歴史の世界

諸子百家のまとめ②(墨家/兵家)

諸子百家のまとめの続き。

今回は墨家と兵家を書く。

このブログでは以前に、兵家について孫子呉子を扱ったが、ここでは呉子に触れない。

墨家

墨家は秦代に絶滅してしまって(後述)現代にほどんど影響を及ぼさない思想であるが、戦国時代は全国に影響を及ぼすほど流行った *1

この思想における重要なキーワードは「兼愛」と「非攻」。

兼愛/兼愛交利

「兼愛」は儒家の「仁(仁愛)」と よく比較される。

「兼愛」は「自己を愛するように他者を愛する」「人を平等に愛すること」で、「仁」と近い意味なのだが、「仁」は自分に近しい人をより親しくして遠縁の人にはそれ相応の愛情で接するという性格があるのに対し、「兼愛」は「親疎の区別なく愛すること」を言う。墨家は「兼愛」の思想を掲げて儒家の「仁」を批判したという。

「兼愛」は自己を愛するように他者を愛するのだから、他者の不幸は自分の不幸だということになる。その結果として、「愛しあうことによって利益を与えあう」という互助の実践が行われることになる。これが「兼愛交利」。

非攻

《人一人を殺せば不義(正義に反する)といい、死刑になる。……ところが、(戦争で)大いに不義を働いて他国を攻めると、それを非とすることを知らず、正義と誉める。それが正義に反することを知らないのだ》(『墨子非攻篇)

戦国時代も中小国家が大国に併呑されるような時期に、墨家の集団は上のような思想を掲げて大国に徹底抗戦した。墨家侵略戦争を仕掛けられた小国に赴いて小国の臣民と共に侵略国と戦った。

墨家集団はそのために攻城に対する守城戦術を蓄積した。これが『墨子』兵技巧諸篇である。

ちなみに、「墨守」という言葉があるが(自己の習慣や主張などを、かたく守って変えないこと) 、 これは墨家集団が宋の城を楚(そ)の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」公輸の故事から生まれた言葉だ。 *2

墨家集団の滅亡

戦国時代に大流行した墨家だったが、秦代には絶滅してしまった。秦代は焚書坑儒があったことは有名だが、前漢に入って儒家が復活したのと対象的に墨家は復活しなかった。

滅亡の顛末は史料が少なく分かっていないようだが、墨家集団は大国の侵略戦争に対し徹底抗戦してきただけに、秦帝国が潰したと考えるのが妥当だろう。

前漢以降も復活できなかった。墨家の歴史、大国に徹底抗戦してきた歴史を振り返れば、帝国側が反帝国思想になり得るこの思想の復活を許すとは思えない。

兵家(孫子

兵家といえば『孫子』の他に『呉子』が有名だがここでは『孫子』のみ言及する。

孫子』の有名かつ重要なキーワードは「兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」「兵は詭道なり」「彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず」「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」の4つ。

「兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」

これは『孫子』の冒頭にある言葉(計篇)。《戦争は国家の大事(重要な事)である。人民の死と生が決められる場、国家の存亡の分かれ道であるから、深く熟考しなければならない。》 *3

君主や重臣に感情的に戦争を発動することを戒めている。

孫子』は一貫して戦争をすることに慎重な性格を示している。

兵は詭道なり

これは計篇(始計篇)の言葉。《戦争とは敵を騙す行為である》。

自軍を強くしたり大軍で敵を圧倒するよりも、敵を罠にハメて弱体化させてこちらが優位に立つ方がはるかに安くつく、だから詭道に力を注ぐべきだ、と説いている。つまり『孫子』は諜報活動を特に重要視している。

具体的な例はこの言葉の後ろに書いてある。以下に幾つか示す。

  • 有能であっても無能に見せかける。
  • 兵を用いても用いていないように見せかける。
  • 利益を示して誘導する。
  • 怒っている相手は混乱させる。
  • 自らを卑屈にして相手を驕りたかぶらせ(調子に乗らせて油断させ)る。
  • 親しい者(同盟している国)同士は分裂させる。 *4

このようにして敵をコントロールできるようになれば戦わずして勝つことができる。

「彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず」

この言葉は謀攻篇にあるが、これの前に5つの勝利の要因が書いてある。

  • 戦うべき時と戦ってはならない時とを知っている。
  • 大軍と少ない軍隊の用兵を弁えている。
  • 上下の人々の心・目的が合っている。
  • 自分が十分に準備して、準備していない敵と戦う。
  • 将軍が有能であり、君主が無闇に干渉しない。 *5

彼我の状況の把握・分析の重要性を説く。

一歩進んで「兵は詭道なり」と組み合わせると、自陣を万全の状態にして、敵を工作(詭道)によって崩す。

形篇には「誰も勝つことができない形勢を整え、どんな敵でも打ち勝てるような形成になるのを待った」とある。 *6

そして『孫子』の目指す戦闘のイメージは以下の2つ(いずれも形篇)

《勝兵は先ず勝ちて而(しか)る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む(勝者は勝利を確固たるものにしてから戦闘を起こし、敗者は戦闘を開始してから戦術を考える)》

《善く戦う者の勝つや、智名もなく、勇功もなし》

戦闘を開始する時点では既に勝負は決していて、智名と勇功の出番がない。

「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」

謀攻篇の言葉。戦争の最高の勝利は「戦わずした勝つこと」。

この言葉の前に《戦争の法(原則)は、自国の損失を出さないことが上策》とある。戦争は何かしらの利益を得るために行われるのだが、最大の利益を得るための方法が「戦わずした勝つこと」ということになる。

これを実現する方法は上述の「詭道」だ。

孫子』には用兵(戦術)についても書いてあるが、そんなことよりも戦争を決断する前の情報収集や諜報活動、分析などの方がはるかに重要であることを説いている。

そして、「戦わずした勝つこと」が理想だが、自陣営が何の準備もしなくていいという話ではない。「彼を知り己を知れば~」にあるように、自陣営の準備を充実させ気を一つにするようにしておかなければ、敵陣営の心を折ることは難しくなる。



*1:《「楊朱・墨翟の言は、天下に盈(み)つ」(『孟子』滕文公下篇)、「孔・墨の弟子徒属は、天下に充満す」(『呂氏春秋』有度篇)、「世の顕学は儒・墨なり」『韓非子』顕学篇)》浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p132

*2:小学館デジタル大辞泉/墨守(ボクシュ)とは - コトバンク

*3:Es Discovery/『孫子 第一 計篇』の現代語訳:1

*4:Es Discovery/『孫子 第一 計篇』の現代語訳:2

*5:Es Discovery/『孫子 第三 謀攻篇』の現代語訳:2

*6:《先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ》Es Discovery/『孫子 第四 形篇』の現代語訳:1

諸子百家のまとめ①(諸子百家について/儒家)

これまで、諸子百家のうち、儒家墨家、兵家、道家、法家について書いてきた。今回からそのまとめを書く。

この記事では諸子百家儒家について重要なキーワードを紹介する。

諸子百家について

諸子百家は「十家」

時代背景のことなどは、以前の記事 《春秋戦国:戦国時代⑨ 諸子百家 その1 諸子百家とは?》 で書いた。

諸子百家は100の思想があるわけではない。百というのは多いという意味だ。千変万化や白髪三千丈と同じ。

実際の思想の数は、後世の分類によって数は変わるが、10個に分けられるのが一般的だ。

この基準となる文献は中国王朝の正史の一つ『漢書』にある芸文志。ここに古代の思想の文献の目録が分類されて収められている。

この分類によれば、戦国時代の思想は、①儒家墨家道家④法家⑤陰陽家⑥名家⑦縦横家⑧雑家⑨農家⑩小説家に分けられる。ただし、最後の小説とはちっぽけな話という意味で、とても思想と呼べる代物ではないということでこれを除外される(これを「九流」と呼ぶ)。これに兵家を加えたのが「十家」あるいは「十流」だ。

斉の臨淄:諸子百家の中心地

戦国時代の斉の威王(前4世紀)は国都である臨淄に各地から多くの学者を集めた。ここで多くの流派の学者たちが論争しながら思想を交流させた(百家争鳴)。

学者たちが臨淄の城門のひとつである「稷門」の近くに住んだことから彼らは「稷下の学士」と呼ばれた。

ただし、この頃は書物が竹簡や絹布などを使って流通していたので各地にいた学者たちは流行を知ることができた。

現在、中国の古代の複数の墓から竹簡や絹布などが発見され、諸子百家の古典の研究に使われている。

儒家

始祖は孔子孔子以外の最重要人物は孟子荀子

孔子は礼学の先生

孔子が生きた春秋末は世の中の秩序が乱れていた。秩序を回復するためには周王朝の礼制(「礼」)を復活させるべきだと主張し、礼学の先生となって弟子を集めた。これが儒家儒教の始まり。

以下に孔子の思想のキーワードを紹介してく。「孝悌」「仁」「礼」。

「孝悌」

孔子の思想で超重要なキーワードは「礼」と「仁」だが、これを知るためにはまず「孝悌」を知らなければならない。

論語』では家族愛を表す言葉として「孝弟」を使っているこれは孝悌のことで悌は「兄を慕ってよく従う」という意味。孝は親孝行の意味の他に祖先をよく祀ることも含まれる。祖先への祭祀が重要なことは 「祖先崇拝#中国の祖先崇拝 - Wikipedia」 に書いてあるが、簡単に言えば、ちゃんと祭祀を行わないと家族に災いが起こると信じられていたからだ。

弟は兄に、子は父に、そして家長である親は祖先に仕える(つくす)というのが孔子の思想が示す家族愛であり、これが思想の根本である。 *1

「仁」

論語』学而篇に「孝弟(孝悌)なるものは、それ仁の本なるか」とある(ただしこれは孔子の直弟子の有子の言葉)。「仁」の根本は「孝悌」にある。

「仁」は思いやり・慈しみ・愛情などと説明されるが、重要なことは「家族・宗族以外の他人を慈しむ(愛情を向ける)ということ」。

法律が整備されていない古代においては、宗族(≒大家族、村落共同体)の外の人間は「人間ではなかった」。例えば、宗族外の他人から物を盗んでも宗族の利益になればその盗人は宗族に利益をもたらした善人となる。

そういう世の中で孔子が「他人を愛せよ」と説いたのは画期的なことだった。

「礼」

孔子の説く「礼」は上述した祭祀儀礼を意味するだけでなく、普段の生活の中の振る舞い(マナーも含む)や規範も含まれる。つまり「礼」の意味の中には慣習や文化も含まれる。

普段の生活の中の振る舞いの「礼」は、簡単に言えば、「孝悌」や「仁」を形として表現したものだ。祭祀を行うことで祖先を敬っていることを表現するのと同様に、孝悌を表現する振る舞いを「礼」と言う。

このような「礼」の先生として孔子門徒を募り、そこから儒家が生まれた。

『春秋』と『論語

孔子は『春秋』を著したとされる。『論語』は弟子筋が孔子の思想を残すために書いたもの。

孟子

孟子に関する重要なキーワードはたくさんあるが、ここでは「仁義」「性善説」「四端説」「王道・覇道」「天命」「易姓革命」について話す。

「仁義」

※これに関しては記事 《儒家(7)孟子(仁義について) - 歴史の世界を綴る》 を読んでほしい。

「仁」は孔子の上述した「思いやり、慈しみ」「他人を愛する」。孟子はこれと一緒に「義」を重要視した。

「義」とは、簡単に言えば「道義に反することを許さない気構え」くらいの意味。例えば、人助けをして表彰された場合の常套句に「人として当然のことをしたまでです」というものがあるが、おそらくこれが義だ(と個人的に思っている)。

そして「仁義」だが、孟子の説くそれは《君主は臣民を思いやり(仁)、臣民は君主の恩義に報いる》という君臣関係または君民関係を表す。これが王道政治の根本だ

「王道・覇道」

王道(政治)のことは上で少し触れた。

君主が民に与える「仁」というのは、過酷な賦役(地代と労働)を負わせないことや災害時に施しを与える、などのこと。仁徳天皇の「民のかまど」は王道政治と言えるだろう。まあ いくら君主が民を大事にしていると思ってもその気持ちは届かないわけで、物を与えない限りは感謝されないのだ。これは臣下にとっても同じ。

さて「覇道」。

孟子は諸侯に拝謁した時に王道政治を訴え、武力による政治(または他国への侵略)を「覇道」として批判した。簡単に言えばこれだけ。

易姓革命」「天命」

「天命」とは、天が人に与えた命令だが、中国思想では「天が君主に与えた命令」という意味になる。

易姓革命」の易姓は「姓が易(か)わる」、革命「天命を革(あらた)める」という意味。別の言葉で言えば王朝交代だが、易姓革命は武力革命(放伐)による王朝交代を指し、合意の上で王朝交代することを禅譲という(ただし禅譲は、魏の曹丕後漢献帝から禅譲を受けたように、事実上は簒奪である)。

孟子によると、殷と周の間の武力革命は殷が天命を失い周が天命を授かった結果だ、ということになる。

性善説、四端説

性善説とは周知の通り、人間には生まれた時にはすでに(先天的に)善の心が備わっているという説。

この説の論拠になるのが四端説。四端とは以下の通り。

  • 惻隠(そくいん)-- 他者を見ていたたまれなく思う心
  • 羞悪(しゅうお)または 廉恥(れんち)-- 不正や悪を憎む心、恥を知る心
  • 辞譲(じじょう)-- 譲ってへりくだる心
  • 是非(ぜひ)-- 正しいこととまちがっていることを判断する能力

この4つの感情を努力して拡充することによって「四徳」すなわち仁義礼智を身につけることができる、と孟子は説く。

「徳」とは本来の意味は「他人を惹きつけて従わせる力」だが、儒家のそれは倫理道徳上の修養によって獲得される。「四端」を基にして修養すれば「四徳」となる。

さて、仁・義・礼については上述したが、智はまだ触れていない。

「智」とは「知」。孟子において知るべきこととは《仁義を理解して実践すること》だ *2

荀子

荀子の重要なキーワードは「性悪説」「礼治主義」「天人の分」。

性悪説

これは性善説と対となるもので、人間には生まれた時にはすでに(先天的に)「悪」の心が備わっているという説。

ただし注意しなければならないのは、「悪」が一般的な意味とは違う点だ。

荀子の言う「悪」とは「人の性は、生まれながらにして利を好むこと有り」(『荀子』性悪篇)、つまり欲があること。この先天的な欲が将来に悪になりうるというのだ。孟子の四端→四徳と対応する考え方だ。

荀子は功利的な人の性(つまり悪)を矯正せずに放置しておけば、他人に危害を加えることとなる、だから教育が必要だ、というのが根本的な考えだ。

上にあるように、荀子は教育の必要性を説いている。孟子も教育(修養)の必要性を強調しているが、スタート地点が性善説性悪説の違いがある。

礼治主義

上で荀子が教育の必要性を説いているということを示した。それでは教育の中身とはなにか?

それが「礼」。上にも書いたように「礼」という言葉には祭祀儀礼と立ち振舞い(マナーも含む)と規範が含まれている。

さらに荀子は《礼は法の大分なり》(勧学篇)と言っている。つまり法律は「礼」すなわち規範の中から求めるべきだと言っているわけだ。

個人レベルでは立ち振舞を、政治レベルでは立法のために「礼」を学ぶ必要がある。

為政者らは「礼」によって臣民を教育することによって統治すべきだ、というのが礼治主義の主張だ。

「天人の分」

殷代は亀の甲羅を使った占いが政治に使われていた。また古代中国を通して占星術が科学のように扱われていた。さらには古代中国の人々は天(自然現象)と人の行いに相関関係があると信じていた。

荀子はこのようなオカルトを否定した。「天人の分」とは天と人の相関関係など全く無い、全く別だ、と言う意味。

そんなオカルトに頼っていないで、天のことは天に任せて、人は自分たちの「分」(本分)を行うことだ、ということ。



*1:中国の共同体の基本は宗族であり、宗族は父系血縁集団

*2:孟子曰、仁之實、事親是也。義之實、從兄是也。智之實、知斯二者弗去是也。(『孟子』離婁章句上)
(要約:仁義の根本は孝悌で、智の根本は仁義孝悌を知ってその道を外れないことだ。

法家(11)韓非子(『韓非子』とその後の中国史)

秦帝国

韓非の死後、秦の国王嬴政と丞相李斯が中華統一を果たす。秦帝国は李斯の指揮の下で法家の政治をもって全国を統治した。

しかし始皇帝を継いだ二世皇帝 *1 胡亥は凡愚な皇帝で『韓非子』の法術を使いこなす能力は無く、暗君でも国政を維持できるほどの国家体制は安定していなかった。始皇帝・二世皇帝の寵臣であった趙高が全権力を握り李斯をも死に追いやった。

始皇帝が死んだ翌年に早くも農民の反乱が起こる(陳勝呉広の乱)。彼らは北方防備の為に徴発された大雨のために指定の場所に到着することができない事態となった。遅刻すればいかなる理由があっても斬首という状況で、農民たちは反乱に踏み切った。

この乱は鎮圧されたものの、反乱は全土に広がって一気に滅亡してしまった。

前漢

秦帝国に代わって漢帝国を築いた劉邦は苛烈な秦の法を止めて簡略な法律を作ると宣言した(法三章)ことは有名だ。

しかし実際は秦の法律のほとんどを踏襲して、これに加減したというのが実態だ *2

ここでは、前漢の安定期の最後の皇帝宣帝(第9代)と下り始めの皇帝元帝のエピソードを紹介しよう。『漢書元帝紀の冒頭から。

元帝という人物は、いたって柔和な、文人皇帝であった。儒学に造詣が深く、彼自身は徳治主義を理想としていたのだが、例に漏れず、慈愛と仁徳は為政者に必要な果敢さと決断力をそぎ、元帝は為政者としては劣等であった。

「陛下は、刑罰を用いること厳しすぎはしませんか。儒者の意見ももっとお聞きになるべきです」

当時皇太子であった元帝のこの言葉を聞いて、宣帝は唖然とせざるをえなかった。

「わが漢帝国には政治の方針があるのだ、覇道と王道を併存させるという。徳だけで事が済むか。ヘボ学者は時代の趨勢が分からず、古いことは良いことだと言って、理想と現実の区別がつかず、何が重要なのかまったく分かっていない。そんな奴らに何ができるのか。……わが国家をダメにするのは、太子かもしれぬ」

はたして、元帝の優柔不断さは皇后一族の権力壟断を招き、その中からお羽毛がのし上がってくるのである。

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p181

覇道と王道とはすなわち法治と徳治、法家思想と儒家思想のことで、徳治主義を全面に出して、実際は法家主義で国家を統治するというのが宣帝がいうところの政治方針だ。

これが中国歴代王朝の政治方針の基本となった。

受け継がれる「見せしめ刑」の伝統

韓非子』の刑罰の目的は、威嚇・予防によって犯罪抑制の効果を意図するものだ。重罰の刑の執行をもって人々の犯罪を抑止しようとするもの、つまりは見せしめ刑である。

いったい厳刑は、誰しもが畏れるもの、重罰は誰しもが嫌がるもの。したがって、聖人は畏れるものを公布して、邪悪を防ぎ、嫌がるものを設定して、悪事を予防した。だから、国が安定して暴乱が起こらないのだ。(姦劫弑臣)(冨谷氏/p113)

この刑罰に対する考え方は中国史を通して伝統となっている。

以下は唐代と明代のもの。

凡愚は情欲のままに行動し、見識が低く、罪を犯してしまう。これまで、法制度がなかったことなどなく、刑をもって刑を止め、殺をもって殺を止めるといわれてきたのである。国にあって刑罰は緩めてはならず、家庭では笞(むち)を廃(や)めてはいけないのだ。(『唐律疏義』所引「唐律釈文」)(p189)

人間というものは、欲望を捨て去ることはできず、欲望によって情が増大し、欺瞞が増幅し、弱肉強食の状態となる。だから、聖人は法律を制定し、刑法を定めて犯罪を予防し、悪人を畏れさせ善人に安寧をもたらそうとしたのである。(洪武七年〈1374〉大明律を進める表)(同ページ)

そして、このブログで何度も紹介しているが、 宮脇淳子氏は中国の法律が見せしめ刑と言っている。 (youtube 【9月8日配信】歴史人物伝「●●もビックリの中国論?!大隈重信を語る」倉山満 宮脇淳子【チャンネルくらら】 )

また、「中華人民共和国における死刑 - Wikipedia」を読めば、現代中国でも『韓非子』の考え方が受け継がれていると考えられるだろう。



*1:「二世皇帝」が皇帝としての名

*2:このことは記事「前漢・高祖劉邦④:法三章/蕭何の九章律と秦律」で書いた。

法家(10)韓非子(「一個人」を考慮しない思想)

韓非子』は、神秘主義・理想主義を排除して、現実主義の立場を採った。この時、『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を採用した結果、人間の一人ひとりの理性や能力に期待することを頭の中から排除した。

韓非子』は一貫して君主の立場に立って考え、臣下・庶民は集団としてしか扱わなかった。

  *   *   *

この件についてのテキストは冨谷至『韓非子 ── 不信と打算の現実主義』(中公新書/2003)。

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

「一個人」を考慮しない理由

世の人間のうちですぐれた資質を有する人物、特異な才能をもつ者は少数であり、数にして絶対多数を占める世の人間は、その資質においては凡庸な輩である。人間観を形成し、何にもまして人間を対象とする政治を考えるうえで、視点を置かねばならないのは凡庸な資質を有する者である。

出典:冨谷氏/p156

韓非子』の絶対多数の「凡庸な輩」は「理性的判断をおこなわず、本能的に功利へと、打算へと向かう」と冨谷氏は書いている。

前回に書いたことだが、『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を持っている。儒家が根本倫理としている親子・家族の関係でさえ、『韓非子』は、利益と打算で成り立っている、と言い放つ。

冨谷氏が「理性的判断」と「本能的功利」を対置して書いているところに注意。冨谷氏の説明において、「理性」という言葉は重要なキーワード。先に進む。

東洋と西洋の法的思考の違い

韓非子』はよく『君主論』のマキャベリと比較されるが、冨谷氏の本では、マキャベリだけでなく『リヴァイアサン』のホッブズと「罪刑法定主義」を打ち出したアンゼルム・フォイエルバッハとも対比させている。

そして彼らとの比較によって冨谷氏が言いたいことは、法を語る時に「統治の対象たる人間を集団として捉え、個人、個性にはきわめて冷淡である」こと、言い換えれば、一個人の理性的判断のことを考慮していないこと。(p167)

このことが「東洋と西洋の法的思考」、の根本的な違いとなっている(p166)。これは、より正しく言えば現代中国と現代西欧の法的思考の違いである。日本は現代西欧の法的思考を受容して現在に至っているので、現代中国との法的思考とは全く違う。

そういうことで、この記事で扱う問題は、現代の世界規模での問題に関係している。

マキャベリとの比較

君主論』からの引用。

まずは共通点から。

人間というものは、一般に恩知らずで、空惚(そらとぼ)けたり隠し立てをしたり、危険があればさっさと逃げ出し、設けることにかけては貪欲であるから、彼らに恩恵を施しているあいだはひとり残らずあなたの側へついてくる……いざという時には当てにならないのだから。そして人間というものは、恐ろしい相手よりも、慕わしい相手のほうが、危害を加えやすいのだから。……邪(よこしま)な存在である人間は、自分の利害に反すればいつでも、これ(恩愛)を断ち切ってしまうが、恐怖のほうは、……付きまとって離れない処罰の恐ろしさによって、つなぎ止められているから。(第17章)(p159-160)

「人は利で動く」という点は共通している。

次に相違点。

外敵よりも民衆のほうを恐れる君主は、城砦を築くべきだが、民衆よりも外敵のほうを恐れる君主は、これ無しで済ませるべきだ。……最良の城砦があるとすれば、民衆に憎まれないことだ。(第20章)

   *

どのようにすれば君主が側近を見分けられるのか。それには決して過(あやま)たない方法がある。すなわち、あなたから見て、側近があなたのことよりも自分のことのほうを考えているときには、またすべての行動においてひたすら自分の利益を追求していることが明らかなときには、そういう輩は忠実に保たせるためには、側近のことを思いやり、その名誉を称え、彼を富ませることによって、自分への恩義を深めさせ、数々の地位と任務とに彼を与(あずか)らせて、君主がいなければ自分が存在し得ないことを、……配慮しなければならない。互いにこのような関係になったとき、一方が他方を信頼できるようになる。(第22章)(p161)

上の文章を引用した後に冨谷氏は両者の相違を《人間の中に存在する「理性」を認めるかどうかにかかっているのではないだろうか》と書いている。または『君主論』は《他者が理性にもとづいて判断し、行動するものと考え、それにより導き出される結果を期待》して、『韓非子』はその可能性を排除する。(p161-162)

上の引用では『君主論』は民衆や臣下を信頼することが可能であることを示している。その一方で『韓非子』はそのような可能性を端(はな)から考慮に入れていない。『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を徹底している。

ホッブズとの比較

リヴァイアサン』と『韓非子』の共通点。

人間は生まれつき与えられた同じ条件下で、等しく自己の保全、利己的快楽を求める。不信・競争心そして虚栄心、それが人間の本性である。この本性に従って人は力と奸計によって他者を支配しようとし、そこに戦争状態が生まれる。いわゆる「万人の万人に対する戦い」にほかならない。(水田洋訳『リヴァイアサン』第13章、岩波文庫)(p163)

「人は利で動く」という点では同意見。

しかし、ホッブズ自然法自然権を述べているところに決定的な相違点がある。

自然権とは「各人が彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力をもちうるという、各人に賦与されれている自由である。彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段と思われるあらゆることを、おこなう自由である」(『リヴァイアサン』第14章)(p163)。

また自然法とは「人間の本性の中には、秩序ある状態への志向が備わっており、それに従って一定の秩序が形成される規範」と定義づけられている。(p108)

リヴァイアサン』では「万人の万人に対する戦い」から脱却して秩序ある社会を作るために、コモンウェルス(国家)の設立が必要だ、そして国家との社会契約により自然権を放棄して国家主権者に服従しなければならない、と主張する。

これに対して、『韓非子』はそもそも一個人の自然権など全く考えていない。『韓非子』は一個人の理性、さらに言えば一個人を考慮することすらしていない。

韓非子』の主張する統治方法の根底にある考えは以下のようなものだ。すなわち、人間(集団)は自己の利益でしか動かず、彼らを統治するには威嚇を用いて一方的に統制するしか功を奏さない。(p165)

そして、一方的な統治は当然のことながら独裁体制となる。

罪刑法定主義フォイエルバッハとの比較

罪刑法定主義とは《いかなる行為が犯罪とされ,これに対していかなる刑罰が科せられるかが,あらかじめ法律によって定められていなければならないという近代刑法の原則(法律なければ刑罰なし)》 *1

罪刑法定主義と『韓非子』の共通点としては法律の明文化、罰則規定を持つ成文法が挙げられる。

しかし、罪刑法定主義は個人と国家(庶民と為政者)の契約(社会契約)の下の法である点で『韓非子』と異なる。

さらに、罪刑法定主義を確立したとされるアンゼルム・フォイエルバッハとも考えが異なる。

罪刑法定主義の論拠となるフォイエルバッハの心理強制説について冨谷氏は以下のように簡潔に説明する。

犯罪によって得られる利益と、それに対して科せられる刑罰の不利益を考察して、後者を前者よりも少し大きくして、犯罪と刑罰を法典に規定しておけば心理的に抑制がきき、一般の予防が成就される。(p119)

罪刑法定主義と『韓非子』の違いは、前者が法の条文で威嚇して犯罪を予防しようとするのに対し、後者は刑罰の執行を庶民に見せることによって威嚇して予防しようとする点にある。

言い換えれば、前者が庶民の理性的判断(心理的抑制)を前提としているのに対し、後者は理性ではなく本能的功利的判断(人は利で動く)を前提としている。(p119-120)

まとめ

以上のように、法・政治思想を語る時に、近代西欧が個人の権利を配慮する一方で、『韓非子』はそれらを全く考慮しないところに決定的な違いがある。

現代日本は近代西欧の価値観を共有する。その一方で、現代中国は『韓非子』の法思想を受け継いでいると思われる。現代中国が独裁体制を堅持できているのは『韓非子』の思想がいくらか貢献しているのかもしれない。


関連事項

以下は『韓非子』とは直接関係ない話。

現代中国の法と体制に関する話。

現代中国の法の運用は今でも見せしめ刑の様相が根深いそうだ *2。現代でも『韓非子』の法思想が続いていると言っていいかもしれない。

宮脇淳子氏によれば中国の法律が見せしめ刑であるのは中国の人口が多すぎるせいだと説明している。 *3

また、「アジア的専制と生態史観--もぎせかチャンネル」で、梅棹忠夫『文明の生態史観』の説明によれば、遊牧民(モンゴル人)に支配されたユーラシア(ロシア・中国など)の社会システムは独裁体制で、その端にある西欧・日本はパブリックまたは「和」を尊重し、これを基にして民主体制を敷いている。このことは、地政学ランドパワー・シーパワーと話がつながっている。

国史において、人口増加や遊牧民支配は『韓非子』が編纂された後の時代に起こった出来事なので、『韓非子』が中国の体制・法体系を作った原因だ、とは言えない。

むしろ、人口増加・遊牧民支配の結果 出来上がった中国社会を統治するために『韓非子』が採用された、と言ったほうが辻褄が合うだろう。



法家(9)韓非子(『韓非子』の人間不信について)

韓非子』の人間不信については《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》(備内篇)の言葉を引用して説明を済ませることもできるが、この記事ではもう少しだけ深堀りして見ようと思う。

韓非子』はどうして「人間不信」に至ったのか?

この件についてのテキストは冨谷至『韓非子 ── 不信と打算の現実主義』(中公新書/2003)。

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

副題に「不信」とあるように、人間不信のワードはこの本のテーマの一つだ。

《信なくば立たず》 ── 儒家の主張

《人を信ずれば則ち人に制せらる》の正反対の言葉が、《信なくば立たず》。これは『論語』の言葉。

孔子に始まり孟子さらには荀子へと継承されていく儒家の思想は、人間の善意への信頼、人間同士の信義……が人間存在の条件であるとしてきた。

子貢「食料、軍備、信義、この三者のうち何が不可欠でしょうか?」
孔子「それは、信義だ。人間は死から逃れられない以上、飢餓と安全もある意味では犠牲にせねばならないこともあろう。しかし、信頼・信義は違う。これがなければ人間はそもそも存在しないのだ」(『論語』顔淵) 「信なくば立たず」、今日でも政治家のキャッチフレーズとして使われる言葉だが、韓非はそういった楽天主義を、ものの本質がまったく理解できていない愚かで浅薄、それゆえ間違いと不幸を招来する考えとして切り捨てるのである。(p101)

上が『論語』の言葉。次は『孟子』の言葉。

宋牼(そうけい)という墨家の非戦論者と孟子の会話が告子下篇に見える。

「わたしは戦争がいかに不利益であるかを力説することで戦争をやめさせたい」
孟子「あなたは、利ということをもって説得し、説得されたほうも利益に従って撤兵し、兵隊たちも闘いを喜んでやめ、利益を第一と考えるでしょう。臣下は利のうえから君主に仕え、子たるもの打算のうえから親に仕え、弟たるもの打算のうえから兄に仕えるということになります。これでは、君臣兄弟すべて仁義をうちやり利益・計算だけを考えて人間関係をもつ。そのような状態が長く続いた国はありません。利益を捨てて仁義のみによって人間の関係を保つべきです」(『孟子』告子下)(p92)

この文《君臣父子兄弟、利を去り仁義を懷(おも)いて、以て相接するなり》も『韓非子』の考えと正反対だ。『韓非子』は、「人は利で動く」とし、仁義を否定する。

徳・仁・義をその根本倫理に置く儒家思想、その出発点は血の繋がりにもとづく人間関係、親と子、家族である。家族の結びつきに認められるアプリオリな[先天的な--引用者]意識・感情、つまりそれは親が子に対する愛情、子が親に懐(いだ)く敬意(孝)、兄弟間の融和と尊敬(悌)であり、これらは生まれながらにして備わる人間の善意と考えるのである。[中略]

[さらに]家族の情を根本に、それを君臣関係に拡大擬制することで、国家権力の承認に転化させること、これが儒家の唱えた統治イデオロギーであった。(p94)

この主張に対して、韓非は唾棄するがごとく否定する。

韓非にとって、あまりに理想主義的、楽天的で、実現にほど遠く、しかしながら、したり顔で倫理道徳の実現を説く思想、まったくもって現実離れしているがゆえ、どうにも我慢できない一派、それは儒家であり、とりわけ孟子の思想であった。(p94)

《人を信ずれば則ち人に制せらる》 ── 『韓非子』の主張

《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》は『韓非子』備内篇の冒頭にある。

君主にとって、人を信ずることは有害である。人を信ずれば、自分がおさえられる。

臣下は、君主と血縁関係があるわけではない。君主の力におさえられて、やむをえず服従しているだけだ。[中略]

君主がわが子を盲信すると、腹ぐろい臣下は君主の子を利用して私欲をとげようとする。[中略]

君主が妻を信ずれば、腹ぐろい臣下は君主の妻を利用して私欲をとげようとする。

出典:西野広祥・市川宏 訳/中国の思想 [I] 韓非子徳間書店/p40

さらに備内篇が続けて言う。

君主の妻は、血縁関係になく、老いて容色を失えば寵愛を失って自分が生んだ子も愛されなくなる。しかし子供が君主になれば国母としてやりたいことは何でもできる。だから妻は夫の死を願うのだ。(p41)

これは中国の庶民においても似たようなもの。夫の家に嫁いだ妻は血縁関係になく、現代中国の宗族社会では妻は夫と姓が別だ。極論を言えば中国における妻は跡継ぎを生む道具に過ぎない、と岡田英弘氏主張した*1

「人は利で動く」

儒家は人間同士の信義をもって人間存在の条件、言い換えれば信義が無ければ「人でなし」、と考えていた。

ところが、『韓非子』はそれを否定し人間存在の条件とか性善説性悪説などという議論をことごとく否定して、人間はただただ利益を求めて行動するという性質にだけ言及している。

人は己の利益を求めて行動する。利益とは、金銭的、物質的な実利はもちろんのこと、名誉、自己満足も含み、いってみればすべて己にとってプラスになるもの、ひとはそれを無意識のうちに計算し、それを得ようと行動する、人間のもって生まれた性とは所詮そんなものだと、韓非は明快に言い放つ。[中略] これが韓非の主唱するところなのである。(冨谷氏/p90)

以下は『韓非子』からの引用。

人を雇って農事をしてもらうのに、主人が美味しい食事を作って雇い人に食べさせたり銭布を調達して支払ったりするのは、雇い人を愛するからではなく、彼に良い仕事をしてもらおうとするからだ。雇われた者も一生懸命に働くのは、主人を愛するからではなく、そうすれば美味しいものが食べられ、金がもらえるとふんでいるからだ。自分のプラスのみを考える、だから人が事業をおこなったり、物を与えたりするとき、互いに得をすると思えば仲よくなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生ずる。(外儲説左上)(p89-90)

上の『韓非子』からの引用は我々にとってあたり前のことのように思えるが、当時(戦国末)の儒家の愛だの信義・仁義だのという主張に反駁しているわけだ。

ただ、『韓非子』は信義・仁義だけではなく、感情や情緒的なもの一切を些末なものと考えているような気さえする。

まとめ

そして人間の感情的なものを思考の外に置いた『韓非子』は「人は利で動く」という一点だけを前提にして論を組み立てる。

家族関係は、(儒家の主張する)愛や孝などで結ばれているのではなく打算・利益によって結ばれている。家族関係からしてそうなのだから、君臣関係ならなおさらそうだ。

君主たるもの君臣が信義で結ばれているなどと信じれば、寝首をかかれる。それだけではなく、妻には(比喩ではなく)寝首をかかれないように十分に注意すべきだ。

これが人間不信に至る考え方だ。

そして

「人は信用できない。信義など期待しない」、人間に対する不信、これが韓非の思想の基礎であり、出発点だったのである。(p101)

おまけ

現代中国では庶民に至るまで、『韓非子』の考え方が浸透している。このことは岡田英弘氏、宮脇淳子氏、石平氏らの書籍を読めば理解できるだろう。

さすがに、『韓非子』ほどドライではないが、日本人の情緒で中国人に接すれば、《信ずれば則ち人に制せらる》どころか、資産を吸い取られた後にお払い箱にされる。中国大陸に進出した日本の企業を思い起こせばすぐに理解できるだろう。



*1:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001 (『妻も敵なり』(1997)を改訂)/p84

法家(8)韓非子(『韓非子』の「徳」/「徳」の原義)

諸子百家のシリーズで「徳」に関する記事を何個か書いたが、今回やっと納得できた気がする。

韓非子』の「徳」にからめて書いていこう。

諸家の「徳」

現代の日本では「徳」は儒家が唱えた概念、つまり「仁愛にもとづく人倫道徳の概念」 *1 に近い意味で使われることが多い。

道家のそれは《道家(28)荘子(徳/徳充符篇/明鏡止水)》で書いている。

さて『韓非子』二柄での使われ方を引用する。

名君は二つの柄(え)を握るだけで、臣下を統率する。二つの柄とは刑・徳のことである。刑・徳とは何か。罰を加えることを「刑」といい、賞を与えることを「徳」という。臣下というものは罰をおそれ賞をよろこぶ。君主が二つの柄を自分の手で握っていれば、臣下を「刑」でおどし「徳」で釣り、思いのままにあやつることができる。

出典:西野・市川氏/p28

「刑・徳」はつまりは「アメとムチ」で、「徳」とは「アメ」にほかならない。『韓非子』に出てくる「徳」は基本的に「アメ」程度の意味に考えておけばいいらしい。

「徳」の原義

さて、戦国時代の思想家たちはこの「徳」の概念を意味は違えど重要視していた。そうなると思想家の色眼鏡にかかっていない本来の「徳」の意味とはどういうものだったか。

「徳」という漢字の語源をネットで調べると、諸説あるのだが、一番多く見られる説は
《彳+直+心》
で元々は「悳」という字があってこれに彳がついて「真っ直ぐな心で行動する」が原義になった、というもの。この説は儒家の「徳」と直結するが、その他の「徳」とは縁遠い。

次に多かったのが、
《彳+省+心)》
で、これは《彳+省》に心が後から付いた、というもの。これは白川静『字統』にあるようだ。「徳」あるいは「省」の「目」の上にあるものは呪飾(古代の呪術的なメイク?)を表している。古代の為政者たちは目の上にメイクをして地方を視察したらしい。この視察のことを「省」または「省道」という。呪飾による一時的でしかなかった呪力から、次第に恒久的な内面的な力(他人に影響を与える力)へと変化して、それが「徳」の原義となる。そして後になって、「得」と同音であることから「力を与えられて生成されたもの」という意味で使われるようになった。 《入墨と徳について。: Strings Of Life 参照》

いろいろ調べてみると「直」という字は「省」から派生した字だという。そういうわけで、「真っ直ぐな心で行動する」という説は間違いだ、というのが私の結論だ。

「徳」という字は西周の金文に見られ、小南一郎氏によれば、「徳」の意味は「ある家系が王権との関係を通して持っている生命力」を意味することが明らかになっている *2

冨谷氏によると小南氏による「徳」の定義は「天上に源泉する生命力」だそうだ(冨谷氏/p143)。

さて、初期の儒家つまり『論語』では「徳」を以下のような意味で使っている。

「子曰、天、徳を予に生(な)せり。」(『論語』術而)(冨谷氏/p143)

意味は「天はわたしに使命を果たすべき力を与えてくれているのだ」。

儒家が用いる「徳」が道徳的な意味合いを持つようになるのは孟子からかもしれない。

そして、儒家の「徳」が「仁愛の力」、『韓非子』の「徳」が「カネ(アメ)の力」で、「他人に影響を与える力」ということは共通している。




本当は、『韓非子』の「徳」をメインにしなければならないのだが、「徳」の原義でやっと納得が言ったので、こちらがメインになってしまった。


*1:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p141

*2:保立道久『現代語訳 老子』(ちくま新書/2018/p229-232)で「徳」について解説してあるが、保立氏は小南氏の『古代中国 天命と青銅器』を参照している。

法家(7)韓非子(儒家との比較 -- 「矛盾」と「守株」)

「矛盾」と「守株」は『韓非子』由来の言葉。

この2つの言葉は儒家を批判する文章の中から生まれた。

この記事では2つの言葉をもって『韓非子』が儒家に対してどのような批判をしたのかを見ていく。そこに儒家と法家の違いが見えてくる。

「矛盾」

「矛盾」のエピソードは『韓非子』難一に出てくる。

楚の国に盾と矛とを売る男がいた。かれはまず自分の売る盾の宣伝をした。
「この盾の丈夫さときたら、たいしたものだ。何で突いたって、突きとおせるものではない」
つぎに、男は矛の宣伝をした。
「この矛のするどさときたら、たいしたものだ。どんなものだって、突きとおせないものはない」
ある人がたずねた。
「その矛でその盾を突いたら、どうなる」
男は答えにつまってしまった。
何によっても突き通すことができたに盾と、何でも突きとおすことのできる矛とが、同時に存在することはできない。

出典:西野広祥・市川宏[訳]/中国思想[I]韓非子徳間書店/1996/p151

上は現在通用する一般の「矛盾」の意味の語源。

さて、『韓非子』はこのエピソードをもって何を批判したかったのか?それは同時代の儒家と、儒家が崇め奉る聖人の堯と舜だ。堯と舜の両者は天下を良く治めた聖人で、堯は舜に禅定したとされる。

韓非子』難一によれば、堯が天子(君主)だった時、舜は3つの地方の混乱を治めて正常化し、3年で天下を正常化した。これをもって儒家たちは舜の仁徳を称賛する。

しかし『韓非子』は言う。「舜が天下を正常化したのなら、その頃 天子であった堯は何をしていたのか?」

韓非子』は《天下を良く治めたのが舜であれば、堯は聖人と呼ばれるほどの人物ではないということになる》と主張する。強引な理屈のような気がするが話を先にすすめる。

韓非子』または法家の立場からすれば、もともと次代の天子の舜が方々を駆け回って混乱を処理する必要はなく、天子である堯が法と権力と官僚体制によって治めれば済むことだ。

さらに言うには、天下には数限りないほどの混乱があるというのにその一つ一つに聖人が出向いて治めようとしたら何年あっても天下を治めることはできない。よって儒家のいうような徳治などできるはずがなく、法家の主張する法治で治めなければならない。法治で天下を治めるのならば、たとえ聖人・名君でなくとも治めることはできる。

以上が「矛盾」のエピソードが出てくる文章の要旨。 *1 *2

守株

「守株(しゅしゅ)」。国語辞書には《いつまでも古い習慣にこだわること。進歩がないこと。》 *3 とある。

北原白秋作詞『まちぼうけ』は「守株」のエピソードを歌にしたもの。このエピソードは『韓非子』五蠹(ごと)にある。

宋の国である男が畑を耕していた。そこへウサギがとびだし、畑の中の切株にぶつかり、首を折って死んだ。それからというもの、かれは畑仕事はやめにして、毎日切株を見張っていた。もう一度ウサギを手にいれようと思ったのだ。しかしウサギはそれきり。かれは国中で笑い者になったという。

出典:西野・市川氏/p82-83

このエピソードを使って『韓非子』は儒家の懐古主義を批判した。

曰く、儒家は古(いにしえ)の聖人を称賛し、大昔の礼を現代に蘇らせて秩序を取り戻そうなどと主張するが、人口増加・領域拡大・日進月歩の技術革新で激しく変化する天下を、古の礼を以って治めようとする儒家は守株の男と何も変わらない。

法によって世の中の激動に即応できる法家との違いを主張している。

(法治の限界は別の記事で書く。)