようにしなくてはならない。彼が語る歴史の真偽については疑ってばかりでは話にならないので、諸先生の本を参考にして匙加減を決めるしかない。

ひらせ たかお先生のご著書

(「ひらせ たかお」の姓名両方に表記されない文字が含まれるので、ひらがな表記にする。)

中国史〈1〉先史~後漢 (世界歴史大系)

中国史〈1〉先史~後漢 (世界歴史大系)

  • 発売日: 2003/09/01
  • メディア: 単行本

春秋戦国時代の本を探すと かなりの確率で遭遇する名前。「春秋戦国時代といえば この先生!」みたいな人(だった?)。

ただし ひらせ先生が書く歴史は独特すぎてシロウトの私にはついていけなかったのであまり参考にできなかった。独自の年表を使用しているので使いづらかった。

国史 上/昭和堂

概説中国史〈上〉古代‐中世

概説中国史〈上〉古代‐中世

  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: 単行本

上下2冊の中国史通史の一部なので、上で紹介した山川・中公・講談社のような詳細なものではない。 簡潔にまとめられている。

落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

古代中国史の虚像を正そうという本。面白い物語、よくできたエピソードの部類は ほとんど作り話だということを実感させてくれる本。

史記』の真偽を分別するためにこの本は必要だった。

佐藤信弥/周/中公新書/2016

西周だけではなく、周王室の再興(東周)や春秋戦国時代の周王室の歴史が書いてある。

春秋戦国時代の周王室の歴史は些末と言えばそうなのだが、この歴史が中国の秩序の興亡に関わっていたことをこの本は教えてくれた。

渡邉義浩/春秋戦国/洋泉社/2018

春秋戦国 (歴史新書)

春秋戦国 (歴史新書)

今まで紹介した本を読めばこの本は読む必要はなかった。この本の情報はwikipediaで事足りるような気がする。

wikipedia

春秋戦国時代関連のページ群はかなり充実している。正直言うとこれが一番役に立ったかもしれない。

ページ下部の参考文献から読むべき本を探せるというメリットと『史記』などの古典に忠実すぎる記述が少なくないというデメリットがある。

学者・学生はwikipediaを使うべきでないのかもしれないが、シロウトには必須だ。



戦国時代 (中国)⑱ 春秋戦国時代/東周のまとめ

これまで、春秋戦国時代/東周ついて書いてきた。今回からそのまとめを書く。

詳しいことは各記事参照のこと。

春秋戦国時代と東周について

春秋戦国時代は、中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることもある。

出典:春秋戦国時代 - Wikipedia

というわけで約550年間つづく。

東周は前256年に滅亡するが、春秋戦国時代の東周の存在はあまり重要ではないので、春秋戦国時代≒東周時代としても問題ないだろう。

春秋時代と戦国時代

そして春秋戦国時代春秋時代と戦国時代に分かれる。

両者の境界については2つの説がある。

晋の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。

出典:春秋戦国時代 - Wikipedia

というわけで、それぞれの期間は、

  • 春秋時代が約320年ないし約370年。
  • 戦国時代が約180年ないし約230年。

春秋時代

西周代の後半から周王室の権力が縮小し続けていたのだが、末期に周王室で相続争いの時に外部(犬戎)からの侵略されて王都を蹂躙されてしまう。周王室は東の洛邑で再興したが(これが東周の始まり)、元々の権勢を取り戻すことはできず、諸侯は否応なく独立状態になった。これが春秋時代の始まりだ。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

春秋時代に入ると、今度は南から楚が侵攻をし始める(楚は西周の諸侯ではなかったので南蛮つまり夷狄扱い)。

これに対抗するために諸侯は会盟(国際会議のようなもの)を開いて同盟を行った。この同盟のトップが「覇者」と呼ばれる。

ただし覇者として歴史に残る人物は限られている。落合淳思氏によれば *1、 8人いる。8人とは、斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、越闔閭、呉夫差、越句践。

彼らをまとめて「春秋五覇」と呼ばれる。古典によって5人の選び方が違うがその候補者は8人いる。なぜ8ではなく5でなければいけないのか、という問いはあまり意味がない。5という数字が好きなだけだ。

何人かピックアップする。

桓公は最初の覇者となった人物。宰相に管仲を迎えて中華最強国になった。しかし管仲の死後は斉国内で権力争いが起こって斉の国力も衰えてしまった。斉桓公自身に能力は無かったようだ。

次、晋文公について。もともと大国であった晋が斉に代わって覇者の地位に就いた。さらに文公の後も、晋の君主が覇者の地位を受け継いだ。他の諸侯はこれを了承し(または服従し)楚を共通の敵としてまとまった。これを覇者体制という。まあ征夷大将軍をトップとする〇〇幕府のようなものだ。

この体制は百年前後続くのだが、晋と楚が和議を行って楚が中華の一員となったことで覇者体制の意義が無くなって崩壊した。

この後、春秋末期、「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」で有名な覇者、すなわち呉闔閭、呉夫差、越句践の時代になるのだが、彼らは覇者になった後に新しい時代を築くまでには至らなかった。

春秋末期は再び秩序が崩壊し、下剋上が横行した。そして新しい秩序が求められた。このような時期に登場したのが孔子だった。

孔子は礼学の先生として登場した。ただし歴史を変えていったのは孔子というよりも彼の弟子たちと言ったほうがいいだろう。そして弟子たち(孫弟子以後の代も含む)は戦国時代の秩序を作っていった集団(の一部)であった。(後述)

戦国時代

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出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia

上述の通り、大国の晋の家臣であった韓・魏・趙の三国に分裂したことで戦国時代が始まった。春秋時代の秩序の中心であった晋が崩壊したことで、春秋時代も崩壊した。まあ、晋の覇者体制はとっくの昔に崩壊しているのだが、便宜的に晋の滅亡をもって春秋時代の終わりとすることになっている。

戦国時代の特徴

以下の特徴は戦国時代になってすぐに現れたのではなく、長期的な時間がかかって現れたことに注意。一応書いておく。それでは特徴を書いていく。

  1. 戦国七雄
    春秋時代は大中小の国々が数多く有った。戦国時代は大国が中小国を侵略・併呑してさらに強大になっていく時代。この中で大国になったのが戦国七雄すなわち韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕の七国。
    春秋時代も大国が小国を併呑することは少なからずあったが、そのペースは遅かった。

  2. 専制君主制・官僚制・富国強兵
    春秋時代は、公族(君主の家族・親戚)と大家族が政権を担っていたが、戦国時代は彼らの権力は君主に集中し、君主が外部から優秀な人材を招致して政権を担当させた。これを専制君主制という。
    公族・大家族が政権を担っていた時期は、それぞれがバラバラに政務を執行していたが専制君主制では、それぞれの行政を宰相が管理統括するようになった。(官僚制)
    バラバラであった政務が一つに統括できるようになって、はじめて富国強兵の道が拓ける。

  3. 成文法
    官僚制が出来上がると、今度は官僚をどうやって動かすかという問題が生じる。いちいち君主や宰相が口出しすることは不可能なので、成文法(明記した法)を作ることにより、効率かつ公平に行政が行われるようにした。

  4. 徴兵制
    春秋時代は主要な貴族が手下を率いて戦争をしていたが、戦国時代は戦争が大規模化して従来のやり方では立ち行かなくなった。
    そこで、公式に民を徴兵して戦地に赴かせることになった。

  5. 新しい秩序
    春秋時代では いちおう周王室を中華のトップと認めて諸侯は侯・公の称号を使っていた。これが戦国時代の中期あたりから王と号するようになる。周王室の権威をあからさまに無視するようになる。
    ここで登場するのが上述の孔子の弟子たち即ち儒家だ。孔子や弟子たちは西周の礼制を復活させようとしたのだが、実際は彼らはその礼制を知らなかったので、それっぽい礼制を創作した。諸侯たちはこれを採用して新しい秩序とした。

戦国時代の流れ

戦国時代を3つに分けると以下のようになる。

  • 前期、魏文侯の覇権
  • 中期、斉と秦の覇権
  • 後期、秦の一強時代

前期。戦国時代で最初に覇権を握ったのが魏の文侯だ。公族(諸侯の一族)と大貴族が政権を担っていたが、文侯は外部から有能な人材を集め登用して政権を担当させた。このことは春秋末の呉・越にもみられるので *2 画期的とは言えないが、とにかくこのような人材登用によって専制政治体制が可能になった。

文侯は覇者となり、後代も魏の強盛を継承したが、三代目の恵王は王号を使用するようになる。周王室に代わって名実ともに王となろうとしたのだ、と歴史家から考えられている。ただし、恵王は斉との戦争で大敗した後に衰えてしまった。

次に中期。覇権を握ったのが、斉と秦だ。

斉は魏に大勝してから覇権国となる。斉威王はその財力を使って王都・臨淄の稷門 (城の西門) 外に学堂を建て知識人を招いた。ここは稷下の学と呼ばれ諸子百家の一大拠点となった。

秦は後進国であったが、孝公の治世における宰相・商鞅の変法(国政改革)により、強国へと変貌した。「変法」とは簡単に言えば、旧来の政治体制から「戦国時代の特徴」にあるものに変えるための改革。

孝公の次代の恵文王は商鞅を追放して死に至らしめた人物だが、変法とその精神は継承し続けた。恵文王以降も秦は継承し続け、中華統一を成し遂げることになる。

中期は燕・魏・趙・韓・楚による対斉戦争により、斉が大敗することによって終わる。

後期は対斉戦争で戦争に参加しなかった秦の一強時代。対斉戦争の前後から、秦は立て続けに他国を攻め続けて領土を拡大し続けた。結局この流れが変わらないまま秦が中華統一を果たす。



*1:古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009

*2:呉の孫武伍子胥、越の范蠡など

戦国時代 (中国)⑰ 戦国時代までの市場経済の歴史について 後編(戦国時代)

前回からの続き。戦国時代突入。

今回も多くの部分は以下の本を参考にしている。

経済の発達

戦国時代における経済の発達については以下の記事で書いた。

人口増加・物流増加によって、ついに貨幣の流通が始まった。

貨幣の発行元

三晋(魏・韓・趙。黄河中流域。中原)では都市が発達し、自立性が高かったため、各都市が貨幣を発行していた(都市名が銘打たれている)。

なんらかの形での県などの地方行政機構が関わった可能性もあるが、むしろ各都市の商人たちの経済力が貨幣発行を促した可能性が高いのである。

出典:山田勝芳/貨幣の中国古代史/朝日選書/2000/p36

東の斉は、三晋と同様に経済が発達した地域であるが、「王室の直接支配の強い王都や拠点都市での発行に限られ、国家的関与がかなり強い」とのこと。(同ページ)

燕・楚も斉に同じ(同ページ)。人口も少ないし、経済の発達も三晋・斉ほどではない(秦については後述)。

貨幣の流通の状況

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戦国初期の貨幣分布 [『中国歴代貨幣』の図を基にして作図]

出典:山田氏/p31

銅貨は、春秋時代の伝統を継承した布銭・刀銭・銅貝のほかに、円銭が登場する。布銭・刀銭・銅貝については前回の記事参照。

布銭・刀銭・銅貝は小型軽量化が進む。

本来は計量貨幣(秤量貨幣。重さ・純度を計って用いる貨幣)であるが、計数貨幣(貨幣・コインの表面に銘記された金額の価値がそのまま通用する貨幣)も流通していた。

おそらく、円銭は貨幣の小型計量化の流れの中で、実用的な形が採用されたのであろう(山田氏の本では円銭の起源についていろいろ書いてあるがここでは書かない)。円銭は黄河沿いの周・秦・趙・魏などで使用され始めた(山田氏/p30)。

楚の重要性

春秋時代から戦国・秦・前漢まで金属の生産量が最も多かった地域が楚であった。

特に重要なのは、金の生産量の多さだ。現在の地質調査の結果によれば、古代の技術で採取・採掘できることを前提とすると、金含有地は楚が最も多かった(p42)(他国と比べて領土が大きいので当然だとは思うが)。

楚が発行した金貨は計量貨幣で、その流通は楚の領域を超えて黄河以南全域でみられ、少なくとも斉・秦での金は楚の金貨が使用されていた。また三晋地域では楚の金貨は出土されていないが、影響がなかったはずはない。(p43-44)

このような楚の金貨を中心とする金流通量の増加は、中国の貨幣経済において、金と銅銭との二重の貨幣流通を実現することになった。いわば、金も銅銭もともに本位貨幣なのであり、その意味では金・銅銭並行本位とでもいうべき貨幣経済を出現させたのである。(p44)

ちなみに、楚では銀の貨幣も発行されていたが、銀の発行数は少なかったということだ。

秦帝国に繋がる戦国秦の貨幣制度

秦は他国に比べて後進国であったが、宰相・商鞅(前390-338年)が変法改革を行ってから強国へと変貌していった。このことについては以下の記事に書いた。

山田氏の主張によれば、商鞅が宰相だった孝公の次代の恵文王(前338-311年)の治世で新しい通貨制度が作られた。

それより前は、隣国の魏・楚の通貨の基準に合わせた円孔円銭(円形の穴がある円銭)を発行していた(p66)。現在で言うところのペッグ制だろうか。

恵文王は即位後2年の前336年に「半両銭」を発行した。

この段階では、もはや他国の銭との交換比率を銘文に記すのではなく、自国で採用していた両銖制を基準として、すっきりと割れる重量である「半両」銘で、しかも方孔の円銭を発行した。(p66)

これ以降、秦では国発行の銭を「行銭」とし、民間鋳造の銭を「盗鋳」銭として禁止し、他国の銅銭の流通も厳重に禁止した。(同ページ)

ただし、金貨については上述の通り、流通していた。

この半両銭が秦帝国でも使用され、前漢武帝の治世で五銖銭をはっこうするまで使用された。

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出典:半両銭 - Wikipedia

  • 半両銭のデザインは戦国秦から前漢までほぼ同じのため出土してもどの時代に鋳造されたのかを調べるのは困難だということだ。

また、戦国秦では麻布(あさぬの)が貨幣として通用していた。長さ8尺(185cm弱)、幅2尺5寸(58cm弱)の官製の麻布だ。1布=11銭(p68-69)。他地域で通用していた絹帛ではなく麻布だということが目を惹く。

この布の貨幣は秦による中華統一以降は姿を消した。(p74)



戦国時代 (中国)⑯ 戦国時代までの市場経済の歴史について 中編(春秋時代)

前回からの続き。今回は春秋時代

今回も多くの部分は以下の本を参考にしている。

春秋時代の変化

西周時代、経済的発展が顕著であった関中地域に比べて、関東地域(函谷関以東)の諸国では経済発展は遅れたが、長い時間をかけて周辺地域を開拓して行く中で着実に力をつけ、紀元前8世紀以降の春秋時代になると発展をみせる。そこでは、貝の伝統とはことなる価値表示機能のあるものを生み出す。これが春秋時代からみられる布や刀の銅貨である。

現在知られている春秋時代の貨幣としては、中原地域の周・晋・衛・鄭・宋・などの諸国で春秋前期に始まる布銭と、海岸地域の斉を中心として前7世紀から前6世紀に発行されたという刀銭とが早い。[中略] 南方の楚では、北方の中原の布銭や海岸地域の刀銭などの発行と同時に、……子安貝の形態を濃厚に残存させた銅貝貨を流通させたのである。(p22)

「中原」という用語は中国史の中で範囲が変わっていくので要注意。ここでは函谷関以東の黄河中流を表している。海岸地域は黄河下流

楚(江南)の銅貝貨

黄河下流で新しい貨幣通貨が発達し、この地域では銅貝貨の伝統は継承されなかったが、楚において継承された。山田氏によれば楚は子安貝流入ルートであり、かつ、貝貨使用が活発であったため、貝貨の伝統が残存したとみられる(p24)。ただし、楚の銅貝貨西周のような(実物のような)まるみを帯びたものではなく、平板なものであった(p21)。時代が下って、より我々現代人の貨幣のイメージに近づいた感がある。

中原(黄河中流域)の布銭

布銭は鏟(すき)などの農耕具を模した銅貨だが、なぜ「布」の字を使うのかは分かっていないらしい。

中国の青銅器時代は殷以前から始まり、春秋時代、遅くとも中期からは鉄器使用が始まる。この間、支配階層の間では銅製農耕具も使用されたようであり、このような銅器が贈与・互酬の対象となり、さらには貨幣へと転化を遂げて布銭となった。[中略]

あるいは青銅そのものが貴重視されていたため、鋳造によって大量生産された鉄器の使用とともに、青銅農耕具……は実用的意味よりは抽象的・象徴的価値表示機能を有するようになったのであろうか。いずれにしても、西周時代に貨幣化を開始した貝と亀甲のような神聖性・霊力の強いものではなく、より実用的・世俗的なものが物品貨幣となり、ついで金属貨幣へと転化したことになる。

この布銭……が本来的に実用器であったことは、布銭の最も古い形態が空首布であり、その空首部分がちょうど木製の柄を差し込むことができるようになっていることに明らかである。しかし、同時にもはや農耕具としての実用性がなくなっていることも確かである。銅の地金自体の価値を基礎として、独自の形態によって一定の価値表示機能をもっていたというのが、妥当なところであるし、やはり貨幣段階に至っていたといえる。

出典:山田勝芳/貨幣の中国古代史/朝日選書/2000/p25

  • 落合淳思『古代中国の虚像と実像』(2007)*1は、鉄製の農具は考古学的成果から「春秋時代から戦国時代初期までは、……ごくわずかしか使われていなかったことが明らかになった。……鉄製農具の普及は、今のところ戦国時代中期以降と考えられている」と主張している。これが事実だとすると鉄製農具の普及と関係なく銅製品の貨幣化が進んだことになる。

青銅器は青緑のような色を特徴とした遺物だが、本来の青銅は光沢のある金属だ。十円玉が青銅でできているのでそれを思い起こせばいい。青緑になるのは参加して錆びた状態だ。

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出典:中国の貨幣制度史 - Wikipedia

空首布は広い部分は平板だが、細い部分(首の部分)は立体的になっていて中空になっている(だから空首と呼ぶ)。そこに木製の柄を差し込んで農具となる。

斉(黄河下流域)の刀銭

次、刀銭の話。

刀銭も実用器だった。古代中国では文字を書くため媒体として木簡や竹簡を使用したが、書き誤りを削るために小刀を使用した。刀銭はこの小刀を起源として誕生した(p27)。これも贈与・互酬の対象からすたーとして布銭同様の変化をたどる。

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出典:刀銭 - Wikipedia

春秋時代における貨幣の広がり

ただし、春秋時代において一般的な交易では物々交換や米穀・塩などの実物が価値表示機能を果たすことが多かったために、貨幣の広範な流通はまだ見られるのは戦国時代に入ってからとなる。(p26)



戦国時代 (中国)⑮ 戦国時代までの貨幣の歴史について 前編

これから貨幣の歴史について書く。

この記事の多くの部分は以下の本を参考にしている。

重要な用語:互酬・再分配・交換

まず、一般的な用語について。

市(いち)
交易・売買取引のための会同場所。市場(いちば)ともいう。いろいろな形態の市が,古代から世界のほとんどの社会に認められる。K.ポランニーによれば,人間社会の歴史全体からみると,生産と分配の過程には,三つの類型の社会制度が存在しており,古代あるいは未開の社会から現代諸社会まで,それらが単一にあるいは複合しながら経済過程の機構をつくってきた。それらは,(1)互酬reciprocity 諸社会集団が特定のパターンに従って相互に贈与しあう,(2)再分配redistribution 族長・王など,その社会の権力の中心にものが集まり,それから再び成員にもたらされる,(3)交換exchange ものとものとの等価性が当事者間で了解されるに十分なだけの安定した価値体系が成立しているもとで,個人間・集団間に交わされる財・サービス等の往復運動,の3類型であり,それぞれの類型は社会構造と密接に連関をもって存在している。

出典: 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版/市(いち)とは - コトバンク

(1)互酬reciprocityは難しそうな用語だが、歳暮や中元を思い起こせば理解できるだろう。贈与し合うことによって互いの関係を認め合い、難事に助け合うことも期待し合うための行為。現代日本の歳暮や中元はほとんどが食べ物だが、先史時代の中国における互酬では玉や珠(じゅ、パール)のような希少品だった。共同体(集団)の長(おさ)どうしの互酬は同盟関係を表す証(あか)しになった。また互酬で得た希少品はステータスシンボルであった。

(2)再分配redistributionの目的は支配者が成員(手下、臣下)をコントロールするために必要な行為。互酬で得た希少品を成員に再分配していたことが考古学の成果で分かっている。

(3)交換exchangeは、物やサービス(労働)を交換し合う行為。これが一般的に認識される市場経済の一部だが、貨幣の誕生を語る場合、(3)交換だけではなく、上の2つも重要な役割を果たす。

先史時代

貨幣的なものが現れるのは殷代に入ってからだが、それより前に互酬や再分配は始まっていた。それを示す代表的なものが玉器だ。

玉器についてはこのブログでも書いている。たとえば

支配者間の玉器の互酬や集団内部での玉器の再分配の構造は下で紹介する貝の流動システムと同じだ。

殷代:貝と亀甲

子安貝は熱帯・亜熱帯の海域に分布する貝で、殷の中心部である黄河中流域においては子安貝は希少品であった。東シナ海子安貝が贈与品として殷に運ばれたとされているが、ルートを含む詳しいことは分かっていないらしい。

とにかく、子安貝や珠のようにステータスシンボルとしての役割を持ち、再分配された。

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出典:貝貨 - Wikipedia

子安貝は穴を開けて紐に通しされた状態が普通であった。殷代の甲骨文や西周代の金文などには「貝五朋」のように「朋」が単位となっているが、これは紐を通した複数の貝の象形である。

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出典:「朋」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

まず殷代の支配者間で子安貝の「交易」「互酬」が開始されたであろうが、支配者間の互酬、神聖視が一段と進み、「朋」字に示されるような一定の単位での互酬が定着し、それが次第に価値表示の役割を果たした。こうして、古代中国では、実用性のあるものではなく、高い次元の神聖性を付与されていた子安貝こそが中国最初の物品貨幣(価値尺度となる品で貨幣的機能を有するもの)となった。このようにいえるであろう。

出典:山田勝芳/貨幣の中国古代史/朝日選書/2000/p17-18

山田氏は貝の他に亀甲も貨幣であったと主張する。ただし、貝のような確実な証拠はないようで、幾つかの状況証拠に基づいた推測だ。

西周

時代は下っていくと、貝貨は銅・骨・玉などでつくられた倣製貝(貝の形をしたもの)が支配者間で繰り返し交換(互酬・贈与)されて、やがてこれらが主要な貨幣的機能を有する「一般的等価物」となった。(山田氏/p20)

「一般的等価物」とは、ある物の価値を示す物差しとなる物のこと。例えば「A氏が持っている壺は金○グラムの価値がある」と言った時、金が「一般的等価物」の役割を果たしている。

山田氏は本の中で一つの例を挙げている。時代は西周後期の前11世紀、場所は西周の王都宗周鎬京を中心とする関中(陝西省渭水流域)。この時期のこの地帯は富が集中していて政治だけではなく経済も発展していた。

……そのため土地争いや紛争の解決を記録した長文の金文が存在する。その代表的なものが衛器と命名された青銅器4件であり、その金文には、諸侯が玉璋(玉でできた儀礼用品)と田土「十田」を交換するなどの内容がみられる。さらに、その田土が「財八十朋」に相当するともある。この衛器やその他の金文から推測される交換比率は次のようになる。

1玉璋=80朋=10田 20朋=3田 4匹良馬=30田
5人奴隷=1匹馬+1束絲(絹糸)≒100寽(りつ、銅地金の単位)

土地が「田」という一定の単位で把握され、それを実質的に売買している状況が明らかである。馬・奴隷もこのような売買を媒介するものとなりうるが、この中で最も抽象的・非実用的なのは朋の単位で表される貝であり、しかも「朋」はこの場合、価値表示のみであって、実際の貝を意味していない。なお、銅地金も重量単位「寽」で扱われて、かなり抽象的な価値表示機能を持ってきている様子もうかがわれる。(p21)