歴史の世界

中国文明:西周王朝⑥ 後半期Ⅰ その1 貴族制社会の出現/冊命儀礼

この記事から後半に入る。引き続き佐藤信弥『周』(中公新書/2016)に頼って書いていく。

統治体制の大転換/貴族制社会の出現

前回書いたように、昭王の南征失敗を機に、昭王の次代の穆王は領土拡張政策は放棄した。

高島敏夫は、……穆王はそれまで周王が有していた軍事王としての性質を放棄し、……祭祀儀礼をさかんに催すことで祭祀王としての性格を強め、宗教的な権威の強化によって統治体制の立て直しをはかったとする。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p79

別の引用。

多くの研究者が指摘するように、西周後半期に入ると、それまでの周公・召公ら特定の重臣が政務や指導する体制にかわり、邦君や諸官の長が執政団を形成し、集団で指導する体制となる。

出典:佐藤氏/p97

  • 邦君とは王畿に所領を持つ諸侯のこと。

前半期は、王族と、呂氏などの限られた重臣で政務を仕切っていた。これが後半期に入ると、邦君や諸官の長にそれらの権限を移譲した。執政団とは つまりは官僚組織のことだ。

執政団は王畿の諸侯(邦君)から採用されたようだが、若い頃から一定のキャリアを積む必要があったと推測される(p91-94、p104-106)。

これら執政団の中に多数の「姓」が見られるようになるのは、前半期とは対象的だ。多数の氏族が政権に関わるようになっていった。ただし、姓は違えど祖先は周公だということもあるらしい(つまり分家)。

執政団に入れる資格を持つ邦君たちが おそらく貴族と呼ばれる人たちだ。こうして支配体制は「王族経営」から「貴族制」へと転換された。貴族制社会の出現だ*1

ということで「貴族制社会」は おそらく王畿で出現し、地方へ広まった(つまり地方の諸侯国がそれを真似した)。

冊命儀礼

「冊命儀礼(さくめいぎれい)」は 後半期にとって重要な事柄のようだ。

「冊命儀礼」をごく簡単に説明すると「王が臣下に職務を任命する儀礼」なのだが、これがものすごく仰々しい。任命する場所は過去の周王を祀る廟宮を使うというのも手が込んでいる。

まず王が儀礼の行われる宮廟の一室に移動し、ついで介添え役となる右者(ゆうしゃ)が任命の対象となる受命者を所定の位置に着かせる。そして王の書記官にあたる史官が任命の次第を記した冊書(竹簡に書かれた書)を王に手渡し、更に王が別の史官に任命書を宣読させる。[中略] そして官職や職務の任命と、その官職・職務の象徴となる物品の賜与が行われる。最後に受命者が王に拝礼を行い、任命書を受け取って退出し、その際に、おそらく前回の任命で授けられたであろう玉器の返納が行われる。

出典:佐藤氏/p86-87(一部改変)

この儀礼自体とともに重要なのが、引用にもあるように、「官職や職務の任命と、その官職・職務の象徴となる物品の賜与」だ。任命される側にとっては儀礼よりもこちらのほうが重要だ。

以下の引用では、佐藤氏が吉本道雅氏の検討について紹介している。

職務については、……王畿や都邑の統治、あるいは周王の財産管理に関するものが中心で、冊命儀礼とは、周王が臣下に王朝の統治に関わる権限や周王室の権益を細切れに分与・委託することを指すと言い換えることもできる。

賜与品にも変化があり、「会同型儀礼」[前半期の王主催の儀礼―引用者]ではしばしば参加者への賜与品として用いられた宝貝などにかわり、<頌鼎>[という名の青銅器の銘文]に見える「刺繍で縁を飾った赤黒色の衣・赤色の蔽膝(へいしつ)*2・朱色の佩玉(はいぎょく)*3・鑾鈴(らんれい)*4付きの旗・銅飾を施した轡」のように、官服や車馬具が受命者への賜与品として用いられるようになる。これらは受命者の職務や身分の象徴となるもので、身分や職務内容によって賜与される品目や組み合わせが異なったのではないかと考えられている。[中略]

宝貝などは、……儀礼の参加記念品としての性質があり、「会同型儀礼」の参加者と主催者である周王とのつながりを示すものでもあった。しかし南征の挫折以後、結局周王の宗教的な権威も低下を避けられず、宝貝などよりも、王朝の統治に関わる権限のような、もっと実利的なものを与えなければ、臣下の求心力を保つことが難しくなったのだろう。

出典:佐藤氏/p89-90

周王が「武闘派」だった時代は、宝貝を持っている者はそれを他人に見せて「俺は親分とつながりがあるんだぜ」と スゴむことができたが、武闘派ではない周王ではそれは叶わない。

代わりに、王族が持っていた権益を「細切れに」分け与えることによってなんとか平和を保つことができた。そして権益を分与された官僚たちは身分・職位を服などで表すことによって、周囲から一目で敬意を集めることができ、それに伴って賄賂などの諸々のメリットがついてくるだろう。

さらに、佐藤氏によれば、おそらく周王は王畿内の土地を細分して貴族に領地として与えていたとのことだ(p100)。前半期は征服した土地を与えることができたが、後半期は限られたパイの中から子分どもに所領を与えなければならなくなった。

王としては「俺の分のパイをくれてやるんだから、有り難く思え」なんて思っていたのかもしれないが、それを言ったら返って有り難く思われないので、冊命儀礼のような仰々しいことを行うことで子分たちに有難がらせようとしたのだろう。

冊命儀礼とはそんなものだった。しかし軍事力が全く無くなった東周でさえ あれだけ存続したのだから、「祭祀王」への専念は間違いではなかった、と言えるかもしれない。



*1:「貴族制社会の出現」は、落合淳思『殷』(中公新書/2015/p237)に書いてあった

*2:膝をおおうもの。ひざかけ、まえかけの類。蔽膝(へいしつ)とは - 精選版 日本国語大辞典/コトバンク

*3:古代中国で、天子・貴人が腰に帯びた軟玉製の装身具。佩玉(はいぎょく)とは - デジタル大辞泉/小学館/コトバンク

*4:鈴の類。"鑾鈴" - Google 検索 参照。