歴史の世界

戦国時代 (中国)⑬ 後期 秦王・政(始皇帝)登場

戦国時代もいよいよ大詰め、秦王・政(始皇帝)の登場。

秦の中華統一は おおかた昭襄王の時に準備はできていた(前回の記事参照)が、昭襄王の死後に二代立て続けに王が早死にしたので、少しの間 足踏み状態となった。そして秦王・政の代となり再び征服事業が再開され最期まで押し切った。

この記事ではまず昭襄王の死後の展開と秦王・政の登場について書く。

呂不韋「奇貨居くべし」

昭襄王の次代は孝文王だが、孝文王が即位する前に既に後継者争いが始まっていた。ここに登場するのが「奇貨居くべし」で有名な呂不韋だ。

趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子・異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、掘り出し物だ。手元におくべきだ。)」と言った。陽翟に帰った呂不韋は父と相談し、話し合いの結果、将来のために異人に投資することで結論がまとまったという。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。

当の異人は、当時の秦王であった昭襄王の太子・安国君(後の孝文王)の子とはいえ、20人以上の兄弟が居ただけでなく、生母の夏氏が既に父からの寵愛を失っていたため王位を継げる可能性は極めて低く、母国にとっては死んでも惜しくない人質であった。しかも趙との関係を日増しに悪化させていた秦の仕打ちによって、趙での異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があった。

出典:呂不韋 - Wikipedia

上のように呂不韋と異人(子楚、荘襄王)との出会いから始まるエピソードは『史記呂不韋列伝に書かれている。戦国時代のクライマックスにふさわしく面白い物語になっている。

ただし、このように良く出来ている物語はフィクションである可能性が高いと相場が決まっている。このエピソードの矛盾点・疑問点についてここには書かない。詳しくは、落合淳思『古代中国の虚像と実像』 *1 の「第一二章 秦王室のスキャンダルの真相」を参照。

孝文王の即位と死

孝文王については以下のことを知っていれば十分だろう。

紀元前251年秋、父の昭襄王が死去し、安国君が孝文王となり、華陽夫人が華陽后、子楚が太子となった。また母親の唐八子に唐太后諡号

紀元前250年10月、父の喪が明けて正式に即位したが、3日後に53歳で死去した。

出典:孝文王 (秦) - Wikipedia

荘襄王即位と相国・呂不韋

孝文王の後を継いだのが荘襄王

孝文王は即位後すぐに呂不韋を相国(宰相の尊称)にした *2

この王も在位 前250-247年と即位3年で死んでしまった。

秦王・政の即位

秦王・政が即位したのは前247年、13歳の時だった。政務は引き続き相国・呂不韋が行った。

権勢をほしいままにしていた呂不韋だったが、『史記呂不韋列伝によれば、政の即位9年(前238年)、宦官・嫪毐(ろうあい)の陰謀事件に連座させられて罷免された(前237年)あと、蜀への流刑を言い渡された。ただしこのエピソードも疑わしい(前述の落合氏の本を参照)。

上のエピソードが創作の場合、政が呂不韋を罷免した直接の原因は分からないが、実際の理由は権勢が強くなりすぎた呂不韋から実権を奪うためだった、と思われる。昭襄王が魏冄を罷免したのと同じだ。または恵文王が商鞅をクビにしたのと同じ。こんな例は探せばいくらでもある。呂不韋罷免はよくある悲劇(?)の一つに過ぎない。

とにかく政にしてみれば目の上のたんこぶだった呂不韋をようやく取り除くことができ、新しい段階に進むことになる。この後のことは次回の記事で書こう。

秦の征服事業の進捗

孝文王・荘襄王の治世と、秦王・政の治世のうちの呂不韋が相国を勤めていた期間を合わせると前250-前237年の13年になる。

この間の軍事面で中心となる将軍は蒙驁(もうごう)。

  • 紀元前249年(荘襄王元年)、韓を伐って成皋と滎陽を取る。
  • 紀元前248年(荘襄王2年)、魏の高都と汲を攻めた。また、趙の楡次・新城・狼孟とを攻めて37城を得る。
  • 紀元前247年(荘襄王3年)、魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを王齕と迎え撃ったが敗れ、秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解いて去ってしまった。
  • 紀元前246年(始皇帝元年)、晋陽で反乱が起こり、これを平定した。
  • 紀元前244年(始皇帝3年)、韓を攻めて13城を取る。
  • 紀元前242年(始皇帝5年)、魏を攻めて酸棗(現・河南省)など20城を奪い平定し、はじめて東郡を置いた。

出典:蒙ゴウ - Wikipedia

上のソースは『史記』秦本紀。これ以上の戦果は無い。着実と言えばいいのか、少ないと言えばいいのか、私にはわからない。

他の戦役として政の弟・長安君成蟜が前239年に趙を攻撃を攻撃したのだが、成蟜は政に対して反乱を起こして鎮圧される。翌前238年は嫪毐の陰謀事件があったことも合わせて考えると、政の初期の政権は安定していなかったと考えられる *3。政と呂不韋の実権をめぐる抗争があったのかもしれない。

十数年というあまり長くない期間と続けざまの代替わりがあったことを考えれば、上のような成果は妥当なのかもしれない。



始皇帝についてネット検索すると漫画/アニメの『キングダム』についてのページがずらりと並ぶ。
私はアニメを見て面白いとは思ったが、歴史の勉強にはならなかった。
時代考証はされているはずだけど、どこまでがそれに基づいているのかは分からない。
戦闘シーンなどはイメージとして有用かもしれない。

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アニメはアマゾンプライムで見ることができる。(2020年3月)


*1:講談社現代新書/2009

*2:史記』秦本紀によると、《修先王功臣》とあり荘襄王の即位当初は先王の功臣を引き継いだ。しかしそのあとに、 《東周君與諸侯謀秦,秦使相國呂不韋誅之,盡入其國。》とある。
東周君とは周王室滅亡後に存続を許された東周公の昭文君のことで、昭文君は前249年に楚を含む六国の諸侯と謀って秦を攻めたが返り討ちにあい、所領は秦に接収された。これを指揮したのが相国・呂不韋だ。
功臣を引き継いだのは形だけだということだろう。

*3:落合氏/p139

戦国時代 (中国)⑫ 後期 秦・昭襄王の治世

中華統一を果たすのは秦王・政(のちの始皇帝)だが、政が王になるより前に秦の中華征服事業を止めることができる勢力は無くなっていた。この状況は始皇帝の三代前の秦王・昭襄王の治世で起こった。

今回は昭襄王の治世を中心に書く。

「中国の統一は始皇帝の力ではなかった」

紀元前278年におこなわれた楚への侵略では、楚の都の郢(えい)が陥落し、楚は東方へ遷都した。また、紀元前260年の趙への侵攻では、この時点で唯一秦に対抗しうる軍事力を持っていた趙が、長平の戦いで大敗した。これにより、先の斉の敗北とあわせて、秦に対抗できる国がなくなった。

こうした状況を背景に、秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父。昭王とも)は紀元前255年(256年とも)に周王朝を滅ぼした。秦が周王朝に代わる新しい王朝になることを、行動をもって宣言したのである。

「中国をはじめて統一したのは誰か」という設問があれば、答えはもちろん「秦の始皇帝」である。しかし、始皇帝が一人の力で中国を統一したのではなく、むしろ始皇帝の即位(紀元前246年)以前に、秦による中国統一は、ほぼ決定していたのである。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/2009/p129

「中国の統一は始皇帝の力ではなかった」というのは上の本の第11章のタイトル。

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

引用に書かれていることは昭襄王(在位:前306-251年)の時期の出来事だ。昭襄王の治世では常に領土拡大戦争を繰り返していたが、斉の没落と名将・白起の登場で秦の一方的な攻勢が続いた。

昭襄王が死去した後にお決まりの後継者争いがあって中華統一は少し足踏みをした感はあるが、秦王・政(のちの始皇帝)が即位する頃には既に統一のお膳立ては済んでいた。

なお、昭襄王は(始皇帝が行った郡県制ではなく)周王朝の体制を踏襲した封建制で中華を治めようとした。

前256年に王前284年王赧(前314~256年)が崩じて周王朝が断絶すると、昭襄王は諸侯を来朝させ、前253年、雍(よう)において上帝を郊祀した。周に代わる王朝樹立を宣言し、秦を天子とする封建制を志向したものである。ところが、前251年に昭襄王が卒し、短命な孝文王(前250年)・荘襄王(前249~前247年)のあと、幼少の秦王政(始皇帝)が即位し秦の統一は先送りされる。秦王政は前238年に親政を開始するが、その翌年にはなお政王建(前264~221)・趙悼襄王(前244~前236)が来朝している。秦が他国の臣従を断念して武力統一に踏み切るのはそれ以降のことである。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p57(吉本道雅氏の筆)

秦帝国が郡県制に切り替えたのは李斯の提言によるというのが教科書的な説明。ただ吉本氏は「断念」という言葉を使っているので他の理由があるのかもしれない。

万里の長城(の一部)を築いたのも昭襄王だ。

www.recordchina.co.jp

昭襄王の治世(在位:前306-前251年)

さて、ここまで簡単な時代の流れを書いたが、ここからは複数の人物を中心にした歴史を書いていく。

相国・魏冄(ぎぜん)

昭襄王の先代の武王が急逝したために後継者争いが起こった。まあ、急逝でなくてもお家騒動なんていつでもどこでも起こるものだが、この争いに勝ち残ったのが昭襄王だ。彼を王に擁立したのは魏冄(昭襄王の母・宣太后の弟)で、その後の王族の反乱を鎮圧したのも彼だった(このように魏冄が非凡の男だということは分かるが彼が政治の達人かどうかはよく分からなかった)。

魏冄は前295年に宰相になったが前293年に白起を将軍に登用したことで彼の地位が盤石になった。白起が連戦連勝して秦の版図を拡大したからだ。

『戦国策』秦策三によれば、魏冄は宣太后と華陽君(宣太后の弟)と政治を専横していたとされる。前276年には相国となり、秦では魏冄に並ぶものがいないほどの権勢を誇るようになった。彼は何度か罷免されるがその都度 宰相に復職して勢力を維持する。 (魏ゼン - Wikipedia

魏冄は宣太后の実子(昭襄王の弟)たち、すなわち涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)を抱き込み(白起が奪取した領土を彼らに与えた)、昭襄王が簡単に処断することができかった。

魏冄は前276年には相国となった。相国は宰相の最上級の尊称のようなもので、中国の歴史上 権勢が最上級の人物が与えられる(という形式で名乗る)地位のこと。魏冄がそれだけの権勢を誇ったということだ。

昭襄王が魏冄を何度も罷免していることから二人の実権の奪い合いの駆け引きがあったのだと思われるが、この争いは范雎が登場することで終止符が打たれる。

宰相・范雎

前271年、魏冄は客卿の進言を聴き入れて斉を討った。これは自己の封邑である陶を広めるためで、斉の地を得て自身の領地に組み込んだ。

当時無職であった范雎 *1 は昭襄王に謁見を許された時にこの対斉戦争を批判した。

曰く「穣侯はいま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが遠交近攻策である。

出典:范雎 - Wikipedia

遠交近攻という言葉は范雎が出典とされる。遠交近攻は至極当たり前のこととは思うが、これを言わなければならなかったのは、魏冄が私欲のために遠方の斉と戦ったことが原因だった。

この進言を受け入れた昭襄王は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけた。その成果に満足した昭襄王は、范雎を信任することが非常に厚くなった。そこで范雎は昭襄王に対して、穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。これに答えて昭襄王は太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君を函谷関の外へ追放した。

出典:范雎 - Wikipedia

范雎は魏冄のようには権勢を追求せずに頃合いを見て職を辞して隠居した。その後の秦は范雎の遠交近攻策を継続して着実に版図を広げていった。



*1:范雎の経歴は范雎 - Wikipediaを参照

戦国時代 (中国)⑪ 後期 周王室の滅亡(東周の歴史)後編

前回からの続き。

春秋時代の終わり頃になると、「覇者体制」が崩壊する。これにより周王室は(形式上の)中華のオーナーという立場を失い、それのみならずその存在感までも失ってしまった。

各諸侯国は新しい秩序を求めはじめ、周王室は戦国時代に出来上がりつつあった秩序から取り残されてしまった。

引き続きテキストは↓

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

前4世紀後半、魏・恵王、夏王と称する

戦国初期に覇者となったのは魏・文侯だった。魏は文侯・武侯・恵王の三代に亘って周王朝を奉じて覇者体制の復興を図ったが、恵王の治世で敵対勢力のためにその方針を断念し、別の方針を採ることにした。すなわち王号を称して自らが中華のオーナーになろうとした。

恵王は「夏王」と称した。『戦国策』秦策四の「或為六国説秦王」章に、「魏伐邯鄲、因退為逢沢之遇、乗夏車、称夏王、朝為天子、天下皆従」(魏が邯鄲〔に都を置く趙〕を伐ち、これによって引き揚げて逢沢〔今の河南省開封市の南〕で会を行うと、〔魏王は、夏車に乗り、夏王と称し、〔諸侯と〕朝見して天子となり、天下の者はみな従った)とある。楊寛や吉本道雅は、これが魏の君主が王号を称するようになった始まりであるとする。周や殷以前の王朝とされる夏の王、そして天子と称することで、周王朝に取って代わる意志を示したのである。

出典:佐藤伸弥/周/中公新書/2016/p205-206

周王室より古い夏王室のマネをして周王室の権威の上位に立とうとしたわけだ。もちろん夏王室の立ち居振る舞いなど遺っているわけがなく、振る舞いも物も恵王らの創作だ。

ただし、恵王は斉との戦い(前342年の馬陵の戦い)で大敗し、魏は覇権国のちいから引きずり降ろされた。

(詳細は記事《 称王/遷都/社会の発達 》の称王の節 で書いた。)

前4世紀後半、各諸侯が王号を称する

上記の記事に書いたことだが、実は魏・恵王が王号を称する前に、周王室は秦の孝公を覇者に任命している(文武の胙を下賜した)。これがきっかけとなって魏王は方針変更をしたわけだ。

周王室は引っ込みがつかずに秦の次代の恵文君にも文武の胙を贈って覇者体制の復興に望みを繋げようとした。

だがしかし恵文君も王号を称してしまった。それのみならず韓・趙・燕さらには小国の宋・中山国までも王号を称するようになってしまった(佐藤氏/p207)。周王室の威厳など無いも同然のところまで落ちぶれてしまった。

斉と秦の二強時代の中期、斉・湣王と秦・昭襄王(恵文王の子)はそれぞれ東帝・西帝と称した。それほど王号の価値は失墜してしまったのだ(ただし帝号はその後すぐに破棄された)。

分裂

周王室の支配下にある領域は王畿と呼ばれていたが、その範囲は現在の洛陽周辺に限られていた。この小さな範囲の中でさらに分裂が起こる。

f:id:rekisi2100:20200228132204p:plain:w150

出典:佐藤氏/p205

考王(前440年 - 前426年)が弟を王城すなわち漢代の河南県城に相当する区域を封じて周公の官職を継がせた。周公は西周の周公旦の官職だ。この弟は西周桓公と称するがこの西周西周王朝とは関係ない。紛らわしい。

桓公の次代の威公が亡くなると威公に寵愛されていた末子が太子に反乱を起こして独立する。つまり周公の領地が分裂したわけだ。太子は「西周の恵公」または西周君と呼ばれ、末子は「東周の恵公」または東周君と呼ばれる。これも紛らわしい。西周君の拠点が王城、東周君の拠点は鞏。その後も両者は時に戦争をしていたようだ。

周王室の最期の王である赧王(前314年 - 前256年)が西周君を頼って王城に移った)。よって都も成周から王城になった。赧王が王城に逃げて(?)きた理由は不明だが、東周君が成周を拠点としたとあるので、東周君が赧王を攻めたのかもしれない。

これにより、周王室は東西に分裂した。

(ソースは佐藤氏/p 208-209)

前256年、滅亡

赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。西周の文公が死去すると、その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった。

出典:周#滅亡 - Wikipedia (この引用文のソースは佐藤氏/p209-210)

以上が周王室の滅亡の顛末だ。

こんな紛らわしくてめんどくさい滅亡の仕方をしなければ、もうクローズアップされるのではないかと邪推したくなる。

前回、周王室を滅ぼした勢力は他の全勢力の敵になると書いたが、当時の秦は周王室を滅ぼす前に他の全勢力の敵になっていた。



私は周王室の滅亡はそれなりに大きなイベントだと思っていたが、あまりにもしょうもないのでがっかりしている。


戦国時代 (中国)⑩ 後期 周王室の滅亡(東周の歴史)前編

周王朝が滅亡するのは前256年である。秦によってあっけなく滅ぼされてしまった。

春秋戦国時代において最弱レベルの勢力が戦国末期まで生き延びることができたのは興味深いのでここに書き留めておく。

ここでは春秋時代までさかのぼって東周の歴史について書いていく。

テキストは↓

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

どうして生き延びることができたのか

戦国時代になって、中小国が大国に併呑される中で、武力が無きに等しい状態の周(東周)王朝が滅びたのが前256年。ちなみに西周が滅んで東周ができたのが前770年、秦が中華統一を果たしたのが前221年。

なぜ弱小勢力である東周が滅ぼされなかったのか? 確証はないが推測はできる。

仮に周辺国の魏が周王朝を滅ぼしたとしよう。そうしたら他の勢力は魏を攻撃する絶好の大義名分を手にすることになる。他勢力が嬉々として「対魏戦争」を起こすべく外交を活発化させただろうことは火を見るより明らかだ。

周王朝は秦によって滅ぼされたが、周滅亡の頃の秦は他勢力が束になって攻めてきても逆に攻め込む事ができるほどの力を持っていた。

周王室は形式上の地上のオーナー

東周すなわち春秋戦国時代における周王室の歴史を手短に書いていく。

周王室は東周の時代になってからも断続的に家督争いを行っていなのだが、それをするにしても武力は皆無に近く、他勢力を巻き込む形でしかできなかった。

武力皆無の周王室にとって生き残るためのエネルギー源は天子としての権威だけだった。(真偽は別として)周の文王は天命を受けた「受命の君」であり、その子孫である歴代王が天に対する祭祀をする権限を持ち、これすなわち、地上(中華)のオーナーであると考えられた。

本来なら周王室が武力を持っていない時点で、他の勢力は上のような物語につき合う必要はないように思うところだが、それでも使いようによっては自陣の勢力を増大させることにができると思えば周王室を使ったのだ。

さて、以下に簡単に周王室の歴史を書いていくが、春秋戦国時代の大きな歴史の流れはこの記事以外を参照のこと。

前651年、斉の桓公に「文武の胙」を下賜する

斉の桓公とは春秋時代の最初の覇者。桓公は前651年に諸侯を集めて会盟を開催した(葵丘の盟)。周の襄王はその場に使者を派遣して桓公に「文武の胙」を下賜した。

「文武の胙」の意味とは? 以下引用。

豊田久の研究によれば、周王は即位時にまず文王の事績を示す「天命の庸受」者としての天子の地位を継承し、ついで武王の事績を示す「四方の葡有(ほゆう)」者としての王の地位を継承するとのことであった。

豊田氏は更にこの自論を基礎として、桓公への「文武の胙」の賜与は、周王の持つこの二つの役割、特に後者の、周の領域内に封地を持つ四方の諸侯を統括する「四方の葡有」者としての役割を桓公に代行させ、彼を周王朝の保護者として位置づけたのであるとする。これによって桓公は諸侯のみならず周王朝からも覇者として権威が認められたということになるが、その際に引き合いに出されたのは文王・武王以来の周の伝統なのであった。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p158

日本史における後鳥羽天皇源頼朝征夷大将軍に任命したようなものだと思うのだがどうだろうか。

周王室は「天命の庸受」者としての天子の地位は周王室にあり、「四方の葡有」者としての役割だけを桓公に代行させようとしたのではないかと、個人的には思う。

前632年、晋の文公を覇者に任命する

時代が代わって覇者が晋の文公になる。

前632年、楚との戦い(城濮の戦い)に大勝した文公は、鄭の地である践土(せんど)に味方の諸侯を集めて会盟を開催した。ここに周の襄王を迎えて戦果を献上した。

襄王はこれに応えて、西周後期の儀礼(冊命儀礼)に則って文公を侯伯すなわち覇者に任命した。(佐藤氏/p161-164)

(冊命儀礼については記事《貴族制社会の出現/冊命儀礼》の「冊命儀礼」の節 を参照)

これから晋の君主が覇者の地位も受け継ぎ、晋の覇権の時代(覇者体制と呼ばれる)が前500年あたりまで続いた。この間、晋は周王室を尊重したのでは王室は安泰だった。

覇者体制の崩壊と孔子の登場

前500年頃に覇者体制が崩壊する。これは周王室にとって大事件だった。

事実上の中華の支配者であった晋が尊王攘夷(周王を尊んで、夷狄(楚)を倒す)の意を示していることで、周は形だけでもヒエラルキーの一番上に置かれていた。そして覇者体制が無くなった時にその秩序が崩れてしまった。

秩序を失ったのは周だけではなく中華全体だ。諸侯たちは新しい秩序を求めたのだが、この時期に登場したのが孔子だった。

孔子と]孔子の後学となる儒家たちは、その春秋後半期から戦国・秦・漢期にかけて、自分たちが西周の礼制と信じるものを体系化し、『周礼』『儀礼』や『礼記』に収録されている諸篇といった礼に関する書をまとめ、礼制を成文化した。

西周の礼制を理想とし、下級の貴族が墓葬の青銅器として「通常の器群」を用いるのに対し、自分たちは「特別な器群」を用いるといったように、身分や階層などに応じて体系化された礼制を求める君主や上級の貴族が、儒家の主張する礼制を受け入れるようになった。というより、儒家の方がそのような「社会的要請」に応えていったというのが実情であるかもしれない。[中略]

要するに儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素(その中には本当に西周に由来するものも多少は含まれていただろうが)を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである。

出典:佐藤氏/p185-187(下線は引用者)

以上のように新しい礼制は作り上げられていった。この時代の礼制は儒家のみならず諸子百家の要素も含みながら各地に伝播していった。そしてこの大きな動きに対して周王朝は関わっていない。

  *   *   *

以上が春秋時代まで。次回は戦国時代の周王室の歴史を書く。



戦国時代 (中国)⑨ 後期 「秦一強」の時代到来

斉と秦の二強の時代が中期で、秦の一強時代が後期。そして最期は秦が他国を滅亡の縁から押し切って中華統一を果たす。

「強国・斉」の衰退と秦の侵略戦争

斉の衰退の原因については↓の記事で書いた。

戦国時代⑤ 中期 斉・秦の二強時代 斉編 # 突然の衰退:「対斉」戦争

戦国七雄の中の燕・趙・魏・韓・楚の5カ国が斉を攻めて滅亡の一歩手前までいったが、 連合軍の中心であった燕の昭王が死去し、次代の恵王が軍の中心人物であった楽毅を解任したことをきっかけに斉軍が息を吹き返して取られた領地を一気に取り返した。しかし斉はそれまでの強勢を取り戻すことはできなかった。

そして連合軍側も大した利益を得ることはできず、結局のところこの戦争で一番利益を上げたのは(相対的に)秦であった。戦争に参加しなかった秦が漁夫の利を得たわけだ。

対斉戦争が勃発する以前に、有名な秦の将軍・白起の名が現れる。

白起の業績を列記すると以下の通り(白起 - Wikipedia、『史記』白起・王翦列伝参照)。

  • 前293年、韓・魏を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首。
  • 前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。
  • 前278年、楚を攻め、鄢郢の戦いで楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。
  • 前273年、魏の華陽を攻め、華陽の戦いで韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。
  • 前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦いで5城を落とし、5万を斬首した。
  • 前260年の長平の戦いで20万余りを生き埋めにした。

対斉戦争開始が前284年、斉の反撃が前279年。

また白起以外の侵略も行っていて次のようなデータ(?)がある。

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出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p128

毎年のように侵略を繰り返している。

その結果が↓

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出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia (gifファイルから画像を抽出)

  • 韓は風前の灯状態。楚も上述の鄢郢の戦い(前278年)で首都・郢を奪われて遷都を余儀なくされた。
  • また秦は前316年に蜀(現在の成都付近)を併合して勢力を拡大している。
  • 趙は領土を拡大したように見える。これは藺相如と廉頗・趙奢といった名将たちの働きに依る。しかし趙奢が死去し、藺相如が病床に伏し、廉頗も老いた前260年、長平の戦いで趙は大敗を喫して、以後どんどんと領土を削られていく。

秦の強さについて

戦国後期の秦の強さを語る時にまず出てくる事項は、商鞅の国政改革(商鞅の変法)だ。これは中期の出来事だが、秦の歴代君主はこの改革を受け継いで強固な専制君主制を守り続けた。

これに比べて他国はどうであったか?

楚の呉起商鞅のような国政改革を行ったが、君主の代替わりの時に貴族に殺されて改革は潰された。また韓では法家として有名な申不害(?-前337年)が宰相を務めた時期は安定していたが、裏を返せばその他の時期は不安定ということになるだろう。

他国も多かれ少なかれ専制君主制を敷いていたが、孟嘗君を含む戦国四君の強盛を見ると、秦と比べて(君主以外の)王族の力が強かったようだ。

もう一つ秦の強さとして考えられるのは、その位置だ。

古代中国の中心地は黄河下流で中原と呼ばれていたが、秦はその西方の山がちな地方にあった。秦と中原に函谷関という地域(関所を含む交通要地)があり、ここを塞げば秦は(楚や騎馬民族以外の)他国に攻められる心配はしなくてよかった(逆に塞がれると出ることができないが)。

また王が中原との商売利権をコントロールできたとすれば、入手困難な中原の高級品を臣下へ下賜することによって王権を高めることができただろう。

このようなやりかたは先史から認められ、岡田英弘氏によれば秦帝国以降の歴代皇帝は「皇帝は総合商社の社長だった」としている *1。 当然、戦国秦の王もこの手法を使っていただろう。

まとめると、辺境にあったおかげで戦乱で国内が焦土化になる恐れがなく、商鞅の変法を国是として強固な専制国家体制の下で秩序が(比較して)安定していたことが、他国を圧倒できた理由として挙げられる。



*1:岡田英弘/この厄介な国、中国/ワック/2001/p48

「諸子百家」カテゴリーの主要な参考図書およびウェブサイト

諸子百家」シリーズはこれで終わり。

この記事では主な参考図書を書き留めておく。

諸子百家全般

浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007

諸子百家 (図解雑学)

諸子百家 (図解雑学)

  • 作者:浅野 裕一
  • 出版社/メーカー: ナツメ社
  • 発売日: 2007/04/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

諸子百家のアンチョコ本。諸子百家の概説の本は幾つかあったが、これが一番わかりやすかった。図説のページ(見開き2ページの左側)が理解に役に立った。

これ本だけで「分かったつもり」になろうかと思ったが無理だった。最初のとっかかりにはなった。

Es Discovery/中国古典の解説

諸子百家の書物の現代語訳を読むことができる。

詳細な説明がいらないのであれば、このサイトだけで足りてしまうかもしれない。

儒家

儒家儒教)については、書籍であれネットであれ多くの人が言及していて、私は多くの人の主張を少しずつ採用することができた(つまみ食いしてつなぎ合わせた、とも言う)。

以下はその中の代表的な参考図書。

浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999

儒教 ルサンチマンの宗教 (平凡社新書)

儒教 ルサンチマンの宗教 (平凡社新書)

  • 作者:浅野雄一
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1999/05/15
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)

儒教孔子を批判的に書いている本。大変参考になった。

ただ今思えば浅野氏が語る孔子像は批判的すぎるような気がしている。 金谷 治『孔子』 (講談社学術文庫/1990) と対比して読んだほうが良かったかもしれない。

加地伸行儒教とは何か/中公新書/1990

儒教とは何か (中公新書)

儒教とは何か (中公新書)

この本では孔子儒教の基礎を作る以前の「儒(原儒)」を学んだ。

原儒は民間の葬式屋・シャーマンその類の人たちだった。

孔子周王朝初期の礼の復活が秩序の復活につながると主張する一方で、実際の孔子の思想の根本は葬式を含む民間の慣習にあった。だから仁義よりも孝悌が前に出てくるわけだ。

wikipedia孟子荀子のページ

wikipediaは専門家に忌み嫌われ、いい加減な記事も多いが、孟子荀子のページはよくまとまっていると思う。実のところ私は、孟子荀子についてはこれだけ知っていればいいのではないかと思ってこれ以上の理解は無い。

ただ、吉田松陰の『講孟箚記』を理解しようとする時には本を読まなければならないだろう。

墨家

墨家についてはそれほど深い知識を知りたいとは思わなかったので、冒頭に紹介した浅野氏の『雑学図解 諸子百家』と湯浅邦弘『諸子百家』(中公新書/2009)を読んだのみ。

あとは、イメージとして漫画の『墨攻』が参考になったかもしれない。

孫子

デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

この本は『孫子』を現代でも実用できる戦略書として取り扱っている。『孫子』の戦略思想は現代の戦略思想家にまで採用されているそうだ。

著者の解釈は、日本の古代中国思想の諸先生と大きく異なっている。『孫子』を土台とした『李衛公問対*1 の戦略思想も入っており、『孫子』をそのまま解釈しようというものではない。

孫子』の現代語訳とその解説を読むだけでも面白いが、『孫子』の戦略を深く知るためにはこの本を読むべきなのかもしれない。

道家

老子』に関しては上記のデレク氏の本も参照した。

デレク氏の説によれば、『老子』と『孫子』には深い関係がある。『孫子』を編纂した人たちは老子(老聃ろうたん。人物としての老子)の思想を採用して『孫子』に書き込み、『老子(=道徳経)』を編纂した人たちは『孫子』の思想を採用した。毛沢東は『老子』を戦略書として読んだそうだ。

池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017

「無為」や「無為自然」の言葉はこの本の解説を採用した。

この本を読んでいると、『老子』が自己啓発やらスローライフみたいなものとは縁遠いものに思える。本当はスローライフっぽいのは『荘子』の方で『老子』は為政者向けの書だ。

現代語訳が分かりやすい部分とわかりにくい部分があるので、他の本と比較して読んだほうがいいと思う。

守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016 *2

世界最高の人生哲学 老子

世界最高の人生哲学 老子

こちらはスローライフっぽいコンセプトを持つ本のようだが、私はそういうところを気にせずに『老子』の解説の部分だけを読んだ。

とりあえず『老子』における重要なキーワードは(全てとは言えないが)盛り込まれているで十分役に立った。

老子』関連の本はほとんどがスローライフっぽいものだった。そうしたほうが売れるのかもしれない。

池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017 *3

《『老子』その思想を読み尽くす》の『荘子』バージョンが欲しかったのだが無かったのでこの本に頼った。現代語訳も役に立ったが、池田氏の解説の方が役に立った。

西野広祥/無為自然の哲学 新釈「荘子」/PHP研究所/1992

池田氏の現代語訳が少し硬い感じがしたので、比較するためにこの本を採用。素人でも理解できるわかりやすい訳だった。

法家

法家の『韓非子』以外はほぼ全部浅野氏の本に頼った。

冨谷至/韓非子中公新書/2003

近代西洋の法思想と比べて『韓非子』の法思想の特徴を書いている。

現代中国の法思想は現在でも『韓非子』の影響が少なからず残っていると思われるので、この比較は重要だと思う。たいして現代日本は近代西洋の法思想の影響下にある。

韓非子』以前の思想史と以後の影響が書いてあったのはありがたかったが、思想史では肝心要の法家の先人たちの業績が書かれていなかったのは残念だ。



やっと終わった。
このシリーズは細々と1年間もやってしまった。
内容は十分から程遠いがどこまでやれば十分なのか全くわからないので、これで終わりとする。



*1:唐代末から宋代にかけて編纂された書

*2:2002年の『老子人間学』(プレジデント社)を加筆、再構成したもの

*3:荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの

諸子百家のまとめ③(道家/法家)

今回は道家と法家。まとめはこれで終わる。

道家と「道」

道家とは「道」を重要視する思想。

「道」は道家に限らず古代中国思想における概念の一つであった。たとえば儒家では倫理道徳の規範が「道」と呼ばれた。

道家における「道」は万物を生み出した存在と同時に、万物を制御する存在でもある。物理法則を支配していると同時に人間社会をも支配している。

一神教における造物主(唯一神)に似たイメージでいいと思うが「道」は神格化・人格化されてはいない。

道家の代表的な書物は『老子(=道徳経)』と『荘子』の2つだが、この2つで「道」の意味合いが違う(後述)。

老子

社会における「道」とは、社会を暗黙のうちに制御している慣習・文化のことだ。『老子』はこの「道」に従い、無為・無欲・柔軟・謙虚・控えめに生きていくことで社会の秩序が保たれる、と説く。

老子』の重要なキーワードに「無為」というものがある。これは何もやらないということではなく、「大事」をやらないということだ。非日常的な大きな出来事を起こすと秩序が乱れ、社会の崩壊に繋がりかねないとする。

もしどうしても大事業が必要なのであれば、日常の範囲内で長い日数をかけて「小事」を積み重ねて達成させるべきだ、と説く。

そして『老子』が説く「無為」とはこの「小事」のことだ。

もうひとつ、『老子』を語るときの重要なキーワードとして「無為自然」というものがある。Googleなどで「無為自然」は『老子』で出てくる意味とは違うようだ。

老子』の「無為自然」は政治用語だ。細かいことは記事《道家(10)老子(「無為自然」と政治)》で書いた。ソースは池田智久《『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)》

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

簡単に言えば、「無為自然」は《為政者が「無為」をモットーとして政治を行えば、民は自律的に行動して秩序が保たれる》ほどの意味になる。

老子』は本来は為政者のための指南書なので、この解釈のほうがあっていると思う。

荘子

政治的な『老子』に対して『荘子』は、政治・社会に関係なく専ら個人の生き方に焦点を当てた思想だ。

荘子』における「道」は、道家のそれと同じく《万物の根源であると同時に万物を制御するもの》だが、『荘子』の考えでは《世界あるいは宇宙を制御する「道」の観点に立てば万物の違いなど無きに等しい。人間が「有る・無し」とか「可か不可か」とか区別することは無意味だ》というのだ。

荘子』の中でいちばん重要なキーワードが「万物斉同」だが、これは《「道」の観点に立てば万物の違いなど無きに等しい》から導かれる。

「斉」「同」ともに「等しい」という意味で、「万物斉同」は《万物は等しい》《万物の違いなど無きに等しい》ということだ。どういうことかというと、「道」の観点からすれば....

  • 万物は差異が無い
  • 差異が無いので区別がない
  • 区別が無いので万物は一つである。

ということで、《万物は等しい》とは《万物は一つ》であるということだ。

これでも何が言いたいのかわからないだろう。

長い文句になるが『荘子』が言いたいところは以下のようなものだ。

人間は物事の差異をはっきりと区別して秩序を保とうとしたり、差異を分析して対処しようとするが、本質的に同質のものを区別しても無意味である。そんなまどろっこしいことをしないで、物事をあるがままの状態で受け入れて、対処すべき問題も無理のない仕方で対処する。これが『荘子』における「無為自然」で、一般的にいわれる「無為自然」の意味は『老子』のそれではなく、『荘子』のものだった。ただし「道」を体得した者は自分が「無為自然」で生きていることも意識しなくなる。

荘子』が目指す人間の生き方が「道」を体得して「無為自然」の状態で生きることだ。

道家道教の関係

ちなみに、道教というものがあるが、道家道教の関係はあまり無い。道教は歴史的に言えば雑多な民間宗教だったのであり、道家はその一部として取り入れられて入るが、雑多な要素の中の一つでしかない。

法家

ここでは『韓非子』だけを取り上げる。『韓非子』は法家の集大成と言われている。

人は利で動く

韓非子』の思想の中心にある考えは「人は利で動く」。この考えは一貫していて親子関係でさえ利益と打算で成り立っていると考えている。信頼や愛情というようなものは否定されている。

人間不信

《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》(備内篇)という言葉は有名で、『韓非子』の人間不信を表している。

君臣関係は利益と打算によって成り立っているので、臣下に君主よりも大きな利益を与えれば用意に君主を裏切る。これが『韓非子』が言いたいこと。

では、臣下を従わせるにはどうしたらいいか?

君主論あるいは帝王学

根本的なやり方はアメとムチを使い分けること。以下は二柄篇より。

名君は二つの柄(え)を握るだけで、臣下を統率する。二つの柄とは刑・徳のことである。刑・徳とは何か。罰を加えることを「刑」といい、賞を与えることを「徳」という。臣下というものは罰をおそれ賞をよろこぶ。

出典:西野広祥・市川宏 訳/中国の思想 [I] 韓非子徳間書店/p28

これを踏まえた上で、君主の臣下操作術というものがある。

一つは形名参同術。これは、あらかじめ法律を公布し(成分法)、賞罰や昇進の基準を公表して、これに臣下を従わせる。

もう一つは、「七術」というもの。これは内儲説上篇にある。

  1. 多くの手がかりを集めてそれを突き合わせて総合的、実証的に判断する。
  2. 威厳をもって、必罰をおこなう。
  3. 能力を発揮させるために、然るべき者に恩賞を与える。
  4. 個別に分離独立して意見を聴取し、実績に従って結果責任を問う。
  5. 不可解な命令や態度をわざとして、臣下を疑心暗鬼にさせ、また臣下をそれで試す。
  6. 知らないふりをして、質問して、どう応えるのか観察する。
  7. 意図することの逆のことを言ったりしたりして、相手の反応を見る。

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p148

前者は公表するもの、後者は手の内にしまっておくもの。